別れの時
俺は、あいつのことが忘れられない。

むかし好きだった女のことを忘れられないっていうのは、比較的よくある話かもしれない。だけど、それもある程度の年齢までだろう。 俺のように還暦近くなってまで、小学校時代の初恋を引きずるヤツはなかなか居まい。

バカな男だと笑うなら笑え。

けれど俺は、どうしても忘れられないんだ。

これがはっきりと異常な部類の話だということは、自覚している。だから、彼女のストーカになるわけでもないし、いまさら彼女とどうにかなんて考えているわけではない。

彼女は俺の親友と一緒になった。一緒になると聞いたときは、俺を含めた幼友達は、みな一様に驚いたものだ。 今でもヤツとは付き合いがあるし、そのせいで彼女とだってよく顔をあわせる。

それが俺にはたまらないのだ。

俺はヤツと彼女が一緒になるという知らせを聞いてすぐ、俺と結婚したがっていた女を嫁にもらった。お世辞にも美人とはいえないし、少々気は強いが、よく気が付き、くるくるとよく働く、いい 妻だと思う。

20年前に亡くなった父や母とも仲良くやっていたし、一般的にはとかく問題が起こりやすい小姑の姉とも、うまくやってくれている。

もっとも妻も小学校の同級生だから、姉とは旧知の仲だったというのも、ひとつの要因ではあると思うが。

話のついでに姉のことも語っておこう。

姉はわがままでいいかげんな女だ。義兄の寛容さに甘えて、常に自分のわがままを押し通す女だ。だが、人当たりはよく、お調子者なので人気はある。

顔が広くて浪花節、他人事でも放っておけない性格だから、近所ではなかなか頼りにされていたりもするのだ。わがままに付き合う身内としては、なんとも納得のいかない話なのだが。

話がそれた。彼女の話だ。

ぶよぶよと太った妻の後姿を眺めながら、俺は常々考える。

どうして俺は、自分の気持ちに素直に慣れなかったのだろう。たったヒトコト本当の気持ちを伝えるだけで、俺は彼女と暮らしていたかもしれないというのに。

彼女は俺と同い年だから、もうすぐ還暦を迎えるはずだが、年月は彼女の美しさをまったく損なうことはない。 むしろ人間的な深みが増すにつれ、彼女の魅力は一段と強くなってくる。

そこで俺の友達が彼女をないがしろにするような男なら、ある意味まだ救いはあるのだが、彼は自分の妻を非常に大事にする男なのだ。

俺は自分の妻に愛情を抱いていない罪悪感も手伝って、彼に対し嫉妬と引け目の入り混じった、複雑な感情をいつも抱いていたのである。

 

姉が病に倒れた。

数年前に夫に先立たれ、その頃からかなり元気がなかったのだが、ここへ来て急に体調を崩した。最近、寒かったり暑かったりの異常気象が続いたから、それがとどめになったのかもしれない。

姉には内緒で担当医に呼ばれた我々家族は、そこで姉の寿命が長くないことを聞かされる。あるていど覚悟していたとはいえ、妹などはさすがに泣き出してしまった。

家に帰る道すがら、家族の誰も口を開くものは居なかった。

家に帰れば帰ったで、おせっかいな近所の連中に、ことの次第を話して聞かせなくてはならない。みんな家族のごとき付き合いをしているので、さすがに黙っているわけにはいかないのだ。

俺は結婚して義父の仕事を手伝っている関係で、実家にはあまり寄り付かなくなっていたが、俺の友人たちは姉を慕ってよく顔を出していたようで、思いのほかたくさんの人が実家に集まって居た。

その中には当然、彼女の姿もある。

俺はこんなときだというのに、彼女の変わらぬ美しさに見とれてしまった。

彼女は姉の容態を聞くと、自分の家族のことのように、声を上げて泣いた。それにつられるように、友達連中も泣き始める。

俺は、なにやら感動を覚えていた。

なんという気持ちのいいやつらだろう。

彼らは姉の不幸をわがことのように悲しんでくれている。それなのに実の弟の俺は、てめえの未練を引きずって、友人の妻に横恋慕しているのだ。

俺は自分が恥ずかしくなった。

そうしてそう思ってはじめて、俺がこれほどまでに彼女に固執していた理由に気づく。

俺は彼女に恋していたんじゃない。

いつまでも若く変わらない彼女に、俺の一番幸せだった時代を重ねて見ていたのだ。 彼女が忘れられなかったのではなく、彼女の象徴する俺の黄金時代が忘れられなかったのだ。

姉のことで泣いてくれる友たちを見ながら、俺はようやく胸のつかえをおろすことができた。

傍らで泣いている妻を抱き寄せる。

そうだ。

俺は幻影を追いかけて現実を見ようとしなかった。それなのに妻は、俺についてきてくれたのだ。そう思うと、とにかく妻が愛(いと)しかった。

妻は肩を抱かれて一瞬とまどったが、そのまま俺の肩に顔をうずめると、俺よりずっと純粋な涙を、義姉のために流し続けた。

 

その時が来た。

見る影もなく痩せこけて弱りきった姉の周りに、家族や友達が集まる。

姉は俺と彼女……かつて俺の愛した女とを見比べて一瞬なにか言いたそうにしたが、俺が愛する妻を抱き寄せて微笑むと、心の底からうれしそうに微笑んだ。

やはり、姉は気づいていたのだ。

気づいて、ずっと気に病んでいたのだろう。

俺は姉に対して感謝と申し訳なさの入り混じった思いを感じ、自然に涙を流していた。

姉は痩せこけた手を俺に向かって伸ばす。

その手を握り締め、俺は泣きながら言った。

「姉さん、心配かけたね? ごめんね?」

姉はその言葉に黙って微笑む。

妹が姉にすがり付いて泣き出した。 周りの人間も、涙をこらえるのに精一杯だ。 うかつな俺は、そこでまた気づく。

ああ、そうなんだ。

姉は俺だけじゃなくて、ここに居る全ての人間を心配していたんだ。だからこそいつもぼーっとしているように見えたのだ。

彼女がいろんな失敗をやらかしたのは、彼女がドジで抜けていたからではなく、いつも周りの人間のことばかり心配して、自分のことをちっとも省みなかったからなのだ。

そして俺以外の人間は、みんなそのことに気づいていたのだろう。いちばん近くに居た俺が、いちばん姉のことを理解していなかったのだ。

俺の心は、後悔と感謝、そしてあふれ出さんばかりの姉への愛情でいっぱいになる。

やがて、姉の命のともし火の消えるときが来た。

姉は最後まで心配をかけ続けたバカな弟の手を握り、やさしく、やさしく微笑んだ。

「もう、大丈夫だね?」

最後の最後まで、姉は俺を心配してくれている。このバカな男は、最後の最後まで姉に心配をかけ続けている。

俺はもう、言葉を発することもできないで、ただ泣きながら首を縦に振り続けた。

姉はそれを見て、ほっとした顔になると、ゆっくりと目を閉じる。

「よかった。これで思い残すことはない」

姉さん!

ごめんよ、姉さん!

「ほら、もう泣かないで。私なら平気だよ。やっと愛するあの人のところへゆけるんだから」

最後の最後になってようやく、みんなの面倒を見続けた「アネさん」から、「一人の女」に戻って、姉は幸せそうにつぶやいた。

 

「やっとそばにいけますよ。マスオさん……」


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