平常長――+―平常家
(下総権介)|(坂太郎)
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+―平常兼―――平常重――――千葉介常胤――千葉介胤正―+―千葉介成胤――千葉介時胤
|(下総権介)(下総権介) (下総権介) |
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| +―千葉常秀―――千葉秀胤
| (上総介) (上総権介)
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+―平常晴―――平常澄――+―伊南常景―――伊北常仲
(上総権介)(上総権介)|(上総権介) (伊北庄司)
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+―印東常茂
|(次郎)
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+―平広常――――平能常
|(上総権介) (小権介)
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+―相馬常清―――相馬貞常
(九郎) (上総権介?)
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(????~????)
下総権介常長の五男。通称は五郎。官職は上総権介(除目により任官してはいない?)。官位は不明。下総国相馬郡(千葉県柏市・我孫子市・鎌ヶ谷市・茨城県取手市・守谷市周辺)に住んだため「相馬五郎」を称した。
常晴が相馬郡へ移った理由は不明ながら、父・平常長が持っていた両総各地に持っていた権利を有する土地に子を派遣したことにはじまるか。兄・平常兼は館を上総国山辺郡大椎郷(千葉市緑区大椎町)に移し、鴨根三郎常房は上総国夷隅郡鴨根郷を本拠とした。夷隅郡は忠常以来、両総平氏の根本拠点のひとつだったと思われる。白井次郎常親・原四郎常宗・大須賀八郎大夫常継ら兄弟も下総国開発のために下総国相馬郡に派遣され、常晴は相馬郡内の諸権利を常長から「相承」したと思われる。「自国人平常晴今常澄父也」(永暦2(1161)年正月日『前左兵衛少尉源義宗寄進状』:『鏑矢伊勢宮方記』)とあり、常晴は下総に住んでいたことがわかる。おそらく相馬郡だろう。
■相馬郡を甥の常重に譲る
常晴は相馬郡を「相承之当初、為国役不輸之地、令進退掌」と、相続したのち下総国司との間で「国役不輸之地」として認められた。ただし、これは相馬郡全体ではなく、大治5(1130)年に平常重が布施郷を伊勢内宮へ寄進した際に提出された別添証文『注進 相馬郡布瀬郷証文等事』に見える、「国司庁宣」で「別符」として認められた「布瀬、墨埼」の両郷(柏市布施~我孫子市我孫子周辺か)を指すと思われ、「免除雑公事」とされていた。また、「前大蔵卿殿布瀬墨崎御厨知時、下総守被仰下消息案、在并其返事等」とあることから、常晴は「布瀬、墨崎郷」を伊勢内宮へ寄進し、「布瀬墨埼御厨」が成立。「前大蔵卿殿」が領家になったと思われる。「前大蔵卿殿」が誰なのかは諸説あるが、承保2(1075)年から大治5(1130)年までの大蔵卿は、以下の通り。
●歴代の大蔵卿(『公卿補任』)
| 大蔵卿の姓名 | 就任期間 | 大蔵卿辞後 |
| 藤原長房 | 承保2(1075)年6月~寛治6(1092)年9月7日 | 播磨権守兼大宰大弐 |
| 藤原通俊 | 寛治6(1092)年9月7日~寛治8(1094)年 | 治部卿 |
| 源道良 | 寛治8(1094)年~天永2(1111)年4月24日 | 死亡 |
| 大江匡房 | 天永2(1111)年7月29日~天永2(1111)年11月5日 | 死亡 |
| 藤原為房 | 天永3(1112)年正月26日~永久3(1115)年4月2日(4月1日出家) | 出家、翌日死亡 |
| 藤原長忠 | 永久3(1115)年8月13日~大治4(1129)年11月3日(10月5日出家) | 出家、まもなく死亡 |
| 源師隆 | 大治4(1129)年~長承3(1134)年 |
常重が証文を提出した大治5(1130)年6月の大蔵卿は源師隆で、その前は藤原長忠である。長忠は常重が証文を提出した半年前の大治4(1129)年10月5日に大蔵卿を辞して出家しており「前大蔵卿」となった。彼はそのひと月ほどのちに亡くなっているが、常重の証文中に見える「前大蔵卿」は長忠で間違いないだろう。なお、この長忠の娘は参議・藤原忠能に嫁ぎ、藤原長 成を生んだ。常盤御前の夫になる人物である。
藤原道長―+―藤原頼通――藤原師実――藤原師通――藤原忠実――+―藤原忠通
(太政大臣)|(太政大臣)(太政大臣)(内大臣) (太政大臣) |(太政大臣)
| |
| +―藤原頼長
| (左大臣)
|
+―藤原頼宗――藤原能長――藤原長忠――娘
|(右大臣) (内大臣) (大蔵卿) ∥―――――――藤原長成
| ∥ (大蔵卿)
| 藤原忠能 ∥―――――藤原能成
| (参議) ∥ (修理権大輔)
| 常盤
| ∥―――――源義経
| ∥ (伊予守)
| 源義朝
| (下野守)
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+―藤原長家――藤原忠家――藤原俊忠――藤原俊成――――藤原定家
(権大納言)(権大納言)(権中納言)(皇太后宮大夫)(権中納言)
天治元(1124)年6月、常晴は常重を養子として相馬郡を譲った。常晴はその後、「上総権介」となるが、その任じられた時期は不明。天治2(1125)年より上総介に藤原親隆が任じられているが、彼は遙任と思われることから、在国司的立場で実質的な政務を見たのは常晴と思われる。
上総介から「上総権介」に任じられたと思われる常晴が上総国府にいたかどうかは不明ながら、「上総在国分」(『中条家文書』「桓武平氏諸流系図」)とある系譜があり、上総国府(市原市村上)にも常晴の屋敷はあったのかもしれない。しかし、それ以外に常晴が上総国府と関係を持った史料はなく、孫である伊南常景・印東常茂は上総国夷隅郡(いすみ市)や長南郡(長生郡長南町)を領し、介八郎広常や上総権介秀胤(千葉介常胤の曾孫)はそこからさほど離れていない「一宮(長生郡一宮町)」を本拠としており、夷隅郡を中心とした周辺地域を本拠と定めていただろう。
一宮は上総一ノ宮である玉前神社があり、広常が頼朝の祈願成就を願って鎧を奉納したことは有名。市原の上総国府の西3キロ、海岸沿いにも「玉前」という地名(市原市玉前と国分寺)が残っており、一ノ宮玉前神社を勧進していたのかもしれない。
没年不明。康治2(1143)年にはすでに嫡子・平常澄が活躍をしていることから、これ以前に没したと思われる。
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