| ハーメルンの酔っ払い |
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「お宅のお子さん、カリキュラムはどこまで進みました?」 ユニ社製の青いポロシャツを着た男が、同じくユニの赤いポロシャツを着た男にそう言った。この時代のまあ、世間話を切り出す常套句である。言われた赤いシャツの男は、頭をかきながら答える。 「いやぁ、お恥ずかしい限りですが、まだ、19.98までなんですよ」 「息子さん、確か来月で20歳でしたよね? 普通そのくらいでしょう?」 「まあ、一応、標準的なところはこなしてますがね。お宅のように、2歳のころすでに2.50まで行かれたような優秀なお子さんと比べたら、とてもとても」 そう言われて青いシャツの男はいやいやと首を振りながらも、小鼻を膨らませながら、ニヤニヤとしている。明らかに自尊心を刺激されたようだ。もっとも、子供の成績を誇るのを自尊心と呼ぶのかは謎だが。 「いやいや、とんでもないですよ。ウチの娘なんて最初だけで。途中で怠けたせいで、18になって18.20のカリキュラムに入ったばかりです」 「ほう、コンマ20も先行していらっしゃる。すばらしいじゃないですか」 「いやあ、この調子でゆくと、途中でカリキュラムナンバーが年齢に追い抜かれるなんてことにもなりかねません」 「まさか。優秀な娘さんですから、そんなことはないでしょう?」 ここで男達はようやく子供のカリキュラムの話をやめ、話題を別のものに移した。 「そうそう、それで思い出しました。599号のお子さん、聞きました?」 「あ。聞きました。驚きましたね? 18歳になるって言うのに、まだ16.00だとか。ご両親も苦労なされますなぁ。内心、気が気じゃないんじゃないですか?」 「どうでしょうね。あそこの旦那さん、5階から上に上がれないような人ですから、あんまり気にしてないんじゃないですか?」 言った男の顔には、自分たちは最上階に住んでいるのだという、優越感がにじんでいる。 公共住居ビルの最上階に住んでいるということは、それだけの努力をし、また、それだけ社会に必要とされている証拠だろうから、これはまあ、誇ってもいいだろうか。 「やっぱりアレですかね。親がああだと、子供も……や、噂をすれば、ご本人の登場ですよ」 「え? ああ、本当だ。おや、なんだか様子がおかしいですね? まさか、昼間からお酒を飲んでいるんじゃ……いや、やはり呑んでいるみたいですね」 「どうやらそのようだ。これは近づかないほうがよいでしょう。ヘタに絡まれて相手をしていたら、厄介ごとに巻き込まれないとも限らない」 「そうですね。ここはひとつ退散しますか」 「あそこの非常階段の下がいいんじゃないでしょうか?」 「おお、あそこなら向こうからは見えませんね。あそこにしましょう」 男達はあわてて場所を移す。公共住居のコミュニケーション広場には、件(くだん)の酔っ払った男以外、誰もいなくなった。 それも当然で、ポロシャツの男達はたまたま住居に残っていたが、日曜日の昼間である。たいていの男なら家族を連れて、どこかしらのアミューズメント施設に行っているはずだ 。 酔っ払った男は、広場のベンチに腰掛けると、ポケットから酒瓶を取り出し、ぐいっとヒトクチあおる。それを見てポロシャツを着た男たちは眉をひそめた。 と。 ばばばばばばっ! 一台の単車が爆音とともにやってきた。よれよれの薄汚いジーンズとタンクトップを着た男の後ろに、真っ赤な髪の女の子が乗っている。単車は酔っ払った男の前に停まる。スタンドを掛けて降りた二人は、酔っ払いの前に立った。 「オヤジ、また酔っ払ってるのか?」 「おじさん、こんちは」 言われた酔っ払いは、ふたりを見てニヤリと笑う。 「なんだ、おまえらか。学校はどうした? また、さぼりか?」 「何言ってるんだ。今日は日曜だよ。呑んだくれてるから、曜日もわからなくなっちまったんだな?」 「おじさん、ボケたらあたし達が面倒見てあげるね?」 「やかましい、おまえらの世話になんぞなるか! それより、アイドリングがばらけてたぞ? キャブレターの同調、ちゃんと取ったか?」 男がそう聞くと、どうやら男の息子らしい若者は、小首を傾げて言う。 「キャブレター? なんだそれ?」 「かぁっ、コレだ。生意気に古い単車に乗りたがるなら、てめえの単車についてる機械のことくらい理解しとけ、バカ。この手の古い単車にはな、フュエルインジェクションなんてご大層な機械は付いてないんだ」 「ああ、聞いたことがある。機械式の燃料気化装置のことだな? 同調って言うのは?」 「二つのキャブの供給する燃料がそろってない時があるんだよ。それをあわせてやるんだ」 「へえ、なるほどな。燃料の気化の調整を、自分で出来るのか。おもしろいな。なあ、オヤジ。どうやるんだい?」 「ここじゃムリだ。公用ガレージにバキュームゲージがあるから、ちょっと持って来い」 親父の言葉に息子がうなずくのを見て、横にいた女の子は口を尖らせて悲鳴を上げた。 「えぇ! これから単車いじりするのぉ? そのあいだ、また放って置かれちゃうじゃんか。やだよう! おじさん! 余計なこと言わないでよ!」 「ああ、そうか。これから遊びに行くんだったか。わかった、わかった。キャブの同調は、デートから帰ってきてからにしよう」 若者は少し不満そうだったが、女の子と父親の妥協点に口を挟むことはなかった。 「じゃ、夜までには帰るよ」 「おう、しっかり恋人孝行して来い。じゃないと、「立派な大人」になれないぞ? 俺みたいにずっと下層階に住むようになる」 その言葉に、息子とその彼女はにやりと笑って親指を立て、叫んだ。 「上等!」 父親はため息をついて肩をすくめたが、しかし、その顔はうれしそうに笑っていた。 「で、どこへ行くんだ? アミューズメント施設か?」 「海っ! 海に行くの」 続いて息子が意地悪な笑いを浮かべて言う。 「だいたい、そんなところに行ける小遣い、くれねえじゃねえか」 父親が笑って息子を小突くと、女の子がニヤニヤしながら突っ込む。 「でもさ、あんた小遣い貰っても、どうせ単車につぎ込んじゃうじゃん」 一瞬あっけにとられた後、三人は大笑いした。 「じゃあ、帰ってきたら、キャブの同調の取り方、教えてくれよな? 約束だぜ?」 父親が親指を立てると、若者達は大きな排気音とともに、海に向かって出発した。 その後ろ姿を見て、父親はにっこりと笑いながらポケットから酒瓶を取り出し、ごくりとあおる。それから息子との約束を思い出したのだろう。あわててきびすを返すと、公用ガレージのほうに歩き出した。 一部始終を見ていた赤と青のポロシャツふたりは、顔を見合わせて苦笑する。 「あの様子じゃ、カリキュラムが遅れているのも無理はないですな」 「まったく、注意しないどころか笑って送り出すとは、どういう神経をしているのでしょうね」 「まあ、5階あたりじゃ、ああいった人が多いんでしょうけれど、子供の教育上、あまりいい環境とはいえませんね」 「そうですねぇ、ああいう人たちはきっと、一生、公共住居の下層階で暮らし続けることに、何の疑問も持っていないのでしょうなぁ。ある意味、うらやましいですよ」 ははは、と笑い声を上げる、その「うらやましい」と言う言葉には、もちろん嘲(あざけ)りの意味が多分に含まれている。 「ああいう人のために、我々ががんばって社会を動かしているのかと思うと、少々やりきれない気もしますなぁ」 「そうですねえ。ですがまあ、いずれ公共住居を出て、シティビルのワンフロアに分譲を持つまでの辛抱ですよ。こつこつ努力してきた者と、ああして好き勝手に生きている人々には、必ず差が付きますから」 「おや、そうおっしゃるところを見ると、そろそろシティに?」 言われたほうは、少し上気した顔でうなずいた。 「ええ、まあ。あと二年くらいで、どうやら目処が付きそうですよ。今手がけているプロジェクトがかなり高い評価を受けられそうなので」 「ほう、それはすばらしい。確か、前頭葉手術で注意欠陥、多動性障害……ええと、ADHDでしたっけ? あの治療を行うと言うものでしたね?」 「よくご存知ですね? さすがにアンテナが高いですなぁ」 「いやいや、私の仕事にも、まんざら無関係ではないですから」 「ああ、新しい少年法の設立に尽力なさっておられるようですね? 詳しいことは、恥ずかしながら不勉強で」 「いえ、なかなか専門的なことになってしまいますから、それが普通ですよ。家庭に介入する法律ですから、日本ではなかなか受け入れる土壌が整わなくて、苦労しています」 「でも、もうすぐ成立するんですよね? それじゃあ、それが成立した暁には?」 相手の言葉に、今度はこちらの男が、少し上気したうれしそうな顔でうなずく。 「ええ、ようやくシティ行きですよ。来年くらいになります」 「おお、それはおめでとうございます。いや、お宅のように優秀な方となら、例えお互いシティに行ってからも、末永くお付き合いいただきたいですな」 「何をおっしゃいます。こちらこそヨロシクおねがいします。同じ公共住宅にいた仲間、いわば家族みたいなものじゃないですか」 「ありがとうございます。いや、しかし、同じ住宅とは言え、さっきの方々とは、家族になりたくないものですが」 「ははは、同感です。おや? こんな時間だ。申し訳ありませんが、私これから、その法律のことで会わなくてはならない方がいらっしゃいますので」 「そうですか。わかりました」 「あ、あの、このことは」 探るような目つきで言った男の言葉に、相手は深くうなずいた。 「ええ、もちろん他言しませんよ。日曜日に働いていると、それだけで中央コンピュータの査定が下がってしまいますからね。もちろん私は、あなたが残業するような人間でないことはわかっていますから、ご安心ください」 「助かります。時間内に仕事を終わらせられない能力の低い人間、などと評価されるのは困りますんでね。まったく、コンピュータと言うのは画一的で融通が利かないですな」 「同感です。それじゃあ」 「ええ、それじゃあ」
部屋へ戻った赤シャツの男は、ウエブネットから完全に隔離された、パーソナルコンピュータを立ち上げる。前頭葉手術のプロジェクトに関する、まとめの報告を書かなくてはならないのだ。 ネットにつながっているほうのPCを使うと、勤務時間外に仕事をしているのが露見してしまうので、こうして独立したPCを使うのである。 残業をしないですばやく仕事をしているように見せかけるためには、こういう隠れた努力が必要なのだ。 「しかし、彼も不用意だな。残業して誰かに会うなんてコトをしゃべってしまうとは。私のように善良な人間でなかったら、密告されてしまっているところだと言うのに」 独り言を言いながら、コーヒーを沸かしてPCの前に座る。このためにわざわざ、妻を病院に行かせたのだ。 日曜日にアミューズメント施設で家族サービスをしないような、余裕ない、家庭を大事にしない欠陥人間だと評価されないためには、妻の病院、と言うような正当な理由がなくてはならない。 妻には新しい服を買ってやることで、同意を得ている。頭ごなしに行けなどと言えば、妻から訴えられてしまうのだから、仕方がないだろう。そんなことで、ここまで積み上げた実績を失うわけには行かない。 もっとも彼女だって運命共同体だから、実際にそれを密告するようなことはないだろうが。 「とは言え、まあ、アレほど優秀な男だ。もちろん先方と会う正当な理由も考えてあるんだろうな」 密告すれば、それに応じてポイントがもらえるが、おそらく彼はそんな尻尾を出すことはないだろう。それなら彼との信頼関係を深めておいて、何かのときに助けてもらうほうが利口だ。 「法律関係の人間は、何かと使えるからな」 そう独り言ちると、それきり頭を振って青シャツの男のことは忘れ、彼は来週の分の仕事に没頭した。 一方、青シャツの男は法律を通すための根回しに奔走し、夜中近くなってから帰宅する。 扉を開けると、血圧の薬をもらいに行った病院から帰っていた妻が出迎えてくれた。 「ねえ、あなた。今日病院で1298号の奥様に会ったわよ。体調不良とかでいらしてたの」 「ああ、ダンナの方なら今日、コミュニケーション広場で会ったよ。なんだ、じゃあ彼も今日は残業だったんだな? 奥さん、本当に病院が必要ってカンジじゃなかったんだろう?」 「でしょうね。向こうの奥様も含み笑いしながら、お互い大変ですねって笑ってたから」 「おいおい、あんまり余計なことを言うなよ? まあ、彼だって密告されるような証拠を残すほど、うかつではあるまいが。なんと言っても最上階まできてる男だ」 「そういえば、向こうの旦那さんも、もうすぐシティにいけるんですって?」 「らしいな。ウチのほうが一年ほど早いが、まあ、だいたい同期ってことになるんだろうな」 「あそこは収入も、家柄もだいたいウチと似てるし、仲良くしておいたほうがいいわね。シティに行ってから、あんまりウチより上の人たちばかりといると、疲れてしまうだろうし」 「そうだな。専門も違うし、彼とは仲良くやっておいたほうがいいかもしれないな。なかなか意見の会う男だし」 「意見が合う? まさか、今日、ディスカッションなんてしなかったでしょうね? 今日は日曜日なんだから……」 「そんな初歩的なことは、わかっているよ。ただの世間話さ。ほら、例の599号の男がいるだろう? 奥さんと別れて下がり、仕事をヘマして下がり、とうとう先月、5階まで落ちていった男が」 「ああ、昔、ウチと同じ階に住んでいた人でしょう? 奥様の実家が官僚か何かで、そのせいで最上階近くまで上がってきてた。やっぱり別れたとたん、一気に落ちて行ったわね」 「そうそう。あの男だ。彼がね、日曜の昼間から酒を飲んでいたんだよ」 夫の言葉に、妻は眉をひそめる。 「まあ、なんてことを。いくら自分に出世の見込みがないからって、子供達の教育上、良くないでしょう」 「まったくだ。我々もそう思っていた。ところが、そこに彼の息子が、大きなバイクに髪の毛の真っ赤な女の子を乗せて、やってきたんだよ」 妻の顔はますますゆがむ。 「やっぱり、子供もそうなってしまうのね。その女の子もきっと、ろくな家庭に育ってはいないのでしょう。かわいそうに。親がだらしないと、子供もそうなってしまうのよ。子供に罪はないのにねぇ」 「まあ、子供とは言っても、もう17,8だからな。自分で考えられる年頃だ。親のせいばかりにするのもどうかとは思うが」 「いいえ、親のせいよ。愛情のない家庭では、子供はすさんでしまうわ」 その点、ウチは……という響きを言外に込めて、妻は娘の部屋の扉を見た。今頃は、試験勉強に余念がないはずだ。なんと言っても、愛情たっぷりの家庭で育ってきた、幸せな娘なのだから。 と。 扉が開いて、その娘が出てきた。 「DVDーRが切れたから、買ってくるわ」 「DVD? なんだ、お前の学校は、オンライン提出じゃないのか?」 「ううん、課題を友達と分けてやってるのよ。まさか、オンラインでやり取りするわけに行かないでしょう?」 「ああ、そうか。しかし本当なら課題は自分の力で……」 「パパ、わかってるでしょう? それじゃあ課題が間に合わなくなっちゃうじゃない。私の成績評価が下がったら、パパだって……」 「ああ、わかったわかった。気をつけて行ってこいよ? 最近はおかしなのがいるから」 「うん」 娘は一瞬悲しそうな顔をしたが、やがて大きくうなずくと、家を出て行った。 夫婦はそれから、今日仕入れた近所の噂話などをしていたが、さすがに一時間しても娘が帰ってこないのを見て、だんだん心配し始める。 「どうしたんだろう? なにかあったんじゃ?」 「あなたは過保護なんだから。時々厳しくしないと、あの子のためにも良くないわよ?」 「ああ、判ってるよ」 しかし、いつまでたっても娘は帰ってこない。 いい加減探しに出ようかと思っていたところに、電話が鳴った。いやな予感を感じつつ妻が受話器を取ると、電話の向こうから最悪の現実がやってきた。 警察からの電話は、娘を人質に取った若い男が、コンビニに立てこもっていると言う内容だった。妻は真っ青になり、夫に倒れ掛かる。電話を代わった男も真っ青な顔をして、すぐに現場へ行くと答えた。 取るものもとりあえず、夫婦はコンビニに向かって駆け出す。 コンビニの前は、もう、黒山の人だかりになっていた。 やってきた二人が事情を話すと、捜査本部らしきテントの前につれてゆかれる。IDや職業など、一通りの事を聞かれているうちに、男の我慢が切れた。 「そんなことより、娘は? 無事なんですか?」 「まあ、まあ。落ち着いてください。娘さんは必ず助けます」 感情のない、お役所的な答えにじりじりしていると、テントの奥に例の赤シャツの男が、妻と一緒に座っていることに気づく。どうしてあの男が? と聞くと、警察は曖昧に言葉を濁して何も答えない。 「何で彼が?」 妻が青い顔のまま答える。 「あそこの息子さんも、人質に取られたんじゃ?」 「ああ、そうか。いや、しかしそれなら警察もそう言うのじゃないか?」 言いながら、男の胸にひとつの回答が浮かぶ。 「まさか……」 そのときこちらを見た赤シャツがあわてて目をそらした。その顔を見て、男の疑惑は確信に変わる。 「あいつの息子が、犯人なんじゃ?」 驚いた妻がなにか言うより早く、青シャツは赤シャツに向かって大声を上げた。 「おい、まさか。犯人はあんたの息子なんじゃ?」 確実に聞こえたはずだろうに、赤シャツは黙ったまま下を向いている。 「やっぱりそうなんだな? 畜生! なんてことだ!」 そこへ刑事がやってきて、男を止めた。 「やめなさい。彼らも傷ついているんだ」 「傷ついてる? 冗談じゃない! だったらウチの娘はどうなるんだ!」 「あなた!」 激昂する男に、刑事が冷ややかな眼で言った。 「あまり感情的になるのは、得策とはいえませんよ? ここの会話はすべて公式の記録に残されますから」 「公式」の言葉に、男はひるんだ。それからあわてて、言い訳するように言う。 「いや、もちろん彼の気持ちもわかる。自分の育て方が否定されてしまったのだから。だが、私の気持ちも察して欲しい」 「ええ、よくわかります。我々も全力を挙げて、犯人を逮捕するつもりです。ですからどうか、軽挙妄動はおやめください」 男がうなずくと、横で妻がほうとため息をついた。こういう極限状態で発した反社会的な言動により、後日、出世の道を失ったものは多いのだ。 やがて、犯人は逮捕され、娘は無事に両親の元へ。 男は刑事にお礼を言いながら、握手を求めた。 刑事は当然の職務を全(まっと)うしただけです、などと答えながら握手した右手を離し、そのままポケットにしまう。出てきた手には何も持っていなかったが、代わりにポケットは少しだけ膨らんでいた。 それから逮捕した犯人の両親、赤シャツの男のほうに向かう。 両親はこれ以上ないほど力なくうなだれていたが、刑事がやってくるのを見ると、あわてて言った。 「刑事さん、息子に弁護士をつけたいと思います。いいですね?」 「もちろん、それは当然の権利です。それでは、その弁護士の連絡先を」 連絡を受けて駆けつけていた、 赤シャツの友人だと言う弁護士が、彼の後ろから姿を現す。 「これが私の名刺です。刑事さん、彼にはいつ接見させていただけます?」 「取調べの時間にも寄りますが」 「そうですか。そうだ、ところでそれとはまったく関係ない話なのですが……」 そう言って弁護士は、刑事にある情報を教えた。それはおそらく、刑事のポケットをもう少しだけ膨らませる価値があるのだろう。刑事は神妙な顔でうなずくと、言った。 「接見に関しては、出来る限り迅速な対応を心がけます」 満足そうにうなずいた弁護士は、その旨を彼の雇い主である友人に告げに行く。これで彼のポケットも、刑事よりさらに大きく膨らむだろう。 とりあえず事件は落ち着き、人々はそれぞれ帰っていった。 数時間後。 青シャツの家に、赤シャツと妻、彼の友人である弁護士の三人がやってきた。赤シャツと妻は、青シャツやその妻、被害者である娘に、頭をこすり付けんばかりにして謝る。 青シャツは最初、怒りに表情を硬くしていたが、やがて熱意に負け、彼らを許した。もちろん、弁護士が積んだ札束とは何の関係もないと、少なくとも青シャツは言うであろうが。 「さて、あとは何か材料があればよいのですが。でないとほら、子供の注意欠陥、多動性障害、いわゆるADHDを治療する専門家の子供が、少年法改正の急先鋒である人間の娘を人質にとって、と言う なんとも含みの多い事件ですからね」 弁護士の言葉に、同じ法律のプロである青シャツは、一瞬で理解を示した。もちろん自分は、いや自分の娘は被害者だが、そこからどんな風に世論が発展するとも限らない。 万が一そんなことでケチがついては、せっかくのシティ行きがフイになってしまうことだってありうるだろう。青シャツは、しばらく考えた後、何事か思いついたのだろう、にやりと笑いながら喋りだした。 「彼の息子は、ノイローゼ状態だったのだ。なぜなら、ウチの公共住宅の5階に住んでいる少年が、毎晩バイクで轟音を立てていたから、それで睡眠不足になっていたのだ」 とたんに赤シャツの顔が輝く。弁護士のほうは慎重さを崩さず、冷静な表情で聞き返した。 「なるほど。それなら彼にも情状酌量の余地があるでしょう。しかし、それは本当なのですか?」 その言葉に、今度は赤シャツが答えた。 「もちろんだとも。5階に住むあの少年の事を、みなに聞いてもらえれば判るはずさ。それに、昼間から酒を飲んでいる、だらしない父親のこともね」 問題をあの家族にすり替えてしまえば、息子も可哀想な犠牲者になれるだろう。早くしないと駆けつけたマスコミに、息子は寄ってたかって毟(むし)られてしまう。 「そうか、それならその線で動くとしましょう。まあ、相手がバイクに乗って騒いでいるような人間と、昼間から呑んだくれている親なら、こちらが同情を引くのはたやすいはずですしね。誰だって そういう連中は好かないはずですから」 その言葉に、赤シャツ、青シャツは強くうなずいた。それから赤シャツは、友人を伺うように覗き見て言う。 「それに、この事件をうまくコントロールできれば、君のやっている交通遺児の救済運動にも、一役買えるだろう?」 「ああ、そうだな……」 そこで弁護士はにやりと笑い、赤シャツもようやく胸をなでおろした。これでシティに行くのはもう少し遅れるかもしれないが、しかたあるまい。まったくバカ息子め、困ったことをしでかしてくれたものだ。 思案に沈む赤シャツをよそに、青シャツは弁護士に話しかけた。 「ほほう、あなたは交通遺児の救済を?」 「ええ、あなたの方は少年法の改正にご尽力なさっておられるようですな? おうわさはかねがね」 「いや、お恥ずかしい。しかし、これも何かの縁だ。これから何かと協力させていただきますよ。不幸な遺児のためにも」 「おお、それは心強い」 二人は乾いた笑いを上げた。それから青シャツは急に振り返ると、赤シャツに向かって言った。 「今回のことはまあ、不幸な事故だったと思うように努めます。幸い、娘も無事でしたし」 「なんともお詫びのしようがございません。今後、私に出来ることがあれば」 その言葉を半ば予想していたのだろう。青シャツは急に声をひそめて言った。 「私の上司の息子さんがね、ADHDと診断されましてね」 赤シャツは一瞬で理解する。 「わかりました、最高の治療施設を紹介させていただき……」 「ええ、それももちろんお願いしたいのですが、それよりも……」 「ご安心ください。そこでの治療は、決して公の記録に残ることはありません。そのお子さんの経歴にADHDの文字が残ることは決してないでしょう」 青シャツはそこで始めて、愁眉を開いた。 「それはありがとうございます。上司もきっと喜びます」 それから三人は、いや、赤シャツの友人である弁護士が帰った後もふたり、とても立てこもりの犯人の父親と、その人質だった娘の父親とは思えない仲むつまじさで、深夜まで酒を酌み交わした。
ある日曜日、コミュニケーション広場でふた家族が仲むつまじくバーベキューパーティを開いていた。 もちろん、青シャツと赤シャツの家族である。件(くだん)の息子と娘は、顔を出していない。 楽しく、少なくとも表面上は楽しく食事をしていた彼らの後ろから、突然、爆音が鳴り響く。驚いて視線を向けた先には、単車が二台、こちらに向かってやってくるのが見えた。 これはまずいと携帯電話を取り出した彼らに向かって、単車の男、そう、例の酔っ払いオヤジが大声で言った。 「警察なんか呼ばなくても、あんたがたに危害を加える気はないよ」 するともう一台のほう、その息子と彼女の方も、存外さっぱりとした顔でうなずいた。 「あんた達のせいで、俺らはここを出てゆかなくちならなくなったけど、それは全然うらんでないんだ。俺達は、割合、どこでも暮らしてゆけるからね」 「そーそー。今度は海の近くに住むんだよ? いいでしょう?」 女の子の言葉に、彼らは苦笑するしかない。 と、父親のほうがにやりと笑って言った。 「今日わざわざここに来たのは、一応了解を取っておこうと思ってね。ホラ、いくら自由意志を尊重する親御さんでも、こればっかりは承諾しておいてもらわないと、後々面倒だからさ」 なんのことだかぽかんとしている二人の前に、さらにもう一台の単車が現れる。その単車にはなんと、ふたりの息子と娘が乗っているではないか。 何が起こったのかわからないでいる男達に向かって、赤シャツの息子が言った。 「僕は、自由に生きたいんだ。だから、この人たちについてゆく」 すると娘のほうも、笑顔で叫ぶ。 「私、彼の行くところなら、どこにでもついてゆくわ」 「何を言ってるんだ! そいつはお前を人質にして立てこもった……」 「まったく、あんた達もたいしたもんだよな?」 大声で青シャツの言葉をさえぎったのは、酔っ払いオヤジの息子だった。 「あの日、このふたりはさ、駆け落ちしようとしていたんだよ。知らなかっただろう? 二人はずいぶん前から愛し合っていたんだ 。ところがふたりはちょっとしたケンカをしてしまった。それを何か勘違いした近所の住人が、通報してしまったというわけさ」 「まさか。それならそうと……」 「言えるわけないじゃないか!」 赤シャツの息子が叫ぶ。驚いた彼は黙って息子の顔を凝視した。 「父さん。あなたはシティに行くことばかり考えて、僕のことなんてロクに知りもしなかっただろう? 知っていたかい? 僕が毎日、死ぬことばかり考えていたのを?」 赤シャツは愕然として、何の言葉も発することができない。 「そんな時、オヤジさんに会ったんだ。オヤジさんは僕の話を聞くと、思いっきりゲンコツを呉れて言った。「父ちゃん、母ちゃんにもらった命だろうが。お前が好きにしていいと思ってるのか?」ってね 」 息子はもう、穏やかな様子にもどって、淡々と話してゆく。 「父さんも母さんも、僕の人生は僕のものだ、自由にしたらいいって言ってくれてた。だから僕は、死のうと思っていたんだ 。僕の存在にどんな意味があるのか、僕は悩んでいたんだよ」 赤シャツと彼の妻は、息子の告白を息を呑んで聞いている。 「みんな自分で考えろっていう。でも僕はどうしていいか判らなかった。だけど、オヤジさんは父さんたちと違った。ものすごく自分勝手な意見を押し付けるんだ。ガキなんだから言うことを聞け! って。それは理不尽なことだけれど、でも、すごく安心できたんだ」 言葉を切った息子にかける言葉を捜している赤シャツへ、酔っ払いオヤジが話しかける。 「知らんかも知れんが、ガキてのは汚ねえモンが少ねえだけに、意外と幼いうちから哲学者になるんだよ。まして、今みたいに情報が氾濫している世の中じゃあ、余計にな」 そこへ今度は青シャツの娘が口を挟んだ。 「彼はオヤジさんに連れられて、公用ガレージにやってきて、私と会ったの。私、ずいぶん前からあそこに通ってたのよ? 知らなかったでしょ? あそこに来るひとなんてあんまりいないから、いい溜まり場なのよね」 「お、おまえは……」 今度は青シャツが言葉を失う番だ。 「パパが言ってた、髪の真っ赤な女の子ってこの子でしょう? 私達、ずいぶん前から友達なんだよ?」 「あなたが、そんな子と付き合っていたなんて……」 母親の言葉に、娘はその顔をキッと睨む。 「母さんが何を知ってるの? この子の信じられないようなきれいな歌声を聴いたことがあるの? この子の作るとても切ない歌詞を聴いたことがあるの?」 言われた女の子は、大好きな彼の単車の後ろで、耳まで真っ赤にして照れている。その顔に向かってウインクした娘は、両親に向かって大声で叫んだ。 「ふたりは、私にいつも言ってたよね? 好きにしろ、オマエの人生だ、お前が判断しなさいって。でもね、私、もう少し甘えたかったんだよ? お父さんでも、お母さんでもいい。「私が決めてあげるからね」って言って欲しかったんだよ?」 「な……」 「まーよ、お前さんたちの気持ちもわからなくはねえ。子供の人生は子供のものだ、あんまり干渉してはいけないってことなんだろう」 酔っ払い親父の声が響く。 「でもよ、あんまし早く突き放しても、子供は寂しいやな。何にもわからねえうちから「てめえで考えろ」たって、そりゃ酷だよ 。図体ばかりでかくても、こいつらガキなんだからさ」 「あんたんかに!」 吠えたのはどちらの母親だっただろう? しかし、そのときはすでに、三台の単車は爆音を上げて、走り出していた。赤シャツと青シャツが叫び声を上げる。 「こんなことが許されると思うのか! 冗談じゃない!」 その声に向かって、二人の息子と娘は、親指を上げて微笑みつつ、底抜けに明るい声で叫び返した。 「上等!」 とたん、ふたりはがっくりと膝を折る。 二人が愕然と膝をついたのは、子供に裏切られたと思ったからなのか? それともこの事態によって、もしかしたらシティ行きがフイになるかもしれない、という絶望からだったのだろうか? 二組の夫婦は、それぞれの思いを胸に、走り去る子供達をいつまでも眺めている。 彼らの行く先に、見えるはずのない大きな水平線が見えたような気がして、赤シャツと青シャツは、何度も目をこすった。 |