|大野原氏|小西原氏|弥富原氏|本作倉原氏|森山原氏|八王子原氏|手賀原氏|相馬原氏|
〜原氏歴代当主〜
| 当主 | 原胤高 | 原胤親 | 原胤房 | 原胤隆 | 原朝胤 | 原基胤 | 原胤清 | 原胤貞 | 原胤栄 | 原胤義 | 原胤信 |
| 通称 | 四郎 | 孫次郎 | 孫次郎 | 孫次郎 | 十郎 | 十郎 | 主水助 | ||||
| 官途 | 甲斐守 式部少輔 |
越後守 越後入道 |
宮内少輔 | 淡路守 | 式部少輔 | 上総介 | 式部大輔 | 刑部大輔 | |||
| 法名 | 光岳院? | 貞岳院? | 勝岳院 勝覚 昇覚 |
不二庵 全岳院 善覚 |
太岳 | 継岳 | 超岳院 | 震岳院? 道岳? |
弘岳大宗 | 震嶽道雄 |
(????-1536)
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| 原胤隆花押 |
原越後守胤房の子か。小弓城主。通官途は宮内少輔、宮内太輔。号は不二庵。法名は全岳院(善覚)。
●『原継図』(『本土寺過去帳』)
+―一番甲斐守―+―同原孫二郎殿桂覚
| | 六月野田ニテ打■
| +―越後入道勝覚
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| +―不二庵全覚
| 天文五年七月十一日
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+―二番信濃守―+―左衛門朗珍子息朗眞
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| +―信州朗意
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+―三男壱岐守 肥前守行朝
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+―四男伯耆守
文明3(1471)年9月9日、「原越前入道道喜」が「小弓館」を攻められて討死(『本土寺過去帳』九日上段)しているため、原氏の居城であった小弓城は幕府方の手に落ちたと考えられる。この「越前入道道喜」は原胤房であるとされるが、彼は「越後守」であるため別人か。
胤隆は、一族を上総国山辺郡小西郷(山武郡大網白里町小西)におき、東上総にも力を伸ばしていた。
胤隆の名がはじめて文書で見えるのは、文明11(1476)年2月1日の「香取庄青根村」を香取社に寄進した『胤隆寄進状』である。
●文明11(1476)年2月1日『胤隆寄進状』(『香取文書』)
永正元(1504)年4月13日、古河公方家の足利政氏・高基父子の争いの篠塚の陣において「原越後守胤高」は娘婿である木内氏の一族・油田小五郎胤治を討ち、その一族・小見胤仲を上総守護職にしたという。また、上総国真里谷城主・武田氏とも勢力争いを繰り広げている。
小弓城を失った原一族がどこへ逃れたかは不明だが、永正6(1509)年10月には原胤隆が小弓館にいて、連歌の会を催していることが確認できるため(『東路の津登』)、文明16(1484)年ごろ東常縁が美濃へ帰国したのち、小弓城の奪還に成功したのかもしれない。
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| 小弓城下にひろがる平野 |
永正6(1509)年10月、連歌師の柴屋軒宗長が胤隆を訪ね、小弓館のそばにある浜村本行寺(中央区浜野町)に宿泊した。彼は10月14日、15日に行われた千葉妙見祭で三百疋の早馬を見物。16日には猿楽が夜まで催され、17日、小弓の胤隆の館を訪れて連歌会が催された。胤隆は和歌のたしなみも深かったようで、19日に催された連歌会では、宗長をして「こゝろあたらしく風情至極せり」「発句に景気ことつきぬれば、たゞけさのさま計也」と言わしめている。そして夜には胤隆による宗長歓迎の宴が盛大に行われ、謡い、笛、舞などが披露された。宴は明け方まで行われ、宗長は小弓館を辞して本行寺へ戻った。
胤隆が歌に造詣が深かったのは、おそらく当時の下総における歌壇が影響していると思われる。当時の千葉家当主は千葉介勝胤であり、彼は歌人を各地から招き、佐倉には地方歌壇が花開いた。家臣にも和歌をたしなむ人物があり、勝胤が江戸から招いた歌人・衲叟馴窓の歌集『雲玉和歌集』には幡谷加賀守胤相・粟飯原民部少輔信尊・海保丹波守幸清・円城寺道頓(武蔵千葉氏の旧臣)らの名が記される。
その次の日も胤隆と宗長は小弓館にて一日中語りあい、戯れ言なども言い交わしあうほど打ち解けた間柄となっていた。しかし、宗長は翌日にはこの地を経つため、月の出る前に本行寺へ戻ったが、宗長は興奮さめやらぬのか、名残惜しいのかどうも寝られなかったようで、
と和歌を詠み、翌日胤隆のもとへ届けさせ、宗長と胤隆は別れた(『東路の津登』)。
『東路の津登』(『続群書類従』所収)
原宗家は一族の弥富原氏・小西原氏との連携を深めて、強大な勢力を築き上げた。とくに、上総武田氏(武田真理谷三河入道恕鑑)との所領をめぐる戦いは永正年中(1504〜1517)から二十年にも渡って続いていく。これは、古河公方家の足利政氏と嫡子・足利高基との親子喧嘩がもとで起こった戦乱の一端で、父の政氏に加担していた上総真里谷武田氏と、高基に加担した原氏は対立の度を深めていく。
おそらくそのころと思われる某年7月12日、古河公方・足利高基は「原宮内太輔入道殿」に、彼の「長子孫次郎」を古河公方勢の応援として「中途令参上」させたことを褒めて感状を発給している。この「原宮内太輔入道殿」とは胤隆のことであろう。また、「長子孫次郎」「朝胤」とは、「…胤隆讃岐守全岳、朝胤淡路守太岳、基胤孫次郎継岳…」(『千学集抜粋』)とある朝胤と基胤のことと推測される。
●某年7月12日『足利高基感状』(『喜連川家文書案』)
朝胤は胤隆の養子で、胤隆出家ののち家督を継いだと思われるが、胤隆の実子・孫次郎基胤をともない、足利高基のもとで活躍していたようである。また、このころ胤隆は病気になっていたようで、高基は朝胤よりその病状を聞いているので、胤隆からの言上については「不及被仰出候」と労りを見せている。
原氏は戦いのたびに武田勢を撃退しており、武田三河入道は自らの力だけでは「不叶」であると判断し、足利政氏(古河公方)の子・雪下殿空然(鶴岡八幡宮若宮別当)を招き、彼を大将として小弓城を攻めようと画策した。空然は永正7(1510)年、還俗して「足利義明」を称した。
このころ、家督の淡路守朝胤は亡くなったか、胤隆が還俗してふたたび家督を継いだようである。
永正11(1514)年2月7日、胤隆は領内の八幡庄大野郷(市川市大野町)の中山門流の惣導師職に対しての弟子・檀那一円の事、そのほか、大野郷松丸村ならびに中沢郷(鎌ヶ谷市中沢)、宮窪村(市川市宮久保)を「先師之旨」に任せて、中山本妙寺浄光院に対して安堵した。
●永正11(1514)年2月7日『原胤隆安堵状』(『中山法華経寺文書』)
永正14(1517)年5月15日、原氏の重要拠点・弥富(佐倉市)にて原孫九郎(法名は朗久)が討死しているが、上総武田氏との戦いでの討死であろう。
同年10月14日、武田三河入道恕鑑・足利義明の連合軍は小弓城に攻め寄せた。この戦いで「小弓城主」の「原次郎」と家老の「高城越前守父子」が「滅亡」し、「同下野守(高城下野守)」が「逐電」した(『快元僧都記』)。
永正15(1518)年7月、足利義明は占領した小弓城に入り、「小弓御所」と呼ばれることとなる。大永3(1523)年には、義明の弟・足利基頼が常陸から家臣を引き連れて小弓に入った。
永正16(1519)年8月19日、古河公方・足利高基は、支配下にあった大名衆を率いて、義明の重要拠点・上総国椎津城を攻撃した。ここは江戸湾に面した海運の要衝であり、太日川(江戸川)の水運にも影響する重要な地である。この戦いに高基の命に応じた千葉介勝胤・原胤清(胤隆の子)・高城胤吉らが参戦した。
胤隆は天文2(1533)年5月1日、八幡庄の真間弘法寺に寺領を安堵した。その3年後の天文5(1536)年7月11日、豊島氏の居城である相馬郡布川城で没した。
●関東公方家略系図●
+―藤氏(古河落城後は里見義堯に保護される)
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【古河公方】 +―藤政(古河落城後は里見義堯に保護される)
足利成氏―+―政氏――――+―高基―――――+―宮原晴直 |
(左兵衛督)|(左馬頭) |(左兵衛督) |(左馬頭) +―家国(古河落城後は里見義堯に保護される)
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+―上杉顕実 | +―晴氏―――+―義氏――――氏 子
(民部大輔) | |(左兵衛督) (右兵衛佐) ‖ ‖
| | ‖ ‖ 【下野国喜連川藩主】
| +―黒川時氏 +―国朝 ‖―――喜連川義親
| (左兵衛佐) |(左兵衛督)‖ (河内守)
|【小弓公方】 | ‖
+―義明―――――+―頼純―――――――――+――――――頼氏
|(左兵衛督) | (左馬頭)
| +―娘
+―基頼 (宮原晴直妻)
永正13(1516)年ころから上総武田氏と原氏の間で争いが激しくなり、胤隆は武田信保入道如鑑の軍勢を一族(小西城主・弥富城主)や千葉介勝胤とともに防いでいた。しかし武田如鑑は足利義明を擁立して永正14(1517)年10月14日、武田如鑑・足利義明の連合軍は小弓に攻め込んだ。
この戦いで胤隆は、小西城主・原胤継入道行朝(二郎)を総大将として義明軍を迎え撃ったものの、敗れて小弓城は陥落、胤隆らは家老の高城胤吉の居城・根木内城(松戸市根木内)に逃れた。このとき、一族の原友胤父子は甲斐国に逃れて守護・武田信昌に従い、友胤の子は信昌の子・武田信虎の「虎」を賜って「虎胤」と称した。のちの武田二十四将の一人・原美濃守虎胤である。
武田如鑑と組んだ足利義明は、古河公方・足利政氏の次男として生まれ、鶴ヶ岡八幡宮若宮別当であったが、永正7(1510)年に還俗して義明を称した。そのころ、古河では父・政氏と兄・高基との間に争いが起こっており、高基は実力で政氏を追放して古河公方となった。義明も政氏とは不仲だったが、高基とも不仲で、彼に対抗するために長南武田氏を頼って、高基派の原胤隆の居城・小弓城の乗っ取りを画策した。
胤隆は高基から感状を与えられており、嫡男・原胤清、弟・原朝胤らとともに高基派として活動していた。また、千葉介勝胤・千葉昌胤も高基と気脈を通じていた。そんな中で、臼井景胤(カ?)は高基から義明方に寝返った。この離反について、高基は「臼井不忠先代未聞也」としてこれを非難している。
| 古河公方 | 関係 | 小弓公方 |
| 足利高基(古河公方) | 兄弟 | 足利義明(小弓公方) |
| 足利基頼(高基・義明の弟) | ||
| 千葉介勝胤(下総国佐倉城主) | 敵対 | 武田信保入道如鑑(上総国真里谷城主) |
| 原宮内少輔胤隆(元・小弓城主) | ―― | 臼井太郎景胤(下総国臼井城主) |
| 豊島氏(下総国布川城主) | 敵対 | 小田氏(常陸国小田城主) |
| 酒井備中守隆敏(上総国東金城主) | 親類 | 酒井左衛門佐定治(上総国土気城主) |
| 里見太郎義豊(安房国館山城主) |
天文12(1543)年1月25日、十二代金剛授寺座主・権少僧都範覺が四十四歳(四十三歳とも)で佐倉城内で没しているが、彼は胤隆の子であり、13歳から三十年間座主を務めた。座主職というのはこれまでは千葉介の庶子がつとめていたが、これを原氏の庶子がつとめることになったという事は、原氏の勢力が妙見神事(=千葉氏の精神的支柱)に関わるほどに大きくなったことを意味する。
範覺の跡を継いだ常覚(千葉安寿丸)は千葉介勝胤の子であるが、「範覺の甥」ということから、原胤隆の孫ということになる。その後を継いだ覺胤(1538−1581)も千葉介勝胤の子、十五代座主・権大僧都覺全(????−1617)は原氏とつながりの深い千葉介胤富の養子である。つまり小田原の戦いで千葉氏が滅亡するまで、原氏は妙見神事の中枢に関わっていたことが予想される。千葉介勝胤の妻は原宮内少輔胤隆の娘であり、千葉介昌胤は原胤隆娘を母とする可能性もあり、こういったこともあって、原氏は次第に一族の中での発言権を強めていったのかもしれない。
●千葉妙見座主と原氏との関係図●
原宮内少輔胤隆―+―原式部大輔胤清――原上総介胤貞―――原式部大輔胤栄
(????−1536) |(????−????) (????−????) (????−1590)
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|【12代座主】 【13代座主】
+―権少僧都範覺 +―法印常覺
|(1501−1543) |(1527−1570)
| |
+―娘 |【14代座主】
‖―(?)――+―法印覺胤
‖ |(1532−1581)
‖ |
千葉介勝胤 +―千葉介昌胤――+―千葉介利胤――千葉介親胤
(1471−1532) |(1495−1546) |(1515−1547)(1541−1557)
| |
+―慶林院 | 【15代座主】
‖ +―千葉介胤富==権大僧都覺全
‖ (1527−1579)(????−1617)
‖
‖―――――――高城胤辰
高城胤吉 (下野守)
(下野守)
●参考資料●
『房総叢書』 第五緝
『本土寺過去帳便覧』 下巻
『千葉県東葛飾郡誌』
『中世房総』中世房総の芸能と原一族 ―本土寺過去帳の猿楽者― 浜名敏夫著
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