ヴォンネビルの男
息子の死を願う。

それは異常なことだろうか?

それとも、こんな状態になれば、誰でも思うことなのだろうか?

エイミーは自分が異常だとは思っていなかったが、かと言って息子の死を願うことが尋常でないことも充分理解していた。

莫大な資産と権力を持つ夫に嫁いだとは言え、彼女自身は一般的(こんな言葉にどれほどの意味があるのかはともかく)な、きわめて一般的な妻であった。少なくとも自分ではそう信じていた。

二人目の子供、アレックスが生まれるまでは。

そう、すべてはアレックス。ふたり目の子供。自分以上に、夫や義父、親類縁者が待ち望んだ、初めての男の子。みなの期待を一身に受けて生まれてきた、ヴォンネビル家の長男坊。

そして、彼女の幸せのすべてを破壊する、悪魔。

理性では決して許されないことだと思いながらも、エイミーは自分の生んだ息子を、愛するのと同じか、それ以上に憎んでいた。

 

ジェイク・ヴォンネビルは世界最大のコングロマリット(複合企業)、ヴォンネビルカンパニーの次期総裁と目される、若き獅子であった。

ヴォンネビルカンパニーは初代のアレクサンドル以来、6代を数える親族企業である。しかし、親族でありながら、彼らの中には普通必ず一人や二人はいるであろう愚か者が存在しなかった。

これが幸運なのか、必然なのかはともかく、親族企業らしいチームワークと、各人の群を抜く優秀さによって、いまやヴォンネビルは世界を征服した感さえある、圧倒的大企業、いや、企業国家と言ってもいい巨大な存在だった。

ジェイクはその権力者の家に生まれ、エリートコースを逸脱することなく、一流大学を首席で卒業し、父の持つたくさんの会社のひとつを任される。

そこで彼が見せた手腕は、まさに次期総裁にふさわしいものであった。

彼が指揮を取るや否や、会社は業績を急激に伸ばす。業績を評価した現総裁である父は、彼にさらに多くの会社を任せ、ジェイクはその事業のことごとくを成功に導いた。

父に勝るとも劣らない、冷静さと、辣腕(らつわん)。それでいて優しく穏やかな性格。彼が圧倒的な人望を得るのに、それほど時間は必要なかった。

英雄色を好むというが、ジェイクに関する限り、そう言う浮いた噂はまったくない。大学時代に知り合い、穏やかに、しかし誠実に関係を進めてきた娘、エイミー・カルデラ以外の女性には、まったく興味を示さなかったのである。

大金持ちで、辣腕の実業家で、ハンサムで、誠実。

みなにそう評されるジェイクはエイミーの自慢であり、幸せの象徴であった。そんなわけだから、ジェイクが二十歳のクリスマスに彼女に指輪を贈ったとき、エイミーはあまりの幸せに嗚咽を漏らしさえしたのだ。

とにかく、たくさんの羨望と嫉妬のまなざしに見つめられながら、エイミーは次の年の春、ジェイクの元へ嫁いだのだった。

巨大カンパニーの次期総裁の元へ嫁ぐのだ。エイミーはかなりの覚悟を持って臨んだ。

どんな目にあおうとも、どれほど虐げられようとも、自分はジェイクへの愛を貫く。 愛があれば!

そう力んでいた彼女が拍子抜けするほど、風当たりは少なかった。

それはもちろん、ジェイクが色々算段した結果であるのだが、しかし、それ以上に、万事控えめで、しかも聡明なエイミー自身の人柄のおかげでもある。

幸福の二文字を形にすれば、それは自分になるだろう。そんな風に思えるほど、エイミーは幸せだった。

ただ、ふたつほど問題があった。

ひとつはジェイクの母親である。初めて会ったとき、彼女はエイミーを見てもにこりともせず、ただ、大きなため息をついた。どれほどエイミーが心を開いても、彼女はそれを無視した。

ふたりが結婚して1年後、病で亡くなる最後のときまで、義母は決してエイミーに微笑むことはなかったのである。エイミーは悲しくて、自分の何が至らなかったのか、ジェイクに泣きながら聞いたことがあった。

ジェイクの答えは

「母親ってのは、息子のことが何より大事なんだよ。君に取られたような気がしたんだろうさ。病気で少し、心が狭くなっていたのかもしれないね」

と言うものであった。このことはしばらくエイミーを傷つけたが、やがて日々の幸せと忙しさに、それも忘れ去られた。

もうひとつの問題。それは、なかなか子供が出来ないことだったが、それも取り立てて騒ぐほどのものではない。ジェイクもエイミーもまだ若いのだから。

結婚して6年後、待望の子供が宿った。ジェイクはどちらでもと言っていたが、周りの人間は明らかに男の子を欲しがっている。特に義父がそれを心待ちにしていることは、エイミーにもわかっていた。

が、生まれたのは女の子であった。

もちろん、ジェイクは優しい言葉をかけてくれたし、みな喜んでくれた。エイミー自身も元気で生まれてきた娘に、心から感謝した。

が、それとは別に、男の子を生めなかったと言う負い目、いや、そこまでは言わなくても「申し訳ない」ような気持ちが、エイミーの心のどこかにあった事も間違いない。

ジェイクは娘を可愛がり、エイミーも娘を心から愛した。

アリサ・ヴォンネビルはそうして人々の心からの愛を一身に受けながら、幸せに、すくすくと育ってゆく。そしてアリサが三歳になったとき、エイミーは二度目の妊娠をした。

子供が宿ったことと同じか、それ以上に彼女を喜ばせたのは、医師がエコー画面を見ながら言った「どうやら今度は息子さんのようですね」と言う言葉であった。

エイミーはとにかく慎重に慎重に妊娠期間を過ごし、無事、元気な男の子を出産した。平均よりも大きなその男の子は、アレックスと名づけられ、アリサのとき以上に、ヴォンネビルにかかわるあらゆる人々から喝采を持って迎えられた。

しかし、やがてエイミーは奇妙なことに気づく。

アレックスは泣かない。そして、アレックスは笑わない。眠っていても、起きていても、彼は静かな、少々異常といえるほど静かな赤ん坊であった。

家を訪れた人々は、賢く、聡明な子供だと世辞を述べたが、エイミー自身はその言葉に手放しで喜べるほど、楽観的ではいられなかった。

彼は他の赤ん坊と同じように、糞尿を垂れ流し、乳を飲み、眠る。だが、そのすべてをエイミーを含めた誰にも伝えようとしないのだ。

放っておけば、汚れたオシメのまま、何時間でも耐える。エイミーが差し出さなければ、自分から乳を欲しがることもしない。

エイミーは、男の子は女の子と違うだろうからと山のように買い込んだ育児書を、彼が誕生して半年を過ぎたころ、すべて捨てた。たった半年で、やるべきことはすべてパターン化してしまったのだ。

毎日決まった時間に乳を飲ませ、オシメを取り替える。それ以外の時間、エイミーはまったく自由だったが、しかしそれは同時に、何か物足りなさを感じさせた。子供を育てている実感が、まったくわかないのだ。

三歳を半ば過ぎたアリサのほうが、ずっと手がかかる。しかし、アリサはその報酬に「ママ、ママ」と、かわいらしい声で呼びながら、天使の笑顔を見せてくれる。

胸が一杯になるほどの愛しさと幸福を、彼女に感じさせてくれるのだ。

しかし、アレックスは厄介もかけない代わりに、何の報酬もくれない。まるで、誰かに借りを作ることを恐れているかのように、彼はかたくなに「いい子」だった。

育児に追われる同年代の母親達は、心配するエイミーを「贅沢だ」といって笑った。しかしエイミーの心配は、数年後に具体的な形を持って現れる。

 

アリサ8歳、アレックス5歳になった、ある晴れた昼下がりのこと。

午前中いっぱい騒ぎまくっていたアリサがやっと昼寝についてくれたので、エイミーは買い物に出た。夕飯の買い物は、子供たちの健康などを気遣って、使用人たちではなく彼女自身が買いに行くことが多いのである。

夕飯の材料を買い込んだエイミーが帰ってくると、アリサとアレックスの姿が見えない。不審に思って家の中を探して歩くと、二人は二階の寝室で遊んでいた。

その姿を見た瞬間、エイミーの呼吸は一瞬止まる。

アリサは二階の寝室の出窓に乗って、窓の外に身体半分を突き出していた。そしてその後ろに居たアレックスは、今まさに、彼女を窓から突き落とそうとしているように見えたのである。

「アリサ!」

彼女の叫びに、アリサは驚いて振り返る。その瞬間バランスを崩した身体は、出窓の外へ転がりだしそうになった。エイミーの悲鳴が、響き渡る。

落ちる寸前、何とか体勢を立て直したアリサは、ひょいと出窓の下へ降りると、きょとんとした表情で、弟と母親を見つめた。

エイミーは安堵でその場に崩れ落ちる。その姿に驚いたアリサは、母親に駆け寄って泣き出した。アレックスは何事もなかったかのようにその場に立っていた。

やがて冷静さを取り戻したエイミーは、アリサを抱きしめながら、アレックスに向かって強く詰問する。

「アレックス! あなたは今、何をしようとしていたの?」

どうごまかそうとしても、強く問い詰めるつもりだったエイミーは、次の瞬間、恐怖に身体を硬直させた。

「アリサを窓から落とそうと思ったんです」

とても5歳とは思えないはっきり、しっかりした口調で、アレックスは答えた。その口元には、涼やかな微笑さえたたえて。

「な……なぜ?」

怒ることも叫ぶことも忘れて、エイミーは息子の答えを待つ。

「だって、あなたは(アレックスは2歳でようやく口が聞けるようになって以来、母親のことをこう呼んでいた)いつも言っているでしょう? アリサがもう少しいい子でいてくれたらって」

「だからって、どうして!」

エイミーはパニックに近い動揺を覚えていた。

「いい子って言うのは、あなたに面倒をかけない子の事でしょう? ここから落ちて死んでしまえば、アリサは誰よりもいい子になる」

恐るべきことに、驚くべきことに、アレックスは窓から突き落とせば死ぬということを十分に理解したうえで、あえてそれをしようとしていたのである。彼の言葉を信じるとすれば、姉が母親に面倒をかけないようにするためだけに。

淡々と。

エイミーは言葉を失って、しばらくの間息子の顔を見ていた。これまで薄々気づいていながら、あえて正面から向き合おうとしなかった事実に、どうしても向かい合わなくてはならなくなったのである。

この子は、普通ではない。

エイミーは気を取り直すと、アレックスに向かって言った。

「アレックス、人の命というものは、何よりも重いのです」

単純に、アリサが居なくなったら、あなたも悲しいでしょう? という論法を、エイミーは避けた。万が一、息子が首を横に振ったら、と恐怖してしまったから。

だが、 アレックスもかわいい自分の子供なのだ。

誰がなんと言おうと。

「判りました。もう、二度としません」

驚くほど聡明な表情で、アレックスはそう言った。エイミーは黙ってうなづくと、アリサを抱いて階下に下りる。その頃になってようやく、身体の芯から震えがやってきた。

しかし、これは始まりでしかなかった。似たようなことがたびたび起こり、そのたびにエイミーは恐怖を感じながら、いちいちアレックスを叱らねばならなかった。

忙しい夫には、なるべく家庭のことで負担をかけまいと思っていたのだが、そんな決心も半年を待たずして崩れ去る。

彼女はアリサが殺されかけた事件のほか、アレックスの異常な振る舞いのすべてを、夫に打ち明けた。

心配するエイミーに、ジェイクは笑顔で言う。

「何も心配することはないよ。子供の残酷さというものは、無知から来るのだ。成長するにしたがって、だんだんといろんなことを覚えてゆくだろうよ」

ジェイクの論は、明らかに子供を過小評価した大人の言い草だったが、それでも、この穏やかな笑顔でそう言われると、エイミーの心労は少し軽くなる。

「僕は忙しさにかまけて、君たちを放っていたかもしれないね? これからはもう少し、家族を大事にするよ。ごめんね? エイミー。愛しているよ」

夫の言葉に勇気付けられて、エイミーはしばらくぶりにぐっすりと眠った。

 

夫の言うように、アレックスの奇妙なところは、日を追うごとに少なくなっていった。

しかし、彼が13歳になる頃、事件はおきる。

いまやすっかり普通の子になったアレックスに、エイミーはすっかり昔の事件を忘れていた。二人の子供に分け隔てなく愛を注ぎ、二人はそれに答えてすくすくとまっすぐに育っていた……かに見えた。

事件を忘れていたとはいえ、それまでに培った育て方が変わるわけではない。彼女は二人の子供たちに対して、人を愛する大切さ、人の命の大切さ、みんなのために行動することの大切さを説いた。

もちろん当たり前のことであり、どの親とて教えることである。学校でも教わるし、TVの番組の中でさえ、それは語られた。

が、やがて二人の子供は正反対になってゆく。

アリサは賢い子だった。彼女はある年齢から、大人たちの言うことが大いなる欺瞞に満ちていることに気づく。

平等なはずの人々に、差異や差別が存在し、大切なはずの人の命は驚くほど簡単に奪われてゆく。この現実に、アリサは正常な反応をした。

反抗期と呼ばれる時期に入ったのだ。

家が上流階級であったことも、災いした。彼女は自分の父や祖父が搾取する側であることに、劣等感を持つようになる。思春期特有の潔癖なまでの正義感は、父や祖父を諸悪の根源に感じさせた。

彼女の私生活は乱れ、よからぬやからと付き合うようになる。そいつらが、彼女自身よりも背後にある金のほうに視線を向けていることに気づけるほど、彼女は成熟しては居ない。

やがて彼女は、正義のため、人々のためというお題目に乗せられて、親の金をくすねるようになった。

真っ先に気づいたのは、エイミーでもジェイクでもなく、アレックスだった。

アレックスは姉に向かって、馬鹿なことはやめるよう、悪い仲間とは付き合わぬように再三注意する。しかし、彼女のかたくなな姿勢が、崩れることはなかった。

そして、事態は最悪の方向へ向かう。

「アレックス! いい加減君も自分の考えをしっかり持つべきだ」

アリサを扇動して金を盗ませた張本人、ベン・シュナイダーが言った。共産主義かぶれのこの若者に、アリサはぞっこんにイカれている。

彼女が家の金を盗んだり、彼らの仲間と付き合うようになったのは、彼女自身が思っているような正義感からだけではなく、もっと単純な乙女心だったのである。

「どういう意味です?」

弟にばれたという話を聞いて、ベンは彼を自分のところに連れて来るように言った。

弟の目も覚まさせてやらねばならない、というのが表向きの理由だったが、本当は、ヴォンネビル家の金を盗ませたことが発覚するのを恐れたのである。

「君の父上や祖父殿は、人民の敵だ。だが、われわれは君までもそうだとは思っていない。現に君のお姉さんは、勇気ある決断を持って、彼らを糾弾する側に回った」

アレックスは肩をすくめると、はっきりとした口調でベンに話し出す。その姿はとても13歳の子供のものとは思えない。

「要するにあなたの言う悪とは、富める者のことだ。富の偏在が諸悪の根源だといいたいわけだ? それは判らないでもない。否定できない一面もあると思う」

アレックスの物言いに少々毒気を抜かれたベンだったが、しかし、彼の言葉が自分を否定するものではないということに気をよくし、笑顔でうなずく。 だが、アレックスの言葉は、それで終わりではなかった。

「しかし、あなた自身には、疑問を抱かずには居られないね。あなたの場合はむしろ、自分の元に富がないことへのやっかみとか、不満でいっぱいに見えるよ。あなたはおそらく、富を持ったが最後、嬉々として搾取する側に回るだろうね」

ベンの表情は凍りつき、それから怒りに紅潮した。しかし、彼が何事かを叫びだす前に、アレックスの声が朗々と響く。

「僕は知っているよ? ベン。君は姉以外にも、たくさんの女の子に金を集めさせているね? 活動資金だなんていいながら、君はその金で車を買ったり、サーフボードを新調したり……」

ここでアレックスは姉の顔を覗き込む。

「女まで買ったじゃないか。僕は全部知ってるんだよ?」

アリサの表情が驚愕にゆがみ、周りの連中の猜疑の視線にさらされて、ベンは恥ずかしさと、驚きと、怒りで我を忘れた。鬼の形相で、アレックスに向かって歩み寄ってくる。

と。

姉は弟に駆け寄り、その肩をつかんだ。

「本当なの? アレックス! 本当なの?」

アレックスは穏やかにうなずくと、落ち着いた低い声で言った。

「買った女というのが、あのミシェルなんだ。知っているだろう? 彼女の弟はウチの庭師のデイヴィッドの友達だって」

アリサは振り返ると、ベンに向かって怒りに燃えるまなざしを向けた。

「どういうこと?」

「ウソだ! そいつの言ったことは、全部ウソだ!」

もっと冷静に嘲笑していれば、アリサを含めたみんなも、あるいは彼の言葉を信じただろう。しかし、平然とウソを突き通すには、ベンは小心者過ぎたのである。

彼の激しい動揺が、アレックスの言葉を雄弁に裏書していた。

「なんてやつだ」

誰かがぼそりと言う。

それを期に、ひとり、またひとり、仲間はその場を去ってゆく。

ベンはもはや、絶体絶命どころか、完全に失脚していた。彼が長いことかかって築き上げてきた組織は(少なくとも彼は、それを「組織」だと思っていた)ここに瓦解した。

怒りと絶望に満たされた若者は、ナイフを握り締める。

そして叫び声をあげながら、アレックスに向かって駆け出した。周りに居た連中が、思わず悲鳴を上げる。

しかしアリサは悲鳴など上げてはいなかった。彼女はすばやく駆け出すと、弟とベンの間に身体を投げ出す。

長い、長い、絹を裂くような悲鳴。

やがて、静寂。

ベンは我にかえった。握り締めたナイフの先は、アリサのわき腹に深々と突き刺さっている。

「あ……あ……」

ぽとりとナイフを落としたベンは、次の瞬間、大声を上げて逃げ出した。周りの連中のうち何人かが、彼を取り押さえるために駆け出す。残りのみなは、刺されたアリサとアレックスの周りに集まった。

アリサは驚くほど悲しそうな顔で、自分を抱き上げるアレックスのほほに手を添えると、涙を流してつぶやいた。

「ごめんね? アレックス」

アレックスは無表情のまま、姉を抱き上げて家に向かった。

 

アリサの死んだ家は、火の消えたような有様であった。

本来なら傷害致死に問われるはずのベンは、ヴォンネビル家の用意した弁護士の力によって、過失傷害の執行猶予付きで警察署を出る。その数分後、迎えに来た両親と行き違ったまま、彼は姿を消す。

ヴォンネビル家が彼を拉致し、復讐を果たしたと考えるものは多かったが、それを口に出すものは皆無だった。

数週間後、贖罪(しょくざい)の文字でいっぱいになった遺書と共に、ベンの遺体が見つかったときも、その死の不自然さが人々の口に上ることはなかった。

ヴォンネビル家の中では、エイミーが泣き、ジェイクは不機嫌に黙り込み、アレックスは無表情のまま、深い沈黙だけが影を落とすようになった。

エイミーはこの頃から、息子の死を願うようになる。

それは、アリサの葬儀のときだった。みなが悲痛な面持ちでアリサを送る中、献花を終えたアレックスが自分の席に戻ってきたとき、その口元に薄い笑みが浮かんでいるのを見てしまったからである。

瞬間、エイミーは確信した。

ジェイクや周りの人間は、もちろんアリサの行動を快くは思っていなかったが、しかし思春期にはよくあることと、達観していた。

もちろんエイミーも、心配ではあるけれども、自我を持って自分の意思を主張し始めたアリサを、力で押さえつけるような真似はしたくなかった。

だから、仕方なく彼女のしたいようにやらせていたのである。

しかしアレックスだけは、日ごろからヴォンネビルの家名に泥を塗ると言って、アリサを非難していた。そのたびにエイミーは、彼をなだめていたのであるが、しかし、彼女は知っていた。

アレックスの本心が、まったく違うところにあることを。

なぜ、そこまで執拗に姉を責めるたのか?

葬儀で笑っていたアレックスの顔を見た瞬間、彼女は意識下に抑えていた恐ろしい想像から、ついに目をそらすことができなくなった。

アレックスは、未来の自分の敵を排除したのではないか?

おろかな姉ではあっても、ヴォンネビル家の一員である。と言うことは彼女の選んだ夫も、ヴォンネビルの一員になる可能性がある。アレックスはその芽を摘むために、ああなることを充分に予想して、ベンを挑発したのではないか?

ベンが敵になると思ったのではない。敵になるものが懐に入ってくる可能性。その因子である姉を排除するためだけに、ベンに姉を殺させたのだ。

彼にとってベンなどは、最初から眼中になかっただろう。彼は最初から、姉を葬るためだけに、この筋書きを書いたのだ。

もはや疑惑ではなかった。

エイミーはほとんど確信していた。

葬儀が済んでしばらくしてから。夫のいない隙を見て、泣き腫らした真っ赤な目のまま、エイミーは思い切ってアレックスに自分の考えを述べた。

アレックスは黙ったまま聞いていたが、エイミーがすべて話し終わると、にっこりと、まるで天使のように笑って(この頃彼はすでに、そんな笑い方もマスターしていた)母親の目を見つめた。

その目は笑っていなかった。

 

 

それでどうなったかって?

アレックスは25の若さで、ヴォンネビルの頂点に立ちました。つまり、この国の最高権力者に等しい力を得たのです。当然でしょう? 彼はそれを望み、彼の望んだことは必ず実現するのですから。

祖父が死んだ後、総裁になった父のもとで1年ほど事業をしていましたがね。あの子はジェイクの若い頃とそっくり、いや、それ以上に冷静で、辣腕で、みなにやさしく、すばらしい人物だと高い評価を受けていました。

私以外に、彼の本性を知るものは居ないのですから、それも当然です。ジェイクの死? ええ、もちろん彼の仕業ですよ。いえ、確固たる証拠なんて、ありはしません。勘ですよ。母親ですもの。それくらい判ります。

今になって見れば、何も知らずに恐怖におののいていたのが馬鹿馬鹿しくなります。

義母が私に笑わなかったのは、私が嫌いだったのではなく、私を哀れんでいたんです。

義母は私がいずれ生むであろう男の子の事を、恐れ、憎んでいたんでしょう。ヴォンネビルの男が、どれほど異常で、どれほど巧妙に人をだますのか、彼女だけはわかっていたんです。

なんと言っても、ジェイクを育てた人ですからね。

そして、哀れんでも助けることができないとわかっていたから、私に情を移さないよう、あえて遠ざけたのでしょうね、きっと。

最初の事件のときを思い出します。

アレックスは私が大変だから、私に厄介をかけるから、だからアリサを突き落とそうとしたと言っていましたが、あれもウソです。あの子には、最初から判っていたんですよ。アリサが自分の邪魔になるってね。

そして、夫もそれを判っていたんだと思います。だからこそ彼は、娘が死にかけたことを聞いても、「子供の残酷さは、無知から云々」などと言って私を相手にしなかったんです。

本当は単に、娘に対してひとかけらの愛情も持っていなかっただけなんですよ。 なぜなら女は、ヴォンネビルの当主になれないから。

アレックスは今の位置に来るまでに、自分の父を含めた何人もの人間を殺めています。もちろん、証拠は一片たりともありません。当たり前です。あの子は、アレックス・ヴォンネビルなのですから。

平気なのかって?

もちろんですとも。

そりゃあ、最初は恐ろしかったですよ。私は真剣に、あの子の死を願ったことさえあるんですから。アリサが死んで長いこと、私はあの子の死を願ってきました。

もちろん、具体的に何か行動を起こしたわけじゃありません。ただ、胸の中で願ったんです。

でもね、息子の死を願うって言うのは、ひどく苦しいものなんですよ。それがたとえ、ヒトと呼ぶのもはばかられるような、冷たい悪魔であったとしても。

私は弱い人間ですからね。

苦しい、血を吐くような思いをして、息子を憎み続けることはできませんでした。その代わりに私は調べたんです。息子や夫を含めた、ヴォンネビルの男の異常さの理由を。

すべてを知ったとき、私はただ、絶望的に空虚な存在になりました。 今はもう、あの子が人を殺すことも、それを自分が仕方ないと感じることも、なんとも思いません。

あの子は、ヴォンネビルの男であれば当然のコトをしただけです。

ヴォンネビルが親族企業であるにもかかわらず、これほど巨大になることができたのは、男児にだけ流れる、この血のおかげなんですよ。

ヴォンネビルの男は、生まれつき感情を持たないんです。

先天的な脳の異常で、彼らには情緒とか感情が欠如しているんです。

幼い頃から大人びているのは、論理だけで生きているからです。大人になってくるほど魅力的な人物になるのは、その方が他人を御しやすいことを学習するからです。

彼らは他人の前にいる間じゅう、見事に演技します。そして、一人になると演技をやめるのです。

と言っても、我々のように、一杯やったり、一服つけたり、ぼぉーっとしているわけじゃありません。むしろそれらは、彼らに取って苦痛でしかないのですよ。

ヴォンネビルの男たちが、いちばん落ち着く瞬間って想像できます?

彼らは一人になると、延々とチェスの問題や、論理パズルをやっているんです。感情なんていう無駄なものが一切入らない、論理的な美しさを、彼らは最も愛するのです。

ね?

私や、義母、アリサが彼らに愛されなかったわけがわかるでしょう?

ええ、ジェイクもアレックスも、誰一人愛していませんでした。ジェイクが私を選んだのは、私が彼を愛していることを知っていたから、労せずして結婚できると考えたからです。

そう、私はアレックスを生むためだけに、偶然、ジェイクに選ばれた、ただそれだけのことだったんです。そしてアレックスを生ませたのは、自分が死んだ後もヴォンネビルを維持するため。

感情がなく、つまり私たちのように他者を愛したり関ることに喜びを持たない彼らにとって、人生の意味と言うのは、ヴォンネビル家を守ること。本当にただ、それだけなんです。

悲しいけれど。

だから私は、せめて私だけは、息子の本当の姿ごと愛するのです。

たとえ永遠に愛されることがなくても。


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