|平良兼流粟飯原氏|千葉氏流粟飯原氏|その後の粟飯原氏|各地の粟飯原氏|
〇粟飯原氏とは…
粟飯原氏は、中世の下総国香取郡小見川郷(香取市小見川)一帯を領した千葉氏の古族である。「粟飯原」は「あいはら」「あいばら」と読み、平安時代末期、平常長の四男・粟飯原常基を祖とし、戦国末期までの約五百年、小見川周辺を領した。
しかし、下総国内に「粟飯原」の地名を見ることができず、相模国高座郡粟飯原郷(相模原市)がその発祥地ともされているが、ここを発祥地とする粟飯原氏は、武蔵国の強力な武士団・武蔵七党の一派・横山党の横山孝兼の子孫と考えられ、「粟飯原」「藍原」を称している。ただ、千葉氏流の粟飯原氏とは関係はないだろう。
もしくは小見川のすぐ南に位置する「米野井」が名字地かもしれない。推測に過ぎないが、米野井の「米」と「粟」は五穀で通じ、香取神宮の祭祀との関係があったかもしれない。「粟飯⇒米飯⇒米井」と変わっていったとも思われるが、根拠があるわけではない。粟飯原氏と原氏はその祖・原四郎常宗と岩部常益は兄弟であり、ともに千田庄周辺の豪族であった。岩部常益の子が千田庄のわずかに北にあった「粟飯」に移り、「粟飯の原」ということで「粟飯原」となったのかもしれない。そして、すぐ北の小見川を本拠として勢力を拡げていったとも考えられなくはない。
●横山党粟飯原氏略系図●
横山孝兼―+―粟飯原時重――+―時広―――娘
|(横山権守) | ∥
| | ∥
+―藍原孝遠 +―娘 ∥
|(次郎大夫) ∥ ∥
| ∥ ∥
| 和田義盛――常盛
| (左衛門尉)
+――娘
| ∥―――――――景時
| 梶原景清 (平三)
|
+――娘
| ∥―――――+―重能―――――――――――――畠山重忠
| 秩父重弘 |(畠山庄司) (次郎)
| |
| | +―稲毛重成
+―娘 +―――――――有重 |(稲毛三郎)
(波多野遠義妻)| (小山田別当) |
| ∥―――――+―榛谷重朝
|宇都宮宗綱―+―娘 (榛谷四郎)
| |
+―娘 +―朝綱
∥ |(左衛門尉)
千葉介常胤 |
+―娘
(波多野義通妻)
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| 粟飯原家家紋 |
左の家紋は、文明年中(1469~1489)初頭の諸大名の家紋集である『見聞諸家紋』にある粟飯原家の家紋である。『妙見寺本千葉系図』のなかに千葉家の紋として「日月九曜星五根篠」とあり、日月・九曜と並んで、竹(篠)紋も千葉氏の家紋のひとつであったことがわかる。
ほか、阿波国の細川氏の家臣となった幕府奉公衆の流れを組む(とされる)粟飯原氏には、千葉介常胤の木像が伝わっており、その木像の大紋には、月星紋の周りに九星がちりばめられた「十曜内に月星」紋が用いられている。千葉氏の家紋については、同じく『見聞諸家紋』には「九曜紋」を「月星」と記しており、実は室町中期においては千葉氏の家紋は「九曜」が用いられていて、それを「月星」と呼んでいたのかもしれない。ただし、『見聞諸家紋』に記されていた「千葉介」が下総千葉氏であったかは不明。文明年中の幕府は、敵対していた古河公方(鎌倉公方の末裔)と手を組んでいる下総千葉氏を「千葉介」とは認めておらず、武蔵へ逃れていた兼胤流千葉氏(武蔵千葉氏)を「千葉介」としていた。このことから千葉氏は、鎌倉期から兼胤流千葉氏が滅亡した康正元(1455)年までは、九曜紋を「月星」と呼んでいたか? 文明年中の武蔵千葉介は千葉介守胤だが、彼は歌道に興味を持っており、東氏を通じて三条西実隆と交流をもっていた。
ただし、奥州千葉氏や肥前千葉氏のように鎌倉期に分流した家でも「九曜紋」とならんで「月星紋」が用いられているということは、やはり「月星紋」というものも存在していたとも考えられる。
●岩橋輔胤周辺系譜(『千学集抜粋』中心)
千葉介氏胤―+―満胤―――+―兼胤―――+―胤直―――――胤宣
(千葉介) |(千葉介) |(千葉介) |(千葉介) (千葉介)
| | |
| | | 【武蔵千葉氏】
| | +―胤賢―――――千葉介自胤―――千葉介守胤
| | (中務大輔) (千葉介) (千葉介)
| |
| +―馬加康胤―+―胤持 +―千葉介勝胤―――千葉介昌胤
| (陸奥守) | |(千葉介) (千葉介)
| | |
| +―女 +―成戸胤家
| |(成戸殿)
| |
+―馬場重胤―――胤依―――+―金山殿 +―千葉介孝胤―+―少納言殿――――物井右馬助
(八郎) | |(千葉介) (物井殿)
| |
+―公津殿 +―成身院源道―+―光言院源秀―?―養運斎
| |(菊間御坊) |
| | |
+―岩橋輔胤―+―椎崎胤次 +―天生院源長
(岩橋殿) (入道道甫)
平 良兼(???-939)
上総介平高望の三男。母は不明。妻は前常陸大掾源護女。官位は不明。官職は下総介。平将門の叔父にあたり、千葉氏の祖・平良文の兄である。彼自身「粟飯原文次郎」を称したとされるが実際は不明。上総国武射郡に館(山武郡横芝光町屋形)を構えて住んだという。
下総国豊田郡を本拠としていた弟の平良持(もと鎮守府将軍)の次男・小次郎将門に娘を嫁がせていた可能性が高く、良持家とは親密に関わっていたと思われる。しかし、良持亡きあと、将門と「女論」で対立していた(『将門合戦状』)。しかも、将門と良兼の舅・源護が爭い、長兄・平国香の殺害、末弟・平良正と抗争するに至り、対立は決定的となったと思われる。
■平将門と前常陸大掾源護の戦い
将門は前常陸大掾源護と平真樹の対立に関わり、承平5(935)年2月2日、将門が所用のために館を出たところを源護の子の源扶・隆・繁の奇襲にあった、しかし、将門は順風に押されて逆に扶らを討ち取った。これに怒った将門は2月4日、源氏方の「筑波、真壁、新治三箇郡の伴類の舍宅五百余家」を焼き払った。さらに「野本・石田・大串・取木等の宅より始めて、与力の人々の小宅に至るまで、皆悉く焼き巡」った。この「野本・石田・大串・取木」の比定地は、
・野本(不明)
・石田(茨城県筑西市東石田)
・大串(茨城県下妻市大串)
・取木(不明)
であり、源護の主な拠点がこの四か所だったのだろう。とくに「石田」は国香の屋形があった地であり、「国香の舎宅、皆悉く殄び滅しぬ、其身も死去しぬる者なり」と、国香はこの戦乱の中で亡くなった。この戦いを見ると、源護と平真樹の争いに国香と将門が巻き込まれた感があり、国香が積極的に戦いに参加した形跡が見られない。とくに貞盛の述懐として、
「未だ身与力せず、偏に其の縁坐に編らる」
とあることから(『将門記』)、国香は「前大掾源護并に其諸子等、皆同党之者」として巻き添えになった可能性が高い。
貞盛は国香敗死の急報を受けた当時、京都で左馬允の官に就いていたが、急ぎ左馬寮に休暇願を提出して常陸国へ帰国した。ここで貞盛は、
「つらつら案内を検するに、凡そ将門は本意の敵に非ず、斯れ源氏の縁坐なり」
と、国香の死は将門の直接的な攻撃によるものではなく、源護と将門(または平真樹)の戦いの中で起こった事故と判断した。さらに貞盛は「苟くも貞盛は守器の職に在り、須く官都に帰りて官勇を増」すため、早々に帰京しなければならず、
「孀母堂に在り、子に非ずは誰か養はむ、田地数有り、我に非ずは誰か領せむ、将門に睦びて芳操を花夷に通じ、比翼を国家に流へむ。仍って具に此の由を挙げ、慇に斯く可」
と、将門との間を「慇」にすべきだと、将門と「乃ち対面」しようとした。しかし、国香の異母弟・平良正が「偏に外縁の愁ひに就き、内親の道を卒忘」して、反将門の急先鋒として介入してきたため、対面は果たせず、坂東は再び戦乱の巷に巻き込まれることとなる(『将門記』)。
■平将門との戦い一(下野国府の敗戦)
平国香には、平良持、平良兼、平良文、平良正らの弟がいたが、このうち平良文は武蔵国村岡郷(熊谷市村岡)にあって、国香らとは一線を画していたようだ。一方、良兼、良正は国香と同様に、源護の娘を娶っていて、互いに密接な関係があったと思われる。良兼は下総国の国司「下総介」であり「上総国武射郡」の館(山武郡横芝光町屋形)に在住していた。良正は「故上総介高望王之妾子」とあり、おそらく国香や良持、良兼とも母を異にする兄弟と思われるが、国香の屋敷から南へわずか五キロの筑波郡水守郷(つくば市水守)に住んでいた。彼も国香同様、護の女婿としてその勢力下にあり、源氏の軍事力の一端を担っていたのだろう。良正は国香亡きあとも、ひとり岳父・護の側に立って将門を討とうと常陸国を走り回った。「良正、偏に外縁の愁に就て、卒かに内親の道を忘れぬ」と、完全に婚家に取り込まれていたことがうかがえる。これは、国香や良正が常陸国に地盤を持っていなかった当時、受領として確固たる地盤と勢力を持っていた源氏を外護者としていたと思われることから、彼らが源氏の側に加担するのは当然の成り行きであったと思われる。
10月21日、良正と将門は常陸国新治郡川曲村(結城郡八千代町周辺?)で合戦し、良正は敗北した。将門は深追いせず、翌22日、本拠地の豊田郡鎌輪之宿(千代川村鎌庭周辺)へ帰還する。敗れた良正は、「大兄之介(良兼)」への援軍を依頼し、良兼はこれを受け入れた(『将門記』)。
一方、源護は朝廷に平将門、平真樹の濫妨を訴え出た。これに朝廷は12月29日、将門・真樹に対して召喚の太政官符を発した。この太政官符は翌年9月7日に坂東の国庁に届けられているが、官符の発行から8か月もの間届けられなかった理由は不明。
良正の依頼を受けた良兼は兵を集め、承平6(936)年6月26日、常陸を目ざして出陣し、上総国武射郡の小道を通り、下総国香取郡神前(香取郡神崎町)に集結。神前の津から船出して対岸の常陸国信太郡江前津(稲敷市江戸崎)へ渡り、翌27日早朝に良正の水守営所(つくば市水守)に着陣した。良兼が水守営所に入ると、館主・良正が面会して将門について相談していたところに、貞盛も「疇昔の志有るに依」って良兼と対面したという(『将門記』)。「疇昔の志」がただ単に「懐旧」のために対面を求めるのであれば、来客中でしかも早朝というタイミングは非常に不自然であり、この「疇昔の志」は、貞盛が将門と和睦した上で上洛し、朝廷に仕えるという従来からの願いを指すものではなかろうか。
この貞盛の願いを聞いた良兼は、
「聞くが如くは、我が寄人と将門等は慇懃なりてへり、斯らば其の兵に非ざる者なり、兵は名を以て尤も先と為す、何ぞ若干の財物を虜領せしめ、若干の親類を殺害せしめて、其の敵に媚ぶ可や、今須く与に合力せらるべし、将に是非を定めむ」
と兵の道を説かれては、貞盛も本意ではないものの暗に良兼らの同類とならざるを得なかった。良兼はその後、下野国に大軍を率いて進軍していく(『将門記』)。
この良兼の動きを知った将門は、事実を確認するために百騎ばかりで下野国の境まで進んだが、良兼の陣容を見て戦うことなく引き上げようとした。この少数で疲れの見える将門勢を発見した良兼はこれを追撃した。しかし、将門勢は少数だったものの戦いに練れた軍勢であり、良兼勢は将門勢の歩兵にたちまち八十騎あまりの騎兵が射殺されてしまう。この将門勢の勇猛さに戦慄した良兼は戦線から逃げ出すも、将門の執拗な追撃を受け、為す術なく下野国府に逃げ込んだ。
良兼を追って国府を取り囲んだ将門だったが、
「凡そ常夜の敵に在らずと雖も、脉を尋ぬれば疎からず、氏を建つれば骨肉なり、云ふ所、夫婦は親しくして瓦に等し、親戚は疎くして葦に喩ふ、若し終に殺害を致さば、若しくは物の譏り遠近に在らむか、仍て彼の介独りの許を逃がさむ」
と考え、国庁の西方の陣を解いた。良兼はここから脱出し、良兼に従っていた兵たちも命を助けられた。将門は良兼らを逃がすと、彼らの横暴を国庁の日記に記載させて帰国した(『将門記』)。
9月7日、源護の告訴を受けて出された平将門・平真樹召喚の太政官符が、左近衛番長正六位上英保純行、英保氏立、宇自加支興等によって、常陸・下野・下総などの国庁へ届けられた。これを受けて10月17日、将門は「告人(源護)」が上洛するより前に急ぎ上洛し、つぶさに事の次第を奏上。検非違使での審理でも罪は軽いとされ、却って武名を京都に広めるに至る。さらに、翌承平7(937)年4月7日に恩詔によって罪を許され、5月11日、京都を出立して下総国へ帰った(『将門記』)。
■将門との戦い二(豊田郡の戦勝)
しかし、将門が帰国したことを知った良兼は、ふたたび将門を討つべく兵を挙げた。承平7(937)年8月6日、良兼は一族の祖「故上総介高茂王」と将門の父「故陸奥将軍平良茂」の神像(画像)を陣前に押し出して将門に戦いを挑み、怯む将門を破って将門の本拠地の一つ、下総国豊田郡栗栖院常羽御厨に乱入して焼き討ちした(『将門記』)。
良兼は8月17日の豊田郡大方郷の戦いでも勝利し、翌18日、上総国へ帰国の途に就いた。この途次、将門の妻を捕え、20日に上総国へと渡った。将門の妻は良兼のもとで嘆き悲しんでいたが、
「妾の舍弟等、謀を成して、九月十日を以て、密かに豊田郡に還り向はしむ、既に同気の中に背きて、本夫の家に属く、譬へれば遼東の女の夫に随ひて父国を討たしむがごとし、件の妻は、同気の中を背きて、夫の家に逃げ帰る」
とあることから、良兼の娘が将門の妻となっていたことがうかがわれ、さらにその脱出に良兼の子らが加担した様子も見える(『将門記』)。
平高望―+―平国香――――平貞盛
(上総介)|(常陸大掾) (陸奥守)
|
+―平良兼――+―平公雅
|(下総介) |(武蔵守)
| |
| +―平公連
| |(下総権少掾)
| |
| +―姉
| ∥
+―平良持――――平将門
|(鎮守府将軍)(新皇)
|
+―平良文――――平忠頼
|(村岡五郎) (陸奥介)
|
+―平良正
(水守六郎)
■将門との戦い三(常陸国の敗戦と死)
承平7(937)年9月19日、将門を討つべく良兼は常陸国へ再度出陣した。将門もこれを受けて10月9日に真壁郡へ千八百の兵を率いて進軍し、良兼の常陸における拠点の一つ、真壁郡服織宿を攻略して、「与力伴類ノ舎宅」を焼き払っている。拠点を焼かれた良兼は恐れ戦き、弓袋山へ逃れた。将門はこれを敢えて攻めることはせずに、良兼や貞盛の拠点を放火略奪したのち石井営所へ撤退していった。良兼もその後、山を下りて上総へ引き上げていく。すでに良兼には将門に正面から敵対する力は残っていなかったと思われる(『将門記』)。
11月5日、朝廷は「介良兼、掾源護、掾平貞盛、公雅、公連、秦清文」ら「常陸国敵等」を将門に追捕させるとした太政官符を武藏・安房・上総・常陸・下野国など坂東諸国に発した。下総から度々常陸に侵入しては合戦を繰り返した行為を朝廷は快く思っていなかったのだろう。ここに良兼は常陸国の敵として正式に追捕の対象とされたこととなる。将門は「頗ル気ヲ述ベテ力ヲ附ケ」てその追捕に積極的な態度を見せたが、同じころ私君の太政大臣藤原忠平から「更ニ将門等ヲ召ス使」も将門のもとを訪れていたようで、将門に対しても事情を聴こうとしていた意図が見える。なお、この追捕の対象に乱を起こした張本の一人、平良正が入っていないことから、これまでの戦いの中で戦死したのかもしれない(『将門記』)。
しかし、この太政官符を受けた「諸国の宰」は将門に協力せず「慥に張行はず、好みて堀求めず」という態度を取った。なぜ日和見の態度をとったのかの理由は記されていない。良兼も追捕の対象ということで、表立った動きは取れなかったのか、将門の駈使・丈部子春丸という者を利で釣って間諜に仕立てて将門の石井営所の動きを逐一連絡させ、12月14日に当千の騎兵八十余騎を石井営所に遣わして夜討ちを試みた。しかし、すでにこの動きを察していた将門によって返り討ちにあい、上兵の多治良利を討ち取られるなど大敗を喫して、命からがら戦陣を離脱した。なお、間諜となった丈部子春丸も承平8(938)年正月3日、将門に殺害されている(『将門記』)。
良兼はその後、将門に戦いを挑んだ記録はなく、翌天慶2(939)年6月上旬に亡くなった(『将門記』)。享年不明。
■良兼の子孫とされる粟飯原氏について
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| 三鈷山妙見寺(七星山息災寺) |
『千葉伝考記』の「平良文の事」によると、延長9(931)年、常陸大掾平国香と良兼・良文・将門連合軍が争った際、良兼・良文はたびたび国香の軍勢に敗れた。そして7月の戦いでの敗戦では、妙見神が良兼を助けたとある(『千葉伝考記』)。
良兼は日ごろから妙見神を信仰しており、この戦いで妙見神の助けを得たことで、良兼は妙見の尊体を求めるために上野国群馬郡花園村七星山息災寺(群馬郡花園の妙見寺)を訪れ、そこからご神体を持ち去って、武蔵国平井(群馬県藤岡市西平井)に屋敷があった弟の平良文に託した。その後、良文は妙見神を深く信仰し、子々孫々妙見神を信仰するようになったという。
武蔵国平井には古くから妙見の社があり、息災寺の妙見神がこの平井に来たことは奇特なことだと、良文はますます妙見神に対する信仰を深め、妙見を秩父の大宮神社へ遷座した。現在の秩父神社がそれであるという(『千葉伝考記』)。
良兼の子には、「粟飯原」を名乗ったとされる左衛門尉盛家や文次郎良定がいたとされ、粟飯原文次郎良定の子孫とされる粟飯原文次郎常時は大治元(1126)年9月、千葉介常重の命で北斗山金剛授寺(現在の千葉神社)の神主となり、代々神官の家柄として続いたとされる。鎌倉時代、千葉介常胤の六男・東六郎胤頼の子孫である東氏が美濃国へ移った際に、子孫の粟飯原文次郎常定が一行に従って妙見神を美濃郡上に勧進し、妙見社(明建社)を建立したという。
郡上の明建神社の神主家は代々粟飯原氏が継いでおり、東氏の美濃西遷に粟飯原氏が随従していた可能性は大きいと思われるが、この粟飯原氏はあくまで千葉氏の同族である下総平氏の子孫であろう。『尊卑分脈』ほか平氏の系譜には良兼の子に盛家や良定といった人物は見られず、実在の人物とは思われない。
一方、実在した良兼の長男・平公雅は、天慶3(940)年正月14日、坂東八か国に置かれた押領使の一人となり、上総掾に任官。次男・平公連も同じく押領使・下総権少掾となり、将門戦死後の残党追討軍に加わっている。公雅の子孫の一流は尾張国長田郷の土豪となって「長田」を称し、長田忠致は源義朝の郎従だったが、平治の乱で敗れた義朝を殺害した人物として有名。
◆良兼流粟飯原氏系譜
平良兼―+―平公雅
(上総介)|(武蔵守)
|
+―平公連
|(下総権少掾)
|
+―粟飯原盛家――定秀―――秀家―――実秀―――秀宗――――親秀―――朝秀―――+―信秀――胤秀――義秀―胤晴―+
(左衛門尉) (尾張守)(孫次郎)(河内守)(藤兵衛尉)(尾張守)(伊勢寿丸)|(太郎)(孫平太) |
| |
+―正秀 +―――――――――+
|(十次郎)|
| |
+―秀久 +―基繁―義秀―氏秀
|(藤五郎)
|
+=寛秀―――常行
(孫三郎)(兵衛尉)
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平常長の三男。通称は三郎。常房は、曾祖父・平忠常が本拠を置いた由緒深い上総国夷隅郡の鴨根郷(いすみ市美岬町鴨根)へ移り、鴨根を称する。忠常以来、はじめて上総国に進出した人物である。
常房の事跡は伝わらないが、その子・常益は下総国千田庄へ移っており、夷隅郡には弟の五郎常晴が入り、鴨根郷を含む夷隅郡を継承。伊南庄、伊北庄、埴生郡などへ進出し、常晴の子孫は埴生郡玉前庄を本拠とする「上総氏」として発展していく。
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千田常益(????-????)
鴨根三郎常房の子。通称は千田庄司。岩部を称したとも。別名は常基ともされるが「益」「基」のいずれかの書き誤りだろう。また、平常長の五男とし通称は五郎とする説もあるが(『千葉大系図』)、常長の五男は五郎常晴であるため、信憑性は低いと思われる。
下総国香取郡千田庄(香取郡多古町千田周辺)に本拠を持ち、千田庄司となっていた。「粟飯原孫平」を称したとも伝わるが不明。
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粟飯原家常(????-????)
岩部五郎常益の五男か。通称は五郎。彼の代から粟飯原を称したようだ。兄には千田庄の北東、金原庄(匝瑳市金原周辺)の庄司となった金原常義がいた。
治承4(1180)年、千葉介常胤は一族を率いて、石橋山の戦いに敗れた頼朝を上総国境まで迎えに行ったが、この隙をついて、下総守藤原親正(平清盛の縁戚)が千葉庄に攻め入る事件があった。親正の本拠地は千田庄に隣接する匝瑳郡北条の内山(匝瑳市内山)にあり、両総房総に上陸した頼朝を討つべく、内山から武射郡の横路(山武郡横芝光町)を越え、白井の馬渡(佐倉市馬渡)を流れる鹿島川を渡って千葉庄に攻め入った。
このとき、千葉介常胤の孫・千葉小太郎成胤が千葉庄の留守を任されており、ば治承4(1180)年9月14日、成胤は藤原親正と激戦の末に親正勢を押し返し、親正は成胤の手によって捕らえられた(『吾妻鏡』)。親正方には多くの房総平氏が加わっており、粟飯原家常も子息の粟飯原権太元常・粟飯原次郎顕常らを伴って親正勢として参戦していた(『千学集抜粋』)。しかし、親正勢は敗北し、嫡子・元常は矢に当たって戦死した。家常や顕常がどうなったのかは伝わっていないが、彼らの子孫は系譜上で続いていることがうかがえ、千葉氏の郎党となったのだろう。
親正に従っていた房総平氏はいずれも親正の領する千田庄内または隣接する地域の一族であり、『神代本千葉系図』はじめ諸書において彼らはいずれも「大夫」「衛門尉」「兵衛尉」などと、東国武士の中では比較的高い官職を有しており、平家と二重の姻戚関係にある藤原親正による推挙があったとも考えられる
◆藤原親正と千葉成胤の戦いに参戦した武士(『千学集抜粋』)
| 藤原親正方 | 千葉氏方 | |
| 千田親正(皇嘉門院判官代) | 加曾利冠者成胤(千葉介常胤嫡孫) | |
| 原十郎太夫常継(鴨根三郎常房孫) | 多部田四郎胤信( 〃 四男) | |
| 原五郎太夫清常(原常継弟) | 国分五郎胤通( 〃 五男) | |
| 原六郎常直( 〃 ) | 東六郎胤頼( 〃 六男) | |
| 金原庄司常能(原常継叔父) | 堺平次常秀( 〃 孫) | |
| 金原五郎守常(金原常能子) | 武石次郎胤重( 〃 孫) | |
| 粟飯原五郎家常(鴨根常房孫) | 臼井四郎成常( 〃 従兄弟子) | |
| 粟飯原権太元常(粟飯原家常子) | 臼井五郎久常(臼井成常弟) | |
| 粟飯原次郎顕常( 〃 ) | 天羽庄司秀常(上総権介広常弟?) | |
| 金田小太夫康常( 〃 弟) | ||
| 匝瑳次郎助常( 〃 甥) | ||
| 佐是四郎禅師( 〃 甥?) |
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粟飯原有胤(????-????)
岩部五郎常益の子とされる。通称は孫平。藤原親正の軍勢に加わって、千葉成胤と戦った粟飯原五郎家常の弟にあたるか。系譜上には見えないため実在を確認することはできない。
伝承では、有胤には後継ぎがなかったため、一族(平良兼流であるとする)の粟飯原伊勢寿丸(朝秀)を養子として迎えたとされている。
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粟飯原朝秀(1174-1213)
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粟飯原左衛門尉盛家の五代目の孫・粟飯原尾張守親秀の嫡男という。幼名は伊勢寿丸。実在は不明。
朝秀は養和元(1181)年8月28日、8歳のとき頼朝に謁見して「朝」の字を賜り、「朝秀」と名乗ったという。彼の活躍は不明だが、伝承上では、平常長流粟飯原氏の粟飯原孫平有胤に男子がなかった事から養子になったとされる。
伝承としては、建暦3(1213)年5月に起こった「和田義盛の乱(鎌倉騒動)」で和田方に加担したと目されて、子の信秀・正秀・秀久らとともに鎌倉で殺されたとされる。ただ、朝秀の嫡孫・粟飯原胤秀が戦場を逃れて千葉介成胤に保護され、成胤の弟・孫三郎寛秀に仕えて粟飯原氏を再興したとされる。
たしかに『吾妻鏡』五月六日条には、和田合戦で討死した「粟飯原太郎、同小次郎、同藤五郎」と、粟飯原氏についての記載があるが、彼らは「横山人々」とあることから、和田義盛の舅・横山権守時重(粟飯原を称する)で、横山党粟飯原氏であって房総平氏流粟飯原氏とは別系統である。
建暦3(1213)年2月、和田平太胤長、和田四郎義胤らが、現将軍・源実朝を廃して、故前将軍・源頼家の二男・千寿を将軍に立てようと画策した。信濃国の泉親衡がこれに同調し、使僧の阿念房が鎌倉に来て御家人たちを扇動していたが、彼が千葉介成胤の屋敷を訪れて協力を求めたとき、「千葉介被官粟飯原次郎」に逮捕され、義時に突き出された(『鎌倉年代記裏書』)。なお、『吾妻鏡』にも同様の記述があるが、「粟飯原次郎」の名は記載されていない。
こうして千葉介成胤の活躍によって和田胤長らの将軍廃位の計画は未然に発覚し、「和田合戦」へと繋がっていく。『鎌倉年代記裏書』に見られる「千葉介被官粟飯原次郎」の具体的な実名は記されていないが、『神代本千葉系図』に見える平常長の孫・粟飯原五郎家常の末裔かもしれない。系譜上では家常の孫、粟飯原胤俊・粟飯原泰家がそれぞれ次郎を称している。
●『吾妻鏡』建暦三年二月十五日条
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