◆平良兼流粟飯原氏◆千葉介常胤流粟飯原氏◆その後の粟飯原氏◆各地の粟飯原氏◆ 〇粟飯原氏とは… 粟飯原氏は、中世の下総国香取郡小見川郷(千葉県香取郡小見川町)一帯を領した千葉氏の古族である。「粟飯原」は「あいはら」「あいばら」と読み、平安時代末期、平常長の四男・粟飯原常基を祖とし、戦国末期までの約五百年、小見川周辺を領した。 しかし、下総国内に「粟飯原」の地名を見ることができず、相模国高座郡粟飯原郷(相模原市)がその発祥地ともされているが、ここを発祥地とする粟飯原氏は、武蔵国の強力な武士団・武蔵七党の一派・横山党の横山孝兼の子孫と考えられ、「粟飯原」「藍原」を称している。ただ、千葉氏流の粟飯原氏とは関係はないだろう。 もしくは小見川のすぐ南に位置する「米野井」が名字地かもしれない。推測に過ぎないが、米野井の「米」と「粟」は五穀で通じ、香取神宮の祭祀との関係があったかもしれない。「粟飯⇒米飯⇒米井」と変わっていったとも思われるが、根拠があるわけではない。粟飯原氏と原氏はその祖・原四郎常宗と岩部常益は兄弟であり、ともに千田庄周辺の豪族であった。岩部常益の子が千田庄のわずかに北にあった「粟飯」に移り、「粟飯の原」ということで「粟飯原」となったのかもしれない。そして、すぐ北の小見川を本拠として勢力を拡げていったとも考えられなくはない。 ●横山党粟飯原氏略系図●
横山孝兼―+―粟飯原時重――+―時広―――娘
左の家紋は、文明年中(1469〜1489)初頭の諸大名の家紋集である『見聞諸家紋』にある粟飯原家の家紋である。『妙見寺本千葉系図』のなかに千葉家の紋として「日月九曜星五根篠」とあり、日月・九曜と並んで、竹(篠)紋も千葉氏の家紋のひとつであったことがわかる。 ほか、阿波国の細川氏の家臣となった幕府奉公衆の流れを組む(とされる)粟飯原氏には、千葉介常胤の木像が伝わっており、その木像の大紋には、月星紋の周りに九星がちりばめられた「十曜内に月星」紋が用いられている。千葉氏の家紋については、同じく『見聞諸家紋』には「九曜紋」を「月星」と記しており、実は室町中期においては千葉氏の家紋は「九曜」が用いられていて、それを「月星」と呼んでいたのかもしれない。ただし、『見聞諸家紋』に記されていた「千葉介」が下総千葉氏であったかは不明。文明年中の幕府は、敵対していた古河公方(鎌倉公方の末裔)と手を組んでいる下総千葉氏を「千葉介」とは認めておらず、武蔵へ逃れていた兼胤流千葉氏(武蔵千葉氏)を「千葉介」としていた。このことから千葉氏は、鎌倉期から兼胤流千葉氏が滅亡した康正元(1455)年までは、九曜紋を「月星」と呼んでいたか? 文明年中の武蔵千葉介は千葉介守胤だが、彼は歌道に興味を持っており、東氏を通じて三条西実隆と交流をもっていた。 ただし、奥州千葉氏や九州千葉氏のように鎌倉期に分流した家でも「九曜紋」とならんで「月星紋」が用いられているということは、やはり「月星紋」というものも存在していたとも考えられる。 ●岩橋輔胤周辺系譜(『千学集抜粋』中心) 千葉介氏胤―+―満胤―――+―兼胤―――+―胤直―――――胤宣 上総介平高望(高望王)の次男。官位は不明。官途は上総介、下総介。平将門の伯父にあたり、千葉氏の祖・村岡五郎平良文の兄である。彼自身「粟飯原文次郎」を称したとされるが実際は不明。上総国武射郡に館(山武郡横芝光町屋形)を構えて住んだという。 下総国豊田郡を本拠としていた弟の平良持(もと鎮守府将軍)の次男・小次郎将門に娘を嫁がせていた可能性が強く、良持家とは親密に関わっていたと思われる。 良持亡きあと、将門は前常陸大掾源護の子、源扶・隆・繁と何らかの対立を起こし、承平5(935)年、扶らに呼び出されて攻撃された将門は、逆に扶らを討ち取った。これに彼らの父親である源護が、娘聟であった常陸大掾平国香、水守六郎平良正と結んで将門追討を開始した。国香・良正はそれぞれ将門の伯父・叔父に当たり、良兼とは兄弟である。 しかし将門は、護や国香・良正の混成軍を破り、国香を彼の本拠である筑波郡石田の館(筑西市東石田)に攻め入って、国香を討ってしまった。この報告を受けた国香の長男・左馬允平貞盛が急遽、京都から帰国するが、貞盛は将門へ恨みを述べるどころか、京都に出仕している自分の代わりに自領の管理も任せた。事の発端が源扶らによる将門攻撃であり、成り行きによって国香も参加して攻められた、という内容を知っていたのだろう。 しかし、もう一人の叔父で筑波郡水守(茨城県つくば市水守)の領主・水守平良正はうまく逃れることに成功し、良兼に援けを求めてきた。はじめは将門と兄弟との合戦には不参加を決め込んでいたが、いざ弟の立場を考えてみると、やはり将門の独断を許すことはできず、ついに立ち上がった。この際に将門の妻になっていた良兼娘について引取が行われたのかもしれない。しかし、その「女論」はおそらく失敗したのだろう。ついに良兼は良正や貞盛(嫌々ながら良兼・良正に説得されて参戦)将門と戦いを起こした。 翌承平6(936)年、良兼は将門と下野国で争うが大敗。命からがら逃げ延びて、朝廷に将門の非礼を訴えたが、将門は自ら上洛して「私君」である太政大臣・藤原忠平(藤原道長の祖父にあたる)に陳情したため、良兼の訴えは退けられたという。これに不満が爆発した良兼は翌年8月、将門の留守中に小貝川(蚕飼河・子飼渡)を渡って将門の治める常羽御厨を焼き討ちにした。しかし、これまた将門軍の反撃にあって大敗。良兼は11月、ふたたび朝廷に将門謀反を訴えた。この度々の訴えに、朝廷も重い腰をあげ、将門追討の太政官符を発布し、良兼に追討が命じられたという。これに気をよくした良兼は、意気揚々と将門の本拠地・下総国岩井宿を攻めたが、返り討ちにあって退却。天慶2(939)年6月2日に病死した。 ■良兼の子孫とされる粟飯原氏について
『千葉伝考記』の「平良文の事」によると、延長9(931)年、常陸大掾平国香と良兼・良文・将門連合軍が争った際、良兼・良文はたびたび国香の軍勢に敗れた。そして7月の戦いでの敗戦では、妙見神が良兼を助けたとある。 良兼は日ごろから妙見神を信仰しており、この戦いで妙見神の助けを得たことで、良兼は妙見の尊体を求めるために上野国群馬郡花園村七星山息災寺(群馬郡花園の妙見寺)を訪れ、そこからご神体を持ち去って、武蔵国平井(群馬県藤岡市西平井)に屋敷があった弟の平良文に託した。その後、良文は妙見神を深く信仰し、子々孫々妙見神を信仰するようになったという。 武蔵国平井には古くから妙見の社があり、息災寺の妙見神がこの平井に来たことは奇特なことだと、良文はますます妙見神に対する信仰を深め、妙見を秩父の大宮神社へ遷座した。現在の秩父神社がそれであるという(『千葉伝考記』)。 良兼の子には、「粟飯原」を名乗ったとされる左衛門尉盛家や文次郎良定がいたとされ、粟飯原文次郎良定の子孫とされる粟飯原文次郎常時は大治元(1126)年9月、千葉介常重の命で北斗山金剛授寺(現在の千葉神社)の神主となり、代々神官の家柄として続いたとされる。鎌倉時代、千葉介常胤の六男・東六郎胤頼の子孫である東氏が美濃国へ移った際に、子孫の粟飯原文次郎常定が一行に従って妙見神を美濃郡上に勧進し、妙見社(明建社)を建立したという。 郡上の明建神社の神主家は代々粟飯原氏が継いでおり、東氏の美濃西遷に粟飯原氏が随従していた可能性は大きいと思われるが、この粟飯原氏はあくまで千葉氏の同族である下総平氏の子孫であろう。『尊卑分脈』ほか平氏の系譜には良兼の子に盛家や良定といった人物は見られず、実在の人物とは思われない。 一方、実在した良兼の嫡男・下総権大掾平公雅は将門追討の軍勢に加わっていたようで、その功績によって武蔵守に任じられたと考えられる。ただし、公雅の子孫は貞盛の子孫とは犬猿の仲で、公雅流平氏と貞盛流平氏が伊勢国で争いを起こしていることが諸書に見える。公雅の子孫で、尾張国長田郷を治めた家は「長田」を称し、子孫の長田忠致は源義朝の郎従だったが、平治の乱で敗れた義朝を暗殺した人物として有名。 ◆良兼流粟飯原氏系譜
平良兼―+―平公連 平常長の三男。通称は三郎。常房は、曾祖父・平忠常が本拠を置いた由緒深い上総国夷隅郡の鴨根郷(いすみ市美岬町鴨根)へ移り、鴨根を称する。忠常以来、はじめて上総国に進出した人物である。 常房の事跡は伝わらないが、その子・常益は下総国千田庄へ移っており、夷隅郡には弟の五郎常晴が入り、鴨根郷を含む夷隅郡を継承。伊南庄、伊北庄、埴生郡などへ進出し、常晴の子孫は埴生郡玉前庄を本拠とする「上総氏」として発展していく。 鴨根三郎常房の子。通称は千田庄司。別名は常基ともされるが「益」「基」のいずれかの書き誤りだろう。また、平常長の五男とし通称は五郎とする説もあるが(『千葉大系図』)、常長の五男は五郎常晴であるため、信憑性は低いと思われる。 下総国香取郡千田庄(香取郡多古町千田周辺)に本拠を持ち、千田庄司となっていた。「粟飯原孫平」を称したとも伝わるが不明。 岩部五郎常益の五男か。通称は五郎。彼の代から粟飯原を称したようだ。兄には千田庄の北東、金原庄(匝瑳市金原周辺)の庄司となった金原常義がいた。 治承4(1180)年、千葉介常胤は一族を率いて、石橋山の戦いに敗れた頼朝を上総国境まで迎えに行ったが、この隙をついて、下総守藤原親正(平清盛の縁戚)が千葉庄に攻め入る事件があった。親正の本拠地は千田庄に隣接する匝瑳郡北条の内山(匝瑳市内山)にあり、両総房総に上陸した頼朝を討つべく、内山から武射郡の横路(山武郡横芝光町)を越え、白井の馬渡(佐倉市馬渡)を流れる鹿島川を渡って千葉庄に攻め入った。 このとき、千葉介常胤の孫・千葉小太郎成胤が千葉庄の留守を任されており、ば治承4(1180)年9月14日、成胤は藤原親正と激戦の末に親正勢を押し返し、親正は成胤の手によって捕らえられた(『吾妻鏡』)。親正方には多くの房総平氏が加わっており、粟飯原家常も子息の粟飯原権太元常・粟飯原次郎顕常らを伴って親正勢として参戦していた(『千学集抜粋』)。しかし、親正勢は敗北し、嫡子・元常は矢に当たって戦死した。家常や顕常がどうなったのかは伝わっていないが、彼らの子孫は系譜上で続いていることがうかがえ、千葉氏の郎党となったのだろう。 親正に従っていた房総平氏はいずれも親正の領する千田庄内または隣接する地域の一族であり、『神代本千葉系図』はじめ諸書において彼らはいずれも「大夫」「衛門尉」「兵衛尉」などと、東国武士の中では比較的高い官職を有しており、平家と二重の姻戚関係にある藤原親正による推挙があったとも考えられる。 ◆藤原親正と千葉成胤の戦いに参戦した武士(『千学集抜粋』)
岩部五郎常益の子とされる。通称は孫平。藤原親正の軍勢に加わって、千葉成胤と戦った粟飯原五郎家常の弟にあたるか。系譜上には見えないため実在を確認することはできない。 伝承では、有胤には後継ぎがなかったため、一族(平良兼流であるとする)の粟飯原伊勢寿丸(朝秀)を養子として迎えたとされている。
粟飯原左衛門尉盛家の五代目の孫・粟飯原尾張守親秀の嫡男という。幼名は伊勢寿丸。実在は不明。 朝秀は養和元(1181)年8月28日、8歳のとき頼朝に謁見して「朝」の字を賜り、「朝秀」と名乗ったという。彼の活躍は不明だが、伝承上では、平常長流粟飯原氏の粟飯原孫平有胤に男子がなかった事から養子になったとされる。 伝承としては、建暦3(1213)年5月に起こった「和田義盛の乱(鎌倉騒動)」で和田方に加担したと目されて、子の信秀・正秀・秀久らとともに鎌倉で殺されたとされる。ただ、朝秀の嫡孫・粟飯原胤秀が戦場を逃れて千葉介成胤に保護され、成胤の弟・孫三郎寛秀に仕えて粟飯原氏を再興したとされる。 たしかに『吾妻鏡』五月六日条には、和田合戦で討死した「粟飯原太郎、同小次郎、同藤五郎」と、粟飯原氏についての記載があるが、彼らは「横山人々」とあることから、和田義盛の舅・横山権守時重(粟飯原を称する)で、横山党粟飯原氏であって房総平氏流粟飯原氏とは別系統である。 建暦3(1213)年2月、和田平太胤長、和田四郎義胤らが、現将軍・源実朝を廃して、故前将軍・源頼家の二男・千寿を将軍に立てようと画策した。信濃国の泉親衡がこれに同調し、使僧の阿念房が鎌倉に来て御家人たちを扇動していたが、彼が千葉介成胤の屋敷を訪れて協力を求めたとき、「千葉介被官粟飯原次郎」に逮捕され、義時に突き出された(『鎌倉年代記裏書』)。なお、『吾妻鏡』にも同様の記述があるが、「粟飯原次郎」の名は記載されていない。 こうして千葉介成胤の活躍によって和田胤長らの将軍廃位の計画は未然に発覚し、「和田合戦」へと繋がっていく。『鎌倉年代記裏書』に見られる「千葉介被官粟飯原次郎」の具体的な実名は記されていないが、『神代本千葉系図』に見える平常長の孫・粟飯原五郎家常の末裔かもしれない。系譜上では家常の孫、粟飯原胤俊・粟飯原泰家がそれぞれ次郎を称している。 ●『吾妻鏡』建暦三年二月十五日条
千葉介胤正の子。通称は四郎。系譜には「寛秀」とされるが、おそらく入道号。最も古い系統に属する千葉系図『徳嶋本千葉系図』によれば、彼は「栗原四郎」とあり、「粟飯原」ではない。おそらく彼は粟飯原氏とは関係のない人物だろう。活躍など不明。 伝承によれば粟飯原朝秀(伊勢寿丸)とその子たちが建暦3(1213)年5月の「和田合戦」によって討死を遂げたため、朝秀の孫・胤秀が千葉介成胤に保護され、成胤の弟・寛秀が粟飯原家を継承した。 粟飯原寛秀(栗原四郎入道寛秀)の子と伝わる。官途は兵衛尉(『千葉大系図』)。実在は不明。 粟飯原常行の子とされる。官途は右衛門尉(『千葉大系図』)。実在は不明。 鎌倉時代中期の千葉介頼胤(千葉介成胤の孫)の代に「粟飯原道光入道」があり、文永3(1266)年に道光入道の七回忌が行われた(『本土寺過去帳』)。つまり粟飯原道光入道は文応元(1260)年に没していることになる。この「粟飯原道光入道」の実名は不明だが、粟飯原五郎家常の末裔か。 「粟飯原道光入道」は「曾谷彈正忠内方親父」とあり、八幡庄曾谷村(市川市曽谷)の曾谷氏と縁戚であったことがわかる(『本土寺過去帳』)。「曾谷彈正忠」については、「曾谷彈正忠直満」という人物が同じく『本土寺過去帳』内に見えるが、彼は室町時代中期の千葉介胤直に仕えた人物で、粟飯原道光娘と婚姻関係にあった「曾谷彈正忠」とは別人である。しかしながら「彈正忠」という通称から、おそらく曾谷彈正忠直満の先祖であろうと考えられる。 八幡庄(市川市)の曾谷氏と小見川(香取郡小見川町)の粟飯原氏という遠く離れた豪族が縁戚関係となったわけは、千葉介頼胤が八幡庄を含む下総国西部に進出したことにあるのかもしれない。頼胤は小金村(松戸市北小金)に館を構え、さらに守護所を国分(市川市国分)から真間山市河(市川市真間)に移しており、曾谷氏や富木氏(富木常忍)、大田氏(大田乗明)といった八幡庄に所縁のある人物たちが真間山の守護所に出仕していたことがわかっている。 粟飯原氏は千葉介成胤の頃にはすでに千葉宗家の側近くに仕えていたことがうかがえ(『鎌倉年代記裏書』)、頼胤の被官だった粟飯原道光入道が曾谷氏と接触していたのかもしれない。 粟飯原常実の子とされる。官途は左衛門尉(『千葉大系図』)。実在は不明。 嘉元3(1305)年4月23日子の刻、北条左京権大夫時村とその子息・親類に謀反の疑いがかけられ、侍所別当・北条宗方の手勢に誅殺された。時村は北条義時の末男・北条政村の嫡男であり、有力な北条一族であった。北条家内の権力闘争が背景にあったと思われるが事実は不明。しかし、時村の謀反の疑いは事実無根であったことが発覚し、5月2日、幕府は時村を実際に手にかけた武士十二名を斬首し、与党も捕らえて御家人への召し預けとした。この与党の一人、井原四郎左衛門尉盛明は掃部頭入道へ召預けとなったが、その際の使者に「粟飯原左衛門尉」があたっている(『鎌倉年代記裏書』増補続史料大成51巻)。 鎌倉円覚寺で毎月四日に行われていた「大斎(北条時宗忌日)」の結番が徳治2(1307)年5月に定められたが、『相模円覚寺毎月四日大斎番文』の「二番」に「粟飯原左衛門尉」が、「五番」には「粟飯原後家」が、「十番」には「粟飯原右衛門四郎」が列している。この『大斎番文』に記された人物は「長崎」「諏訪」「尾藤」「塩飽」「安東」「五大院」など、北条得宗家の家臣(北条嫡流の家臣=御内人)が多く見え、粟飯原氏の中には身内人になった一族がいたようである。おそらくこの「粟飯原左衛門尉」は井原四郎左衛門を掃部頭入道へ預けた「粟飯原左衛門尉」と同一人物と考えられる。 彼ら北条氏に仕えた粟飯原氏が、千葉氏の系統の粟飯原氏か、和田合戦ののち没落した横山党粟飯原氏かは即断することはできない。 ◆徳治2(1307)年5月『相模円覚寺毎月四日大斎番文』(『鎌倉遺文』)
粟飯原常久の子という。官途は左衛門尉(『千葉大系図』)。 元亨3(1323)年の『北条貞時十三年忌供養記』において、「禄役人」五人の一人として「粟飯原五郎左衛門尉常忠」の名が見える(『北条貞時十三年忌供養記』「鎌倉史」二所収)。常忠以外の四名はいずれも得宗家の御内人であり、おそらく粟飯原氏も御内人となっていた様子がうかがわれる。 ●『北条貞時十三年忌供養記』の「禄役人」五名 ・合田五郎左衛門尉遠貞・粟飯原五郎左衛門尉常忠・尾藤弾正左衛門尉資広・本間木工左衛門尉助茂 そして、この供養に列した公卿に対し、幕府より贈り物が渡されたが、「三条中納言(公雅)」へ馬一疋、銀、剣が贈られ、御家人の「石岡九郎」が進上している。このとき御使となったのが「粟飯原宮内左衛門尉」という人物であった。御使となっている人物はいずれも「合田」「足立」「工藤」「本間」「尾藤」「諏訪」「塩飽」「五大院」など御内人であり、この粟飯原宮内左衛門尉も粟飯原五郎左衛門尉常忠と同族の粟飯原氏であろうと思われる。 |千葉宗家|トップページへ|ページの最初へ|千葉氏の一族|リンク集|掲示板| Copyright(C)1997-2006 S-Shibata. All rights reserved. |