平常長――+―平常家
(下総権介)|(坂太郎)
|
+―平常兼―――平常重――――千葉介常胤――千葉介胤正―+―千葉介成胤――千葉介時胤
|(下総権介)(下総権介) (下総権介) |
| |
| +―千葉常秀―――千葉秀胤
| (上総介) (上総権介)
|
+―平常晴―――平常澄――+―伊南常景―――伊北常仲
(上総権介)(上総権介)|(上総権介) (伊北庄司)
|
+―印東常茂
|(次郎)
|
+―平広常――――平能常
|(上総権介) (小権介)
|
+―相馬常清―――相馬貞常
(九郎) (上総権介?)
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(????~1183)
上総権介常澄の八男。通称は介八郎。千葉介常胤の又従兄弟にあたり、義理の従兄弟。諱は「弘経」「弘常」とも。官途は上総権介。ただし、広常の官途については、朝廷側の記録においては彼の死後も「介八郎」とあるため、広常の「上総権介」は除目による正規の上総権介ではないだろう。
広常の外甥で尾張の豪族・原大夫高春は、平清盛の末弟・薩摩守平忠度の外舅(忠度母の兄弟)であったようで、平家と広常は希薄ながら血縁関係があったようである(『吾妻鏡』『良峯氏系図』)。広常とどこで接点を持ったがは『吾妻鏡』には記載されていないが、『良峯氏系図』によれば、高春の父・原大夫高成は「従五位下」「上総守(上総介か?)」とあり、上総国の受領として上総国にあった際に関係を持ったのだろう。
+―畠山重能――畠山重忠
|(畠山庄司)(次郎)
|
秩父重弘―+―娘
∥―――――胤正・師常・胤盛・胤信・胤通・胤頼
∥
●平常長――+―平常兼―――千葉常重―――千葉常胤
(上総権介)|(下総権介)(下総権介) (下総権介)
|
+―相馬常晴――平常澄――+―平弘常――+―平能常
(上総権介)(上総権介)|(上総権介)|(小権介)
| |
+―娘 +―娘
∥ ∥
∥ ∥
∥ 平時家
∥ (前少将)
∥
∥―――――原高春――娘
∥ (大夫) ∥
原高成 ∥
(上総守) ∥
∥
平忠盛 ∥
(刑部卿) ∥
∥―――――――+―平忠度
藤原為忠―――娘 |(薩摩守)
(三河守) |
|【鶴岡八幡宮寺宝蔵坊主】
+―義慶
(武蔵阿闍梨)
■源義朝の家子としての活動
父・常澄は、「上総曹司」源義朝を庇護していた関係か、広常は青年期に義朝に仕えて鎌倉にいたようで、保元年中にはすでに鎌倉に館を持っていた。この館は父・常澄の館であったかも。
「上総介八郎広経」は保元の乱(1156)では義朝に随い上洛。このとき「千葉介経胤」「相馬四郎(盛常?)」も義朝の隨兵として上洛をしている。当時は父・上総権介常澄に代わり、鎌倉の館に詰めて義朝の家子となっていたのだろう。保元の乱の従者の中には、のちに木曾義仲に随って活躍をした「木曾中太」「木曾弥中太」「禰井行親」「禰津貞道」らが見えるのも面白い。
●保元の乱に義朝に随って上洛した人物●
| 鎌田次郎正清 | 河内源太 | ||||||
| 近江国 | 佐々木三郎秀義 | 八島冠者重実 | |||||
| 美濃国 | 平野平太行遠 | 吉野太郎 | |||||
| 尾張国 | 熱田大宮司季範 | ||||||
| 三河国 | 設楽兵藤三親兼 | 足助冠者重秀 | |||||
| 遠江国 | 横地 | 勝田 | 井八郎 | ||||
| 駿河国 | 入江左馬允 | 藁科十郎 | 興津四郎 | 蒲原五郎 | |||
| 伊豆国 | 狩野藤四郎親光 | 狩野藤五郎 | |||||
| 相模国 | 大庭平太景能 | 大庭三郎景親 | 山内首藤刑部丞能通 | 首藤瀧口俊通 | 海老名源八季貞 | 波多野小次郎義通 | |
| 武蔵国 | 熊谷次郎直実 | 平山武者所季重 | 豊島四郎 | 箱田次郎 | 河上太郎 | 別府次郎行隆 | 奈良三郎高長 |
| 玉井四郎助実 | 長井斎藤別当実盛 | 斎藤実俊 | 斎藤悪次郎 | 平山城太郎 | 平山次郎 | 久下権守直光 | |
| 岡部六弥太忠澄 | 猪俣小平六範綱 | 金子十郎家忠 | 金子与一近範 | 仙波十郎家信 | 山口六郎家俊 | 河越太郎重頼 | |
| 安房国 | 安西 | 金丸 | 沼平太 | ||||
| 上総国 | 上総介八郎広常 | ||||||
| 下総国 | 千葉介常胤 | 相馬四郎 | |||||
| 上野国 | 八田四郎知家 | ||||||
| 常陸国 | 関次郎俊平 | ||||||
| 甲斐国 | 塩海五郎 | 塩海六郎 | |||||
| 信濃国 | 桑原 | 安藤次郎 | 安藤三郎 | 木曾中太 | 木曾弥中太 | 根井小弥太行親 | 禰津神平貞道 |
| 風間小次郎 |
平治元(1159)年12月の「平治の乱」の際にも「上総介八郎弘常」が義朝に随って上洛を果たした。これはおそらくまだ存命だった父・常澄の指示があったのだろう。そして、大将軍・藤原信頼が守る待賢門が平清盛の兵によって打ち破られた際、義朝は悪源太義平に待賢門内の敵を追い落とすよう命じ、義平は「承り候」と駆けた。これに「鎌田兵衛、後藤兵衛、佐々木源三、波多野次郎、三浦荒次郎、須藤刑部、長井齋藤別当、岡部六弥太、猪俣小平六、熊谷次郎、平山武者所、金子十郎、足立右馬允、上総介八郎、関次郎、片切小八郎大夫」の十七騎が従い、平重盛を追い詰めている(『平治物語』)。
しかし、この「平治の乱」では藤原信頼方が敗北し、源義朝は東国に逃れる途中、尾張国野間郷の郎従・長田庄司忠致(鎌田兵衛正家の女婿)によって討ち取られた。このとき広常は長井別当実盛などとともに義朝に命じられて別行動をとって東国に落ちおり、難を逃れている(『平治物語』)。
■兄常景・常茂の抗争と広常の行動
父・常澄は幼少期の義朝を庇護していたと思われ、親義朝派であったと推測されるが、常澄は永暦2(1161)年正月以降に亡くなり、さらに長寛年中(1163~1166)には、長男の伊南新介常景が二男の印東次郎常茂に殺害された。この常茂は下総国印東庄のほか、上総国内にも長南(長生郡長南町)、武射南郷(山武市上横地周辺)、戸田(山武市戸田)に地主職や権利を有していたようで、長南太郎重常、印東別当頼常、南郷四郎師常、戸田七郎常政の子が見える(『神代本千葉系図』)。とくに長南郡は伊南新介常景・伊北庄司常仲父子の本拠である夷隅郡伊南庄・伊北庄(いすみ市周辺)に隣接しており、権利を巡る争いがあったのかもしれない。
上総国では新介常景亡きあと、印東次郎常茂が親平家の立場で勢力を有したと思われるが、弟・八郎広常もおそらく常茂のもとで親平家の立場を保っていたと思われ、嘉応2(1170)年以降に「伊藤右衛門尉忠清被配流、上総国の時、介八郎広常志を尽し、思を運て賞翫し、愛養する事甚し」と、上総国へ流罪となった平家の郎従・右衛門少尉藤原忠清を広常が歓待した様子がうかがえる(『源平盛衰記』)。しかし、忠清は厚免されて上洛したのち、広常に受けた恩を忘れ、上総国の「所職」を奪おうと広常を讒訴した。広常は子の平能常を上洛させて子細を述べさせたが、平家はこれに満足せず、広常自身を召還したため、これに広常は遺恨を含んだという(『源平盛衰記』)。また、ほぼ同様の内容だが、「上総介八郎広常、平家の御勘当にて、その子息山城権守能常、京に召し籠められ候つるが、この程逃げ下りて用心して候とうけたまはる」という逸話もある(『延慶本平家物語』)。
ただ、当時の広常自身は、まだ上総国に対して大きな勢力を持っていたとは思われず、忠清が奪おうとした「所職」は何を指すかは不明。さらに忠清が「上総介」となるのは、治承3(1179)年11月17日、御白河法皇幽閉を行った公家を処分した「治承三年政変」で上総介藤原為保が解官の処分を受けた翌18日のことであり、この逸話には若干の疑問が残る。
上総介となった忠清自身は上総に赴任せず、「目代」を置いていたことが知られ、実質的には目代が国司職を行使していたと思われる。そして、この頃には広常は上総国内に勢力を広げていたようで、「治承三年政変」で伯耆守を解官された平時家(清盛の甥)が上総国へ流罪に処された(時家の継母の讒訴による結果)際には、広常は時家を愛でて、わが娘婿とした。なお、この平時家は平家一門ではあるが、その後も平家一門とは断絶しており、鎌倉幕府成立後は頼朝の信頼篤い側近となっている。
平常澄―――――平広常――+―平能常
(上総権介) (上総権介)|(小権介)
|
+―娘
∥
平時信―――+―平時忠―――平時家
(兵部権大輔)|(権大納言)(伯耆守)
|
+―平時子
(二位ノ尼)
∥――――平徳子
平忠盛―――――平清盛 (建礼門院)
(刑部卿) (太政大臣) ∥―――――安徳天皇
高倉天皇
■源頼朝の挙兵と広常の参戦
治承4(1180)年8月4日、源頼朝は伊豆国目代の山木判官平兼隆を討ち、平家に対して反旗を翻した。しかし8月23日、かつての家子である大庭三郎景親率いる平家勢に相模国石橋山中で敗れ、箱根山中を逃げまわった後、8月28日に土肥次郎実平の勢力下にあった真鶴岬から房総半島へ舟で逃れた(『吾妻鏡』)。頼朝に加担した中村党・三浦党は相模湾の海流に詳しかったと思われ、頼朝も相模国沿岸部を通って三浦党の本拠地だった三浦半島先端部を回って房総に向かったと推測され、海上で三浦半島を逃れた三浦一族と合流したともされる(『平家物語』)。
8月29日、安房国平北郡猟嶋(安房郡鋸南町竜島)へ辿り着き、先について待っていた北条時政以下の出迎えを受けた。ここで頼朝がまず頼りにしたのが広常であった。
9月1日、頼朝は「可有渡御于上総介広常許之被仰合」と告げ、北条時政以下も「各申可然之由」だったといい、異存は誰にもなかったとする。そしてこの日、頼朝が幼いころから「殊奉昵近者」だった安房の豪族・安西三郎景益へ「相催在庁等、可令參上」との書状を遣わし、さらに「当国中京下輩」は悉く召し捕えるべしと命じた(『吾妻鏡』)。
9月3日、頼朝一行は安房国平北郡を発し、広常の館へ向かった。途次夜になったため、路次の民家に止宿したが、このとき平家に加担する長狭六郎常伴が頼朝を討つために手勢を進めていた。しかし、安房国の地理に詳しい三浦次郎義澄はすでに常伴の行動を察知しており、逆に常伴を襲って敗走させた(『吾妻鏡』)。
9月4日、安西景益が一族と在庁を率いて頼朝のもとに参上した。このとき景益は「無左右有入御于広常之許條、不可然」と、広常のもとへ向かうのはよろしくないと告げたという(『吾妻鏡』)。ただし、これは広常が危険な人物であるということではなく、「如長挟六郎之謀者、猶満衢歟」とあるように、平家に加担する長挟常伴のような人物が巷間にいるので、小勢で動くのは危険だという意味であろう。景益は、まず広常らに頼朝のもとへ参上を命じることを進言。頼朝はいったん安西景益の屋敷へ移り、和田小太郎義盛を広常へ、藤九郎盛長を千葉介常胤のもとへ遣わした(『吾妻鏡』)。安西景益の屋敷がどこにあったかはわからないが、在庁官人を率いて参じているので国府(南房総市府中)の近辺か。
9月5日、和田義盛は広常のもとに到着したと思われ、そこで話が交わされたのだろう。広常がこのときどこにいたか定かではないが、頼朝が広常のもとへ移動する際に長狭常伴に襲撃されているところを見ると、頼朝は平北郡から外房の長狭郡(鴨川市)を通って一宮(長生郡一宮町)の広常のもとに向かうルートを計画していたのだろう。和田義盛が広常のもとへ遣わされたのも、広常の遠戚であったという関係の他に、長狭郡は和田義盛の父・杉本太郎義宗(三浦介義明長男)の所領があった所であり、地理に明るかったという理由があったからではなかろうか。
翌6日夜、義盛は頼朝のもとに戻って復命した内容によれば、広常は「談千葉介常胤之後、可參上之由」だったという。9月9日には藤九郎盛長が千葉より帰参して千葉介常胤の協力が得られたことを復命し、「当時御居所非指要害地又非御曩跡、速可令出相摸国鎌倉給」と、鎌倉を推薦したという(『吾妻鏡』)。
9月13日、頼朝は三百余騎の軍勢を率いて安房国を出立し上総国へ向かった。このとき広常は軍勢を集め纏めるのに手間取り、参上できなかったという(『吾妻鏡』)。一方、千葉介常胤は上総国に向かうにあたり、子の六郎大夫胤頼と孫の小太郎成胤に手勢を付けて平家方の目代屋敷を襲わせてその首を取った。9月14日には、千葉に攻め寄せた下総守藤原親正を生捕っている(『吾妻鏡』)。
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| ■:上総氏 ■:上総目代 ■:千葉氏 ■:下総目代 ■:下総国司 |
9月17日、頼朝はなかなか参上しない広常を置いて上総国を出立して下総国へ向かい、下総国府において千葉介常胤以下、子息の太郎胤正、次郎師常、三郎胤盛、四郎胤信、五郎胤通、六郎大夫胤頼、嫡孫の小太郎成胤等と対面している。そしてその二日後の9月19日、広常はようやく軍勢をまとめて隅田川の頼朝の陣に参向したという。広常の率いる軍勢は「当国周東、周西、伊南、伊北、庁南、庁北輩等」の約二万騎だったという(『吾妻鏡』)。
ただし広常の軍勢には、本来真っ先に挙げられるべき国衙のあった「市東」「市西」が含まれておらず、国衙には上総介藤原忠清の派遣した目代の勢力があって、上総平氏は国衙を掌握していなかったのではなかろうか。頼朝が広常を頼ろうとした際に、安西屋敷から一宮方面へ向かったのも、広常が上総国衙ではなく、一宮に居住していたことを物語る。それでも二万騎もの軍事力(多少の誇張はあろう)を招集するのにわずか十日前後しかかからなかった広常の実力を物語ることには影響しない。このとき印東次郎常茂は上洛しており、広常がその留守を守っていたと思われるが、広常は「上総権介」を自称することで、上総平氏惣領の支配下にある勢力の糾合を図ったのかもしれない。なお、『玉葉』によれば、広常は「介八郎」と呼ばれており、「上総権介」職ではなかったと思われる。
これだけ大規模な武士勢力を構築して参陣した広常だったが、頼朝は広常の遅参を怒り、許容の様子がなかったという。その後、広常は詫びを入れてようやく許しを得て従軍したと伝える(『吾妻鏡』)。
なお、鎌倉時代末期に作成されたと思われる軍記物『源平闘諍録』においては、この逸話はなく、9月4日、頼朝は五千余騎という大軍を率いて上総から下総へ向かったとあり、そこで「上総権介広常」が頼朝の御前で跪き、先陣を願い出た(『源平闘諍録』)。その「可相随輩」として、「臼井四郎成常、同五郎久常、相馬九郎常清、天羽庄司秀常、金田小太郎康常、小権守常顕、匝瑳次郎助常、長南太郎重常、印東別当胤常、同四郎師常、伊北庄司常仲、同次郎常明、大夫太郎常信、同小大夫時常、佐是四郎禅師等」が挙げられている。そこに見られる人物名は、そのほとんどが上総権介常澄の子孫であり、広常は上総平氏の惣領的立場にあった様子が垣間見える。
ただ、広常をして「両総平氏の惣領」であったとする説もあるが、常澄の子孫以外で広常に「可相随輩」とされた人物は、大須賀常信・時常、臼井成常・久常のみ(『源平闘諍録』)であることや、広常ではなく平家に加担する一族も相当数いる様子から、両総平氏の惣領とするには疑問が大きい。
なお、臼井成常らの父・臼井太郎常忠は、鎌倉幕府成立後の建久2(1191)年正月1日、千葉介常胤が年始の椀飯を務めたとき、広常の甥・天羽次郎直常とともに年賀の馬を曳いている(『吾妻鏡』)ことや、広常の甥として「臼井十郎」の名が見える(『吾妻鏡』)ことから、上総平氏と臼井氏が同族として扱われていた可能性もある。
●両総平氏系譜(青は広常に「可相随輩」)
平常長――+―平常兼――+―千葉常重 +―臼井成常
(下総権介)|(下総権介)|(下総権介) |(四郎)
| | |
| +―臼井常安―――臼井常忠―+―臼井久常
| (六郎) (太郎) (五郎)
|
+―大須賀常継――大須賀常信――大須賀時常
|(八郎太夫) (太郎) (小太夫)
|
| +=千葉常重―――千葉常胤―――相馬師常
| |(下総権介) (下総権介) (二郎)
| |
| +―戸気長実 +―伊北常仲――+―伊北常信
| |(五郎) |(伊北庄司 |(太郎)
| | | |
+―相馬常晴―+―平常澄――+―伊南常景―+―伊北常明 +―伊北時常
|(伊南新介) (次郎)) (小大夫)
|
+―印東常茂―+―長南重常――+―長南久常
|(印東介) |(太郎) |(次郎)
| | |
+―木内常範 +―印東頼常 +―多名気常泰
|(太郎?) |(印東別当) |(三郎)
| | |
+―佐是圓阿 +―南郷師常 +―米満親常
|(四郎禅師)|(四郎) (七郎)
| |
+―大椎惟常 +―戸田常政
|(五郎) (七郎)
|
+―埴生常益
|(六郎)
|
+―匝瑳常成―――匝瑳助常
|(三郎) (次郎)
|
+―平広常――――平能常(常顕)
|(八郎) (小権介)
|
+―相馬常清―――相馬貞常
|(九郎) (上総介?)
|
+―天羽秀常―――天羽直常
|(天羽庄司) (次郎)
|
+―金田頼常
(権太夫)
■兄・印東次郎常茂を討つ
10月2日、頼朝は広常と千葉介常胤が架けた船橋で大井川(太日川、現在の江戸川)、隅田川を渡り、武蔵国に入った。ここで豊島権守清元・葛西三郎清重父子、足立右馬允遠元が頼朝の陣に参じ、頼朝の乳母・寒河尼(八田武者宗綱息女で小山下野大掾政光の妻)が末子を伴って参陣。頼朝は自らが烏帽子親となってこの小山家の末子を元服させ、「小山七郎宗朝(のちの結城朝光)」と名乗らせた。
10月3日、頼朝は千葉介常胤に、上総国の伊北庄司常仲追討の厳命を与えた。常仲が長狭六郎常伴の外甥だったことによる報復とみられる。この時点で常仲は上総にいたことも合わせて考えると、常仲は広常の挙兵時に従っていた可能性は低いと思われるが、『源平闘諍録』では常仲は広常に従ったとの記述がある。ただし、『源平闘諍録』はしばしば事実に矛盾する事柄があることから、軍記物であるという性質を割り引いて考える必要がある。
なお、常仲追討が上総平氏の惣領的立場にある広常ではなく、常胤が命を受けた理由は不明。広常の麾下には「当国周東、周西、伊南、伊北、庁南、庁北輩等」があったとされ(『吾妻鏡』)、伊北庄司常仲に近い人々も含まれていたのかもしれない。または、広常の軍勢は頼朝勢の主力であり、動かすことが物理的にできなかった可能性もある。ともあれ、上総国には常胤の嫡男・太郎胤正らが派遣され、同道した葛西清重とともに大いに戦功を挙げたようだ。ただし、常仲がこの戦いで討たれたかははっきりしない。
10月6日、頼朝は鎌倉に入り、さらに西に進んで駿河国の富士川岸に陣を張った。
一方、京都から大軍を引き連れて下って来たのは若い公達・近衛権少将平維盛。このとき、兄の印東常茂は先陣押領使として加わっていたという(『源平闘諍録』)。このとき、駿河国はすでにその大半が甲斐源氏・武田信義の一党によって平定されており、頼朝は地理に詳しい信義に先陣を依頼した。
11月17日朝、武田信義は一計を案じ、維盛の陣所に使者を送って、維盛の陣に参陣したいが、遠路のためままならず、「浮嶋原」にてお会いしたいとしたが、維盛に従っていた上総介藤原忠清はこれを偽計と見破って使者を切り捨てた。翌18日、武田勢は富士川に陣所を移し、19日明け方に攻め寄せた。このとき維盛の手勢四千騎は陣所を固めて休息していたため、奇襲に狼狽し、ついに退いたという(『玉葉』)。また、『吾妻鏡』では、武田勢の奇襲の際、富士川で休んでいた数万羽の水鳥が、甲斐源氏の気配に驚いて飛び立ち、羽音に驚いた平家の軍は戦う前に西へむかって壊走したとする(『吾妻鏡』)。そして「印東次郎常義」は駿河国鮫島で追いすがる源氏の兵によって討ち取られた(『吾妻鏡』)。なお「義」「茂」の行書体は酷似しており「印東次郎常義」は「印東次郎常茂」と見られる。「為弟弘常被害」(『中条家文書』「桓武平氏諸流系図」)という系譜があり、実際に常茂を討ったのは広常の手勢かもしれない。
富士川の戦いが勝利に終わると、頼朝はそのまま西上して京都に攻め入ろうとしたが、広常・千葉介常胤・三浦介義澄が、
「常陸国佐竹太郎義政并同冠者秀義等、乍相率数百輩、未武衛帰伏、就中秀義父四郎隆義、当時従平家在京、其外驕者猶多境内、然者先平東夷之後、可至関西」
と説得し、広常・常胤主導で佐竹氏討伐が実行されることとなる。
10月23日、頼朝は相模国府に到着。ここではじめての論功行賞が行われたが、一方で平家に加担した大庭三郎景親、長尾新五郎為家、長尾新六定景、河村三郎義秀、滝口首藤山内三郎経俊らが降伏して捕縛され、大将格の大庭景親は広常に預けられることとなった。そして10月26日、片瀬川の河原で景親は斬首された。
10月27日、頼朝は常陸国に佐竹冠者秀義追討の軍勢を発した。そして11月4日、常陸国府(石岡市府中)に着陣。広常、常胤、義澄、実平ら宿老らと佐竹氏討伐の謀を巡らした。そして、「縁者」である広常を太田の佐竹館へ遣わしたところ、秀義の伯父で佐竹家当主の佐竹太郎義政は「即可參」と頼朝の陣に参上することを申し出た。しかし、甥の佐竹冠者秀義、その父・佐竹四郎隆義は要害の金砂城(常陸太田市上宮河内町)へ引き退いて抵抗。一方、義政は広常の誘引で国府へ向かう途中の大矢橋で、広常の手によって殺害された。その手際は「太速」だったという。
ところが、佐竹隆義・佐竹秀義の籠る金砂城はとても人力で攻め落とすことはできない要害であり、佐竹氏の抱える兵も非常に頑強であるとの土肥実平、土屋宗遠の意見があり、頼朝は宿老らに意見を聞いたところ、広常は、
「秀義叔父有佐竹藏人、蔵人者智謀勝人、欲心越世也、可被行忠賞之旨恩約者、定加秀義滅亡之計者歟」
として、頼朝はその策を良として採用し、広常はみずから佐竹蔵人義季のもとを訪れた。義季は広常を迎えると非常に喜んで対面した。広常は、
「近日東国之親踈莫不奉帰往于武衛、而秀義主、独為仇敵、太無所拠事也、雖骨肉客何令与彼不義哉、早参武衛、討取秀義、可令領掌件遺跡者」
と、義季に頼朝に帰順して秀義を討ち、佐竹領を継ぐべしと唆すと、義季はすぐさま帰順し、広常を伴って金砂城の裏手に導いた。ここで広常と郎従らは鬨の声を挙げた。すると、金砂城内では思いもよらないところからの鬨の声に驚愕し、秀義らは周章狼狽した。この隙を狙い、広常は手勢とともに金砂城へ攻め入り、城を乗っ取った。秀義らは金砂城を逃亡し、親類である陸奥国の藤原氏のもと、花園城へ逃れていった。
11月6日、広常は金砂城に入城すると、城壁を焼き払い廃城とした。そして、秀義の行方を捜すため、軍勢を分け各地に遣わしたが、結局捕えることはできず、陸奥国花園城へ逃れたという風聞のみが知らされた。
なお、佐竹家と広常がどのような縁者だったかは不明だが、広常は義政(忠義と同一人物か)とは顔見知りであったことや、佐竹蔵人義季の性格を熟知していたことなどから、広常(上総平氏惣領家)は、両者に共通の縁戚である奥州藤原氏と縁戚関係にあったのかもしれない。
藤原清衡―+―藤原基衡――――藤原秀衡―――藤原泰衡
|
+――娘
| ∥
+―――――――――――+ ∥
| ∥――――+―佐竹義政
| 源義光―――佐竹義業 ∥ |(太郎)
|(新羅三郎)(左衛門尉) ∥ |
| ∥――――――佐竹昌義 +―佐竹隆義―――佐竹秀義
| 平清幹―――娘 (佐竹冠者)|(四郎) (佐竹冠者)
|(吉田次郎) |
| +―佐竹義宗
| |(大夫)
| |
| +―佐竹義季
| (蔵人)
| ∥
+―――――――――――――――――――――娘
11月7日、広常ら佐竹氏追討の諸氏は頼朝の営所に帰陣し、佐竹氏との戦いや秀義の逃亡と金砂城破却を報告している。この佐竹氏追討に際し、先頭を切って突撃した熊谷次郎直実と平山武者所季重に恩賞が与えられた。そして、佐竹宗家から寝返った佐竹蔵人義季については御家人に取り立て、頼朝には叔父の志太三郎先生義広・新宮十郎蔵人行家が頼朝に謁している。その後、頼朝は小栗御厨八田(筑西市八田)の小栗十郎重成の館に立ち寄ったのち、帰国の途に就いた。
なお「治承年中」に、上洛中の神官・大中臣実景の留守中に「信景為根本数代之社■■豊野、赤見、神野屋敷」(鹿島市神野周辺か)を奪われた事件があった(『摂政近衛兼経家政所下文』:「常陸鹿島神宮文書」)。実景は、用事が済んで帰国しようとしたが、「天下騒乱騒動出来、東八州為源家之御沙汰、所々謀反蜂起、世間不鎮之程」のため帰国が叶わず、やむなく京都に残っていたが、鹿島神官の「袈裟子物忌」がその隙をついて「上総権介広常朝臣」と語らい、実景の所領をかすめ取った。その後帰国した実景は「物忌知行非分依令掠望之、任相伝道理」て「本領主実景」に返付することを幕府に訴えたところ、「故大将殿(頼朝)」は「今者、京都御沙汰所、武家不可相交、任先例、可蒙本所御計」と実景へ申し伝えた。このため実景は再度上洛を計画していたところ、「如元可領知之由」の政所下文(摂政家政所下文か)を下賜されたが、結局、物忌がそのまま領していたようだ。そして、物忌は仁治元(1240)年12月1日に死去し、実景の子・信景が「可領掌彼豊野、赤見、神野村屋敷」ことになった。広常が鹿島社物忌と結託して神野村などを押領したのは、香取海を通じて常陸国をはじめ関東中心地への勢力基盤の拡大を狙った広常の考えがはたらいていたのかもしれない。
■鎌倉における広常の活動と最期
広常は草創期の頼朝の挙兵を援け、その覇業の礎を築く。そして、相馬郡や下総藤原氏との関わりの中で脅威となっていた常陸国の清和源氏一族・佐竹氏を、頼朝を奉じることによって追討することに成功した。
治承4(1180)年12月4日、上総国の阿闍梨定兼が鎌倉に召され、鶴岡八幡宮寺供僧職に 補された。阿闍梨定兼は安元元(1175)年4月20日に上総国に流された流人だったが、阿闍梨という高僧であり、「治法」の聞こえが高かった。この頃鎌倉にはそれほどの知音がなく、定兼を召し出すこととし、広常に命じて阿闍梨を鎌倉に招いた。
12月12日、頼朝は新造の御亭(鎌倉市雪ノ下)に移ることとなり、「上総権介広常」の屋敷(鎌倉市十二所カ)から新邸へ入った。このときの広常の屋敷は、かつて鎌倉の義朝に仕えていた頃からの屋敷と思われる。
治承5(1181)年2月1日、足利三郎義兼が北条時政の娘・時子と結婚した。また同日、広常の娘が加賀美次郎長清に嫁いでいる。
平時信――――平時忠――――平時家
(兵部権大輔)(権大納言) (伯耆守)
∥
平常澄――――平広常――+―娘
(上総権介) (上総権介)|
+―娘
∥
逸見清光―――加賀美遠光――加賀美長清
(黒源太) (次郎) (次郎)
6月19日、頼朝は三浦半島に逍遥の旅に出たが、「上総権介広常者、依兼日仰、参会于佐賀岡浜、郎従五十余人悉下馬、各平伏沙上」と、広常は三浦半島の佐賀岡の浜(三浦郡葉山町一色)に郎従五十名を率いて参集した。「依兼日仰」とあることから、このとき広常は上総国に帰国しており、逍遥に合わせて船で三浦半島に渡ってきたのだろう。頼朝一行を佐賀岡浜で出迎えたとき、広常の郎従は下馬して砂上に平伏したのに対し、広常は「安轡而敬屈」のみだったという。これを見た三浦十郎義連は、広常へ「示可下馬之由」したが、広常は、
「公私共三代之間、未成其礼者」
と答えている。「三代」とは常晴、常澄、広常へ至る上総権介三代と思われるが、上総国に強大な力を有した上総平氏の勢力を物語っている。また、広常の父・常澄は「上総曹司源義朝」を庇護していたと思われることから、その子・頼朝に対しては、旗頭として敬うことはしても卑屈なほどへりくだる必要はないとの思いがあったのかもしれない。
このあと、頼朝は三浦義明の旧亭を回り、三浦義澄が催した酒宴に花が咲いた。ここで頼朝は、三浦義明の弟・岡崎四郎義実に水干を与えたが、このとき広常は、
「此美服者、如広常可拝領者也、被賞義実様老者之條存外云々」
と言いはなち、頼朝の面前で義実と殴り合いに及びそうになった。頼朝は「敢不被発御詞」だったが、広常は頼朝の不興を買ったのだろう。しかし頼朝は彼を罰することはなかった。
頼朝の挙兵時の意思は決して東国に武家政権をつくることにあったのではないだろう。ただ、以仁王の令旨を大義名分とした平家追討が大きな目的であったはずである。しかし、平家の軍勢に敗れて房総に命を永らえ、そこで広常や千葉介常胤、佐竹氏たちの利権をめぐる争いの中で、広常・常胤、三浦氏ら東国の武士団に旗頭として担がれ、さらに武蔵国留守所惣検校職である秩父党の勢力もその麾下に取り込み、急激にその勢力が拡大した。だが、ここに及んでも頼朝の意思は京都にあった。平家の大軍を打ち破ったのち京都へ突き進もうとする頼朝を押し留め、佐竹氏討伐に向けさせたのが広常、常胤、三浦義澄ら東国有力武士団だった。彼らは朝廷から任命された受領による受身の政に対抗するべく、頼朝を奉ずることにより、武士による政権樹立を願ったのだろう。
一方、頼朝もこうした有力武士団の思惑を利用し、平家追討はもちろんのことながら、自分を絶対的な頂点とした武士の集団を築きあげるはじめる。しかし、頼朝と彼ら武士団との考え方の相違点は、頼朝はあくまで「朝廷の権威」を重視していたのに対し、有力豪族の中でもとくに広常は平家政権との繋がりを重視した結果から、朝廷重視の考え方に反対の立場をとるようになっていたようである。広常は事あるごとに、
「ナンデウ朝家ノ事ヲノミ身グルシク思ゾ、タダ坂東ニカクテアランニ誰カハ引ハタラカサン」
と発言したという(『愚管抄』)。
ただ、頼朝は広常から不遜な振る舞いをされたとはいえ、表向きには広常を批難することはなかった。そればかりか、寿永元(1182)年8月16日、嫡男・頼家の五夜の儀の奉行を広常に命じるほどであった。彼の武威にあやかったものかもしれない。
寿永2(1183)年10月14日、朝廷は頼朝に対して「東海・東山諸国に関する行政権」を委任する宣旨を発した(『百練抄』)。いわゆる「寿永二年十月宣旨」である。これによって、頼朝は東海道、東山道の属する諸国、王臣家の荘園、寺社領などからの官物、年貢の納入管理を委任され、一定の支配権を得ることとなる。
この宣旨が出された二か月後の12月、広常は梶原景時と双六をしていたとき、ふいに盤を越えた景時によって殺害され、その首級は頼朝に献じられたという(『愚管抄』)。その日付は「而寿永元十二廿二父子共為鎌倉大将被誅了」(『中条家文書』)とある。嫡男・小権介能常も誅され、兄弟一族は捕らえられて所領を没収された。
広常暗殺の年(寿永2年)の『吾妻鏡』は伝えられていないが、翌寿永3(1184)年正月1日条では「去冬、広常が事によって営中穢気の故なり」のため、頼朝は恒例の鶴岡八幡宮参詣を見送っている。
広常暗殺に動いた動機は、東国における行政権が確立したことが挙げられるが、その他の大きな理由は、やはり「何条朝家の事をのみ見苦しく思うぞ」という広常の考え方だったと伝わる。頼朝は、広常を「功有る者にて候いしかど、誰かは引き働かさんのと申して、謀叛心の者にて候しかば、かかる者を郎従に持ちて候はば、頼朝まで冥加候はじ」として殺害したとする(『愚管抄』)。
その後、広常の麾下にあった上総平氏の一党は、千葉介常胤の支配下に置かれることとなった。このころから上総平氏一族のなかでも「常」字から「胤」字を用いる人物が増えていくのは、千葉氏の影響力が想定される。そして、千葉氏は両総に影響力を持つ大大名として発展を遂げていく。
一方、寿永3(1184)年正月8日、上総国一ノ宮(玉前社)の神主・兼重から「故介広常存日の時、宿願ありて甲一領を当宮の宝殿に納め奉る」ということを聞いた頼朝は、「定めて子細あることか」として、側近の大和判官代藤原邦通、一品房昌寛を派遣して、すでに神宝とされていた広常の鎧に代わる鎧二領を奉納させ、広常奉納の鎧を引き取らせた。日頃の広常の態度から、広常の「宿願」を謀反と結びつけていたのかもしれない。
正月17日、邦通・昌寛・兼重は広常奉納の鎧(小桜皮縅鎧)を相具して鎌倉に到着した。頼朝の御所に運ばれた鎧櫃は、さっそく頼朝の手によって開けられ、鎧の高紐に結び付けられていた願文を発見する。頼朝はこの願文を披くが、その願文には謀反を思わせる文面ではなかったばかりか、「武衛の御運を祈り奉るところの願書」であった。
●『上総権介平朝臣広常願文』(『吾妻鏡』)
頼朝はこれを読んで広常を殺害してしまったことを「御後悔に及」んだが、もはや取り返しはつかず、ただ広常の「須被廻没後之追福」を行うことしかできなかった。そして、囚人としていた広常の弟・天羽庄司直胤、相馬九郎常清らは、広常の忠節を賞してただちに厚免した。そして、頼朝は2月14日、「上総国御家人等」に「多以私領本宅如元可令領掌」ことの御下文を下した。
3月13日、尾張国の原大夫高春が鎌倉に召し出された。高春は広常の「外甥」であり、また薩摩守平忠度の「外舅」でもあった人物である。平家の縁戚であったが、広常の甥(おそらく広常の姉の子であろう)だったため、平家を背いて治承4(1180)年、頼朝のもとに馳せ参じて以来、忠孝に励んだ。縁戚の平家を背いてまで広常の好みを選ぶほど、広常とは昵懇の間柄だったのだろう。しかし、広常が殺害されたことで、甥である自分も処罰されることを恐れて頼朝のもとから離れていた。だが、広常は無罪であったことが判明し、一族の所領を元に戻して名誉を回復したことで、その中でもとくに功績のあった高春に謝罪の意味もあって呼び戻したのだろう。「本知行所領」を元の如く領掌することを申し含めたという(『吾妻鏡』)。
●平常長―――相馬常晴――平常澄――+―平広常――+―平能常
(上総権介)(上総権介)(上総権介)|(上総権介)|(小権介)
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+―娘 +―娘
∥ ∥
∥ ∥
∥ 平時家
∥ (前少将)
∥
∥――――――原高春――娘
∥ (大夫) ∥
原高成 ∥
∥
平忠盛―――――――――平忠度
(刑部卿) (薩摩守)
広常の願文が納められた玉前神社の南西、東漸寺谷とよばれる谷地に建立された真言宗寺院・東漸寺には開基の広常の位牌が祀られている。法名は東漸寺殿佛肝悟心大居士。
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