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~原氏歴代当主~
| 当主 | 原胤高 | 原胤親 | 原胤房 | 原胤隆 | 原朝胤 | 原基胤 | 原胤清 | 原胤貞 | 原胤栄 | 原胤義 | 原胤信 |
| 通称 | 四郎 | 孫次郎 | 孫次郎 | 孫次郎 | 十郎 | 十郎 | 主水助 | ||||
| 官途 | 甲斐守 式部少輔 |
越後守 越後入道 |
宮内少輔 | 淡路守 | 式部少輔 | 上総介 | 式部大輔 | 刑部大輔 | |||
| 法名 | 光岳院? | 貞岳院? | 勝岳院 勝覚 昇覚 |
不二庵 全岳院 善覚 |
太岳 | 継岳 | 超岳院 | 震岳院? 道岳? |
弘岳大宗 | 震嶽道雄 |
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原宮内太輔胤隆の子。通称は孫次郎。官途は式部少輔。法名は超岳(『千学集抜粋』)。
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| 根木内城 |
文亀3(1503)年、伊勢宗瑞(北条早雲)が大軍をひきいて葛飾郡まで攻め寄せたが、胤清は千葉勢の総大将として出陣して北条氏を追い払った。さらに永正7(1510)年8月10日の里見氏の侵攻も防いだ。
永正10(1513)年、北条氏綱・氏康は下総の侵攻を目指して武蔵に出陣した。これに胤清は葛飾郡に出陣して北条勢と対陣したが、氏綱と軍を交えること数回にして北条勢を壊走させたという(『手賀原氏系図』)。
しかし永正14(1517)年、居城の小弓城が上総武田氏と足利義明に攻められ陥落。胤清は「家郎」の高城氏の居城・根木内城(松戸市根木内)に逃れた。
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| 小弓城址 |
小弓公方・足利義明との争いは、父・胤隆の代から断続的に続いていた。永正15(1518)年8月16日、足利義明の弟・足利基頼は町野淡路守を遣わして、上総国坂田城主・井田美濃守胤俊に宛てて、千葉介勝胤を義明方につかせるように説得している。井田胤俊は、勝胤の嫡男・昌胤の元服式に「屋形様御供」として加わっている重臣である。さらに基頼は、千葉介勝胤のほかに、原孫次郎胤清、椎崎五郎勝信(千葉介勝胤の子)、井田刑部大輔友胤らを味方に引き入れようとしていた。しかし、胤清については「原孫二郎不可顕不忠由」(『足利義明書状』)とあるように、勧誘に失敗している。
勝胤は小弓城を足利義明や上総武田氏から奪還するため、小田原の北条氏綱と結んで小弓城奪還を計画したが、北条氏綱は時が悪いからとして受けず、やむなく勝胤も小弓城の奪還からいったん手を引いた。
千葉介勝胤の嫡男・昌胤が天文元(1532)年に千葉介を継ぐと、胤清は昌胤の執権となった。
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| 国府台の戦い |
天文7(1538)年10月6日に起こった国府台の戦いでは千葉介昌胤・原胤清・井田友胤らが足利晴氏側(高基の子)として出陣した。そして翌7日、氏綱は弟の北条長綱(のちの北条幻庵)とともに足利義明方の砦であった相模台(松戸駅東口の高台)を攻略。あわてて北上した足利義明の軍勢と矢切台で激戦となり、「小弓衆打負、御曹司様、上様、御舎弟基頼御討死」とあるように、足利義明(上様)・基頼(御舎弟)・頼純(御曹司様)といった主将はすべて討死した。さらに小弓城は10月9日、北条氏綱の手によって落とされ、原胤清に返還された。しかし、小弓城は義明の末子・国王丸とその近臣たちによって火を放たれて廃墟と化しており、胤清は城の北方の丘にあらたに生実城を築いた。ここに胤清の嫡男・原胤貞が入城し、胤清は小弓城を作りなおして自身はここを居城とした。
また、義明が頼みにしていた井田友胤も、天文7(1538)年12月20日の古河公方・足利晴氏の書状に「昌胤所へ出頭之儀…神妙之至候」とあるように、千葉介昌胤のもとで、国府台の戦いに参陣したことがわかる。
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| 真間山弘法寺山門 |
小田原北条氏が下総国に影響力を持つようになったのは、この小弓城攻略に発端があるのだろう。小弓合戦から半年後の天文8(1539)年4月20日、北条氏の江戸衆筆頭・遠山綱景が、原氏の所領である八幡庄真間弘法寺の寺領安堵状を出している。そしてその8日後の4月28日、原胤清は「従遠山方寄進候」の土地安堵状を出している(『原胤清書状』)。
これらのことから、原氏は江戸衆を取りまとめる北条家重臣の遠山氏の支配下にあったと考えられる。足利義明が小弓を占領したのち、この八幡庄は義明に召し上げられ、足利家の重臣・逸見氏に与えられたようである。そして足利義明滅亡後は原氏の支配下に戻ったと思われるが、その原氏は遠山綱景の支配下のもと、寄進・安堵した弘法寺の所領は、逸見祥仙が寄進・安堵した寺領と同じ場所である。
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| 千葉町古地図 |
天文13(1544)年7月21日、胤清の名で千葉妙見社の神職・粟飯原左衛門大夫の「大夫司職」の安堵をしている。この前年の天文12(1543)年1月25日、十二代金剛授寺座主・権少僧都範覺が佐倉城内で没しているが、彼は胤清の弟である。
これら二つの事例は原氏が千葉氏の精神的根元である妙見神事に原氏が直接関わってきていることを物語っている。本来、座主職は千葉宗家の庶子がつとめてきたのだが、これが原氏から出されているということは、原氏の勢力が千葉宗家をしのぐほどになったとも考えられる。神職粟飯原氏は、鎌倉時代から代々「文二郎家」が宮司をつとめており、左衛門大夫はその一族と考えられる。室町中期の応仁元(1567)年、「左衛門大夫秀義」という人物が現れている。
天文16(1547)年3月、千葉介利胤は胤清に千葉妙見社の修造を命じ、約3年後の天文19(1550)年に完成した。利胤は妙見社の修造を命じた直後に病死してしまい、完成時の祭主はその子・親胤が執り行っている。妙見社は宝徳3(1451)年の円城寺氏と原氏の争いで延焼し、享徳5(1455)年には、千葉城下が原胤房の攻撃にあって焼失。妙見像は住持の覚実法印によって移されて無事であった。その後、神官や庶民などが嘆き、再建を願い出ていたため、焼失から百年ののちにいたって再建されることとなった。
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| 千葉神社(金剛授寺尊光院) |
天文19(1550)年11月23日、妙見社遷宮式が行われ、祭主は幼少の千葉新介親胤、奉行は本庄伊豆守胤村が執り行った。これに従う者は「原式部大夫胤清」を筆頭とし、本庄伊豆守胤村・原大蔵丞胤安・馬場又四郎胤平・本庄新六郎胤里・粟飯原源公入道・海上山城守胤秀・原九郎右衛門尉胤行・金親兵庫政能・鏑木長門守胤義・牛尾左京亮胤道・牛尾孫二郎胤貞・小川外記政俊・原隼人祐胤次・斎藤源太左衛門尉清家らであった。
胤清はその後も千葉宗家の執政として宗家を支え、一方でかつて宿敵であった北条氏とも緊密な連絡を取るようになり、天文19(1550)年11月23日の妙見社遷宮式では自らがすべてを宰領し、千葉介親胤の後見として参列した。
天文20(1551)年2月15日、金光院に寺領安堵状を出している。
●天文8(1540)年4月28日「原胤清書状」(『弘法寺文書』)
天文19年の妙見宮御遷宮列席者●【■:原一族】
| 名 前 | 説 明 |
| 千葉新介親胤 | 千葉介利胤の嫡男。7歳で千葉新介。弘治元(1555)年12月23日、15歳で千葉介。 |
| 原式部大夫胤清 | 下総国千葉郷小弓城主。筆頭家老。 |
| 馬場又四郎胤平 | 千葉親胤の馬を曳いて奉納する。千葉介胤宗の子・馬場胤重(五郎)の子孫。 |
| 原大蔵丞胤安 | 千葉親胤の太刀を奉納する。小西原氏当主。子孫は千葉氏の直臣となる。 |
| 原九郎右衛門尉胤行 | 原胤清の馬を曳いて奉納する。弥富原氏当主。 |
| 牛尾左京亮胤道 | 原胤清の太刀を奉納する。原氏の一門。 |
| 牛尾孫二郎胤貞 | 原胤清の嫡男・原孫二郎胤貞。 |
| 原隼人祐胤次 | 牛尾胤貞の馬を曳いて奉納する。原氏の一門。 |
| 斎藤源太左衛門尉清家 | 牛尾胤貞の太刀を奉納する。原氏の一族。 |
| 本庄新六郎胤里 | 妙見宮に控え、親胤の馬を請け取る。本庄胤村の嫡男。 |
| 金親兵庫政能 | 妙見宮に控え、胤清の馬を請け取る。千葉郷金親村を本貫とする親胤の近臣。 |
| 小川外記政俊 | 妙見宮に控え、胤貞の馬を請け取る。 |
| 本庄伊豆守胤村 | この祭礼の総奉行を司った。千葉介孝胤の曾孫である。 |
| 小河大膳 | 椎崎五郎勝信(千葉介勝胤の子)の馬を奉納する。 |
| 宍倉与三郎 | 椎崎五郎勝信(千葉介勝胤の子)の太刀を奉納する。宍倉氏の所領・小原郷周辺は椎崎氏の所領。 |
| 三谷下野守 | 成東八郎胤定(千葉介勝胤の子)の馬を奉納する。 |
| 小河新蔵 | 成東八郎胤定(千葉介勝胤の子)の太刀を奉納する。 |
| 円城寺源五郎 | 公津平内信胤(千葉介勝胤の孫)の馬を奉納する。 |
| 湯浅源三郎 | 公津平内信胤(千葉介勝胤の孫)の太刀を奉納する。 |
| 高千代大膳亮 | 寺台城主(海保氏か?)の馬を奉納する。 |
| 瀬里惣九郎 | 寺台城主(海保氏か?)の太刀を奉納する。 |
| 三谷右馬助 | 鹿島大与次胤重(千葉介勝胤の子)の馬を奉納する。 |
| 宍倉惣次郎 | 鹿島大与次胤重(千葉介勝胤の子)の太刀を奉納する。 |
| 牛尾平右衛門 | 牛尾右近大夫の馬を奉納する。 |
| 牛尾兵部大輔 | 牛尾右近大夫の太刀を奉納する。 |
| 鏑木長門守胤義 | 鏑木城主。馬と太刀を奉納する。ほかに、鏑木三郎大夫義兼・鏑木源左衛門義助が参列。 |
●妙見宮御遷宮に神馬を寄進した一族●
| 大須賀 | 大須賀尾張守常安か。 |
| 助崎 | 大須賀伊豆守胤朝か。 |
| 小見川 | 粟飯原胤次入道源公。 |
| 海上殿 | 海上山城守胤秀? |
| 相馬殿 | 相馬因幡守胤広か。 |
| 府馬 | ? |
| 鏑木 | 鏑木長門守胤義。 |
| 米井 | 木内壱岐守胤寛か。東胤頼の子孫で、山室氏を支配下に置く大豪族。 |
| 井田 | 井田刑部大輔友胤。天文元(1532)年11月、山室氏から独立して千葉介昌胤の直臣となる。 |
| 山室 | 山室治部少輔勝信。飯櫃城を中心に強大な軍団を作り上げていた。 |
| 三谷 | 三谷大膳亮信慈入道か。弘治元(1555)年10月18日、井田友胤に討たれる。 |
| 椎名 | 椎名伊勢守顕時か。のち井田友胤の支配下に入る。 |
| 神崎殿 | 神崎上総介朝秀。千葉介胤正の子・遠山方師胤の子孫 |
| 野手 | 椎名一族の野手氏か?下の押田氏も野手を領しており、押田一族とも考えられる。 |
| 押田 | 押田近江守昌定。千葉介昌胤から偏諱か。千葉介輔胤の子孫。 |
| 神能 | ? |
●参考資料●
『房総叢書』 第五緝
『本土寺過去帳便覧』 下巻
『千葉県東葛飾郡誌』
『中世房総』中世房総の芸能と原一族 ―本土寺過去帳の猿楽者― 浜名敏夫著
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