平常長――+―平常家
(下総権介)|(坂太郎)
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+―平常兼―――平常重――――千葉介常胤――千葉介胤正―+―千葉介成胤――千葉介時胤
|(下総権介)(下総権介) (下総権介) |
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| +―千葉常秀―――千葉秀胤
| (上総介) (上総権介)
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+―平常晴―――平常澄――+―伊南常景―――伊北常仲
(上総権介)(上総権介)|(上総権介) (伊北庄司)
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+―印東常茂
|(次郎)
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+―平広常――――平能常
|(上総権介) (小権介)
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+―相馬常清―――相馬貞常
(九郎) (上総権介?)
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(????~1165?)
上総権介常澄の嫡男。母は不明。妻は長狭氏。官途は上総権介。通称は伊南新介。
父・上総権介常澄がいつごろ没したかは不明だが、跡を継いだ常景は「新介」であるから、まだ家督を譲られていないことがわかり、常澄は常景に家督を譲る前に急死してしまったか。
常澄の死後、「長寛年中為弟常茂被害」とあり、長寛年中(1163~1166)、弟・印東常茂に殺害された(『中条家文書』:「桓武平氏諸流系図」)。常景・常仲父子は常茂が権利を有していた長南郡に隣接する夷隅郡伊南庄・伊北庄を本拠としていたため、その勢力争いかもしれない。
常景の子・伊北庄司常仲は叔父の介八郎広常の軍に従って頼朝の挙兵に協力したかは記録がないが、広常は「当国周東、周西、伊南、伊北、庁南、庁北輩等」の軍勢を率いていたことが記載されており(『吾妻鏡』)、伊北庄も上総平氏惣領家の支配下として認識されていたのだろう。ただ、常仲は治承4(1180)年10月3日、頼朝の命を受けた千葉介常胤に派遣された千葉太郎胤正や葛西三郎清重らによって討たれた。常仲は頼朝が安房に上陸した際に敵対した長狭六郎常伴の外甥であったことが追討の理由だが、常仲と常伴が共闘していた可能性も否定はできないだろう。
常仲の甥・伊北太郎胤明は、諱の「胤」字から見て千葉介常胤の支配下に入っていたと考えられ、承久の乱の戦功によって、出雲国内に地頭職を与えられ赴任していった。《伊北氏》
●伊北氏系図●
+―長狭常伴
|(六郎)
|
+―娘
∥―――+―常仲
∥ |(伊北庄司)
∥ |
伊南常景 +―常明――胤明――時胤
(伊南新介) (次郎)(太郎)(又太郎)
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