原上総介胤貞

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~原氏歴代当主~

当主 原胤高 原胤親 原胤房 原胤隆 原朝胤 原基胤 原胤清 原胤貞 原胤栄 原胤義 原胤信
通称 四郎 孫次郎       孫次郎 孫次郎   十郎 十郎 主水助
官途   甲斐守
式部少輔
越後守
越後入道
宮内少輔 淡路守   式部少輔 上総介 式部大輔 刑部大輔  
法名 光岳院? 貞岳院? 勝岳院
勝覚
昇覚
不二庵
全岳院
善覚
太岳 継岳 超岳院 震岳院?
道岳?
弘岳大宗 震嶽道雄  

 

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原胤貞(????-????)

 原式部少輔胤清の子。通称は孫次郎。官途は上総介。法名は震岳(『千学集抜粋図』)道岳(『手賀原氏系図』)

●『原氏略記』による系譜

 原胤高――原胤親―+―原光胤―――原胤直―――原胤栄
(四郎) (甲斐守)|(豊前守) (式部大夫)(大蔵丞)
          |
          +―原胤平―+―原胤定―――原胤清――――原胤栄
          |(遠江守)|(上総介) (式部大夫) (式部大夫)
          |     |
          |     +―原胤安
          |
          |
          +―原胤房―――原胤茂
           (越後守) (筑後守)

…天文七年鴻台に戦ひ、義明大敗して父子ともに戦死す、小弓主無し、千葉昌胤即小西城主上総介胤定を之に居らしむ、胤定は胤平の子なり、胤平遠江守と称す、二子あり、胤定胤安是なり、胤定才略あり…(『原氏略記』)

 ともあり、実父は原遠江守胤平(原遠州善岳〔『本土寺過去帳』〕)とされている。この胤平は原甲斐守胤親の子であるという。また、弟には「胤安」がいたとするが、この胤安は千葉宗家の側近として活躍した原山城守胤安を指していると思われる。また、胤定はもともと小西城主であったという(『原氏略記』)

 ただし、この系譜に見る「上総介胤定」「式部大夫胤清」は父子逆転しており、信憑性には疑問がある。

 胤貞はもともとは牛尾家を相続していた様子がうかがえ、天文19(1550)年11月23日の妙見菩薩の金剛授寺への遷宮式にあたり、「牛尾孫次郎胤貞」「大檀那新介平親胤」「原式部太夫胤清」と並んで神馬などを寄進している(『千学集抜粋』)

 永正年から天文年ごろの下総国は足利高基(古河公方)と足利義明(小弓御所)との間で抗争が起こっており、千葉宗家および原氏は永正14(1517)年に、原氏が城主だった小弓城を足利義明に攻め落とされた経緯から、古河公方・足利高基に味方して小弓公方と対立していた。そんな中で足利高基が「千葉介殿(千葉介昌胤)」へ宛てた年未詳11月27日の書状に、「臼井不忠千代未聞候」と見える部分があり、佐倉城の前線基地である臼井城主・臼井景胤が小弓公方側について、高基や千葉介昌胤と対立関係にあった様子が見える(『渡辺正胤氏所蔵文書』:「千葉氏 室町・戦国編」所収)。また、同文書には「昌胤并海上、原其外令供奉候、感悦候」とあり、千葉介昌胤や海上氏・原氏らは高基方で活躍していたことがうかがわれる。

 しかし、天文7(1539)年10月7日、義明が国府台の戦いで戦死すると景胤は降伏したか。その後、臼井城は原氏に与えられることとなるが、旧領主・臼井氏は平安時代後期から四百年もの間、臼井庄に繁栄していた大族であり、原氏の支配は容易に進まず、胤貞は娘(原上総介胤定息女)を景胤に嫁がせ、縁戚になったと伝えられている。その後、胤貞は本拠地である小弓城へ戻ったか。

臼井城
臼井城本丸より印旛沼を望む

 天文24(1555)年6月23日、八幡庄の中山法華経寺に対して胤貞の名で寺領安堵状が出されている。つまり、八幡庄の原氏領の進退権を得ていると思われることから、このころ胤清から家督を譲られたと思われる。同年10月10日、長年の宿敵・正木左近大夫時茂が千葉に乱入してきたため、胤清・胤貞が主導で行う千葉介親胤の元服式が延期され、実際に行われたのは12月23日となった。このころの小弓原氏は側近の筆頭としての地位を確立していた。

 弘治3(1557)年10月15日、臼井景胤は病死したが、死ぬ直前に嫡男・久胤に対して、「小弓城の原胤貞をここに招いて土地を守れ」と遺言をしたという。久胤は遺言通り、胤貞を招いて臼井城の本丸を明け渡したというが、胤貞も久胤のための館を城門のそばに建てたと伝えられる。その後、胤貞は臼井で善政を敷いたために、本来の領主である久胤の影は薄くなってしまったという(『原氏略記』)

 天文24(1555)年の正木氏の下総乱入以降、上総と下総では原氏と正木氏の争いが続き、永禄3(1560)年12月24日、長尾景虎太田資正(岩槻城主)に対して、原氏と正木氏の争いを鎮めるよう命じている。この頃、景虎は主筋に当たる関東管領家・上杉憲政に依頼されて北条氏康攻めのために出陣しており、このときは上野国厩橋に駐屯していた。

 長尾景虎と正木氏とは「雖遠境候、年来別而申通之間」であり、「原方迩可存替覚悟毛頭無之候」であると申し伝えている。つまり、関東の静謐を求める長尾景虎は、原胤貞正木時茂の和睦を勧める一方で、このことは別に原胤貞に味方をしているわけではないということを正木氏に伝えているのである。

 永禄4(1561)年2月、長尾景虎は小田原城に向かって出陣したため、北条方であった胤貞は下総国の守備のために上総国から軍勢を戻さねばならなくなり、正木時茂はこの隙を突いて上総国を制圧。さらに里見義堯・義弘正木時忠の水軍を指揮して武蔵国六浦に渡り、長尾景虎の小田原包囲網の一翼を担った。

小弓城
小弓城址

 正木時茂はさらに上総から下総へ侵入し、千葉氏の本拠地をつぶす作戦に出た。時茂は東下総から侵入して香取郡を荒し、胤貞の守る臼井城にも攻め寄せ、臼井城は陥落した。このとき、臼井城旧城主・臼井久胤は城を逃れて結城氏を頼ったという。

 胤貞は嫡子・原十郎胤栄が籠る小弓城に逃れたが、時茂は小弓城も攻め落とし、胤貞・胤栄佐竹義昭と対陣していた千葉介胤富のもとに逃れた。時茂はこののち鎌倉へ渡って里見義堯と合流している。

 一方、長尾景虎主導の小田原包囲網であったが、長滞陣による兵糧不足のために失敗し、景虎は鎌倉に退いた。ここで景虎は閏3月16日、鶴ヶ岡八幡宮にて上杉憲政から「関東管領」「上杉家督」「家紋」「系図」を譲られて「上杉政虎」を称することとなる。

政虎の「政」は憲政からの偏諱である。

 政虎は足利晴氏(北条氏に捕らえられて相模国波多野で病死)の遺児のうち、嫡男・足利藤氏(将軍・足利義藤の偏諱で元服)を新たな古河公方として擁立し、関宿城の簗田晴助(中務大輔)をその後見に任じた。また、上杉憲政(前関東管領)・近衛前久(前関白)も古河城に入れると、自らは越後へ帰国した。

 しかし、この翌年には北条氏の勢力が上杉勢を凌いで攻勢となると、政虎が擁立した古河公方・足利藤氏の籠もる古河城は風前の灯となる。このため、足利藤氏、藤政、輝氏ら兄弟は里見氏を頼って上総へ逃れ、上杉憲政・近衛前久も越後の政虎を頼った。こうして北条氏康は自分の外孫にあたる足利義氏(藤氏の弟)を新たな古河公方に推戴し、上総国佐貫城へ「移座」が実行された。北条氏の勢いが盛り返すと、原胤貞も里見勢が籠もっていた生実城に猛攻をかけて奪還に成功した。

 里見義弘は上杉勢が越後に退くと、北条氏の攻勢に耐えられず、苦労して手に入れた下総・上総の占領地を放棄して安房国岡本城に退いた。しかし義弘の抵抗は続いており、安房水軍を動かして相模国三崎に攻撃をかけている。北条氏にも伊豆水軍など強力な水軍があり、氏康は水軍を動かして撃退。龍崎縫殿頭兄弟三人の他、二十人が討ち取られたという。

 永禄6(1563)年、上杉輝虎(将軍・足利義輝の偏諱にて政虎を改名)はふたたび関東に出陣。古河城を落として、里見氏の庇護下にあった足利藤氏を古河城に戻した。しかし、輝虎は世情不安定な越後を長い間留守にして関東に常駐するわけにはいかなかった。上杉勢が関東から去ると、当たり前のように古河城は北条氏によって落とされ、藤氏は小田原に拉致されてしまう。これを聞いた輝虎は、ふたたび関東に出陣し、12月27日、里見氏に対して出陣を要請した。これに応じ た里見義弘は、永禄7(1564)年1月、下総国国府台(市川市国府台)に出陣したが、北条勢の猛攻によって里見勢は壊滅。里見氏はここに下総・上総の拠点をすべて失った。

●関東の情勢●

北条氏康 × 上杉政虎
北条氏康(小田原城主) × 上杉政虎(関東管領)
足利義氏(晴氏弟) × 足利藤氏(古河公方)
   上杉憲政(前関東管領)
千葉介胤富(下総佐倉城主) × 里見義弘(安房館山城主)
原胤貞(下総臼井城主) × 正木時茂
原胤栄(下総小弓城主) × 正木時忠(上総勝浦城主)
高城胤辰(下総大谷口城主) × 佐竹義昭(常陸水戸城主)
酒井胤敏(上総東金城主) × 酒井胤治(上総土気城主)

 胤貞は1月11日、正木氏の手にあった臼井城を攻め落とし、旧領を奪還した。第二次国府台の戦いには千葉介胤富原胤貞高城胤辰らが北条氏康に味方して里見勢に攻撃をかけている。

 永禄8(1565)年2月、胤貞は酒井胤敏(東金城主)を率いて、上杉輝虎に内応した土気城主・酒井胤治を攻撃しているが、原氏はこの戦いで「原弥太郎・渡邊孫八郎・大畑半九郎・大厩藤太郎・鈴木某」など五十人が討ち取られている。また、胤治の子・酒井左衛門二郎は、酒井宗家である酒井胤敏を攻撃し、「河嶋新左衛門尉・市藤(市東?)弥八郎」など百人を討ち取ったという。こののち、酒井胤治の援軍要請に動いた上杉輝虎は再び関東に出陣し、胤貞の居城・臼井城を囲んだ。北条氏はこの原氏の危機に対して、松田肥後守の大軍を遣わし、千葉介胤富も五百の兵を派遣。臼井城も守りが堅く、上杉勢はこれを落とすことなく、将軍・足利義秋の命によって越後へ退却した。

下総酒井氏略系図(一部想像)

       土岐光行                           <土気酒井氏>
         ∥―――光定―教国―浜康持―満持―+―康慶       +―酒井定隆-定治-胤治-康治-重治
 千葉介頼胤―+―娘                |(豊後守)     |
       |                  |          |<東金酒井氏>
       |                  +―春利(=治敏?)―+―酒井隆敏-敏治-敏房-政辰-政成
       |                   (式部少輔)
       |<下総千葉氏>                 
       +―胤宗――貞胤―氏胤―満胤――兼胤―――胤直――胤将

 同年5月15日、上総国八剣神社司・八剣左門に対して祈祷書の請取状を出している。また永禄9(1566)年6月12日、上総国真里谷妙泉寺に寺領安堵状を与えている。つまりこの頃には上総国真里谷から八剣神社(木更津市)周辺は原氏の所領であったと考えられる。これは第二次国府台の戦いの敗北によって里見勢が上総から撤退したことを意味するものであろう。

●参考資料●

『房総叢書』 第五緝
『本土寺過去帳便覧』 下巻
『千葉県東葛飾郡誌』
『中世房総』中世房総の芸能と原一族 ―本土寺過去帳の猿楽者―  浜名敏夫著


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