平常長――+―平常家
(下総権介)|(坂太郎)
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+―平常兼―――平常重――――千葉介常胤――千葉介胤正―+―千葉介成胤――千葉介時胤
|(下総権介)(下総権介) (下総権介) |
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| +―千葉常秀―――千葉秀胤
| (上総介) (上総権介)
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+―平常晴―――平常澄――+―伊南常景―――伊北常仲
(上総権介)(上総権介)|(上総権介) (伊北庄司)
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+―印東常茂
|(次郎)
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+―平広常――――平能常
|(上総権介) (小権介)
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+―相馬常清―――相馬貞常
(九郎) (上総権介?)
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(????~1160頃)
上総権介常晴の嫡男。官途は下総権介(?)、上総権介。通称は不明。兄弟に戸気五郎長実の名が見える(『徳嶋本千葉系図』)。「上総(平)氏」という武士団を築き上げた人物。
父・常晴は天治元(1124)年6月、甥・平常重を養子とし、本来なら常澄に譲られるべきだった下総国相馬郡を常重に継承させた。これは常晴と常澄が不仲であったともされているが、実際のところは不明。
従兄弟の常重は大治5(1130)年6月11日、相馬郡内布施郷を伊勢内宮に寄進し、8月22日に毎年納められるべき年貢量が決められた。そして12月に寄進が正式に認められ、常重は「相馬御厨下司職」に任じられた(『下総権介平経繁寄進状』)。そして下総国府もこれを承認している。その後、保延元(1135)年2月、「地主職(公権とは別の私領主としての権限)」は常重から十八歳になった嫡男・平常胤(のち千葉介常胤)へと譲られた(久安2(1146)年8月10日『正六位上平朝臣常胤寄進状』)。相馬郡司職は国司の任命によるものであり、常重がそのまま就いていたか。
しかし、翌保延2(1136)年7月15日、下総守藤原親通は、相馬郡内の公田からの税が国庫に納入されなかったという理由で常重を逮捕してしまった。その後、常重の身は「旬月(10か月)」の間、牢に押し込められた。その間に、親通の代官である「庁目代散位紀朝臣季経」が「准白布七百弐拾陸段弐丈伍尺五寸」を徴収し、さらに11月13日、牢に繋がれていた常重から「相馬立花両郷」の新券を発給させ、常重の署名花押を責め取った。こうして常重は国司へ相馬郷と立花郷を譲り渡すこととなってしまった。
◎常長周辺系譜
娘 +―平常兼―――千葉介常重――千葉介常胤
∥ |(下総権介)(下総権介) (下総権介)
∥ |
∥―?―+―相馬常晴――上総介常澄――上総介広常
∥ (上総介) (上総権介) (上総権介)
∥
⇒平常長――+―白井常親・・・【下総国白井庄】
(下総権介)|(次郎)
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+―鴨根常房・・・【上総国夷隅郡鴨根郷】
|(三郎)
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+―原 常宗・・・【下総国千田庄原郷】
|(四郎)
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+―大須賀常継・・【下総国香取郡大須賀郷】
|(八郎大夫)
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+―埴生常門・・・【下総国埴生郷】
(九郎)
一方、常重が相馬郡を継承したことを快く思っていなかった常澄は、当時庇護していたと思われる源義朝(上総国で育ち、上総御曹司と称される。源頼朝の父)と結託し、相馬郡の奪取を図った。義朝はこのころ関東地方に勢力を拡げようと画策しており、常澄の「浮言(常澄が相馬郡の領有権を主張したものと思われる)」を利用して、康治2(1143)年、常重から布施郷の「圧状之文(無理矢理書かせた譲状)」を取って実質的に押領した。
しかし、このとき相馬郷はすでに国司・藤原親通によって奪い取られたあとであり、どういういきさつで常重が布施郷を義朝に譲る(責め取られる)ことができたのかはわからない。国司と義朝へ譲り渡した土地は、国司への譲状の系を引く佐竹義宗が寄進した領域と義朝が寄進した領域がほぼ一致することから、同一の地域であることになる。
義朝は天養元(1144)年9月には房総を離れて相模国鎌倉郡に移っており、伊勢内宮の御厨であった大庭御厨に相模国在庁官人・清原安行のほか、三浦庄司義継・義明父子、中村宗平らとともに大庭御厨下司職・大庭権守景宗の館に押し入って、官物・財物を奪い取る濫妨をはたらいた。景宗はこれを内宮に訴え、朝廷は義朝に濫妨停止および犯人の逮捕の宣旨を発布している。
これに対して義朝は伊勢内宮の怒りを解くためか、「恐神威永可為太神宮御厨之由」として、天養2(1145)年3月、「御厨(布施郷)」の「避状」を伊勢神宮に奉り、大治5(1130)年の常重の寄進に続いて布施郷を伊勢内宮に寄進することとなる。「重又令進別寄文」(永暦2(1161)年2月27日『下総権介平朝臣常胤解案』)や「重寄進了」(永万2(1166)年6月18日『荒木田明盛請文写』)など、二重寄進の実態がうかがえる。
これに対して常胤は「上品八丈絹参拾疋、下品七拾疋、縫衣拾弐領、砂金参拾弐両、藍摺布上品参拾段、中品五拾段、上馬弐疋、鞍置駄参拾疋」を国庫に納め、久安2(1146)年4月、「其時国司以常胤可令知行郡務」と、常胤は国司・藤原親通から「相馬郡司」に任じられた。このとき立花郷の返還は認められなかったが、相馬郷については「且被裁免畢」と千葉氏のもとへ返されることとなった。そして8月10日、常胤は相馬郡司として改めて布施郷を伊勢神宮に寄進した。すでに天養2(1145)年3月、義朝による寄進があったが、常胤は「親父常重契状」の通り、領主・荒木田神主正富(伊勢内宮神官)に供祭料を納め、加地子・下司職を常胤の子孫に相伝されることの新券を伊勢神宮へ奉じた(『平常胤寄進状』)。
その後、「平治の乱」で敗れた源義朝が永暦元(1160)年に殺害されると、永暦2(1161)年正月、下総藤原氏とゆかりのあった佐竹義宗が、保延2(1136)年11月発給の常重譲状(国司藤原氏が圧し取る)を継承したとして御厨下司職を主張。常澄・常胤を「大謀叛人前下野守義朝朝臣年来郎従等、凡不可在王土者也」として、その正当性を否定した。
この義宗の主張を見ると、世間では相馬御厨は義朝が下司職として当地支配をおこなっているという認知があったようだ。そして常澄・常胤についても義朝の「年来郎従」であるとしており、敢て名を出しているところを見ると、常澄も相馬御厨について一定の関与を認めることができるだろう。常澄の九男・平常清は「相馬九郎」を称していることから、常清は相馬御厨について関わりがあったと見ることができる。つまり、常澄は常清を実務管理者として相馬御厨に置いていた可能性があろう。
常澄は子息たちを上総国内各地に移して、上総平氏の勢力を拡大。一大武士団を築き上げた。これは、同族である下総平氏の結束がすでに崩壊し、個々の領主として発展していたこととは対照的である。そして、常澄は息子の金田頼次に相模国の在庁官人で三浦郡の三浦介義明の娘をもらっている。この当時、豪族間の婚姻は重要な意味を持ち、上総平氏と三浦氏との間に強い同盟関係が結ばれたことを意味する。
下総国印東庄預所・勾当菅原定隆の命で本家(醍醐寺か)に納める馬が遅延したことについて、本家の御下知状のままに早速手配する旨を弁明した文書には「前権介平常澄」とあり、さらに常澄は「地主」であったことも記述がある(『平常澄解』:「醍醐寺本醍醐雑事記七裏文書」)。そして、これは下総国印東庄の事件であることから、常澄が名乗る「前権介」とは「下総権介」である可能性がある。
大治5(1130)年6月11日には常重が下総権介(除目によるものではないかもしれない)であった(『下総権介平経繁寄進状』)。そして保延2(1136)年7月15日、常重は年貢未進の罪で国司・下総守藤原親通に逮捕され、康治2(1143)年、上総曹司源義朝が「常時男常澄之浮言」を用いて常重から布施郷を強奪しており、このころには常澄は上総権介として上総国にあったことがうかがわれる。これらから考えると、常澄が「下総権介」であった場合、その可能性が高い時期は、保延~康治にかけての数年間か。
その後の下総権介職については、常重の子・常胤は久安2(1146)年8月10日の時点で官職に就いておらず(『正六位上平朝臣常胤寄進状』)、常重の弟に当たる海上常衡は「与一介」とあることから(『神代本千葉系図』)、下総権介職にあった可能性がある。そして、久寿2(1155)年12月29日、小除目によって中原師直が下総権介職に就任(『為親記』)、永暦2(1161)年4月1日には常胤が下総権介だった。ただ常胤の下総権介も除目によるものではなく、在国司的な立場だったのだろう。
常澄の没年は不明だが、永暦2(1161)年正月の「自国人平常晴今常澄父也」(『前左兵衛少尉源義宗寄進状』:『鏑矢伊勢宮方記』)とあり、この時点ではまだ生存していることがわかる。
◎下総権介(在庁)◎
千葉常重→平常澄?→海上常衡→千葉常胤→中原師直→千葉常胤
◎上総権介(在庁)◎
相馬常晴→平常澄→伊南新介常景→印東介(伊南介)常茂→上総権介広常
上総氏や千葉氏、三浦氏、小山氏、狩野氏らが称する「介(権介、大介)」とは、彼らの在庁としての「~(権)介」と、領している地名をあわせて用いている。つまり、千葉介であれば、千葉庄を領する下総権介という意味合いをもつ。
●『平常澄解』(『醍醐寺本醍醐雑事記七裏文書』:『市川市史』所収)
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