浦島太郎

この作品は、前々作「桃太郎伝」 と、前作「竹取翁醜聞」を受けた、シリーズの完結編となっております。
一応、単独でも話は通っていますし、楽しんでいただけると自負してはおりますが、それぞれに張った伏線を知れば、より楽しめると思いますので、願わくば、両作をご一読の上、お読みくださいますことを。切に。

 

太郎は、浜辺で亀をいじめている子供たちから、亀を助けた。

そして、そっと海に向かって離してやる。亀は、悠々と泳ぎながら、はるかかなたへ消えていった。太郎は、その行方を、眼を細めて見守っている。

「ああ、よかった」

小さくつぶやいて、満足そうに笑うと、海岸を町に向かって、歩き出した。町の寺子屋へ行くためだ。そこの経営者が、太郎の友人で、面白い本をたくさん持っているので、借りに行くのである。

太郎は、漁師をして生計を立てていた。たくましく日焼けし、小柄ながら引き締まったその身体は、確かに漁師のものである。

しかし、彼がもっとも好きなのは、思索と、面白い本を読むことだった。

もともと文字すら読めなかった彼は、はじめは独学で文字を学び、やがて寺子屋を経営する、市井の学者に出会うと、彼からいろいろなことを学んだ。

特に最近は西洋の本を読み漁り、半端な学者などよりはよほど、西洋のことに精通するようになっていた。知識欲に富んだ、まじめで、一本気な青年である。

歩きながら太郎は、見えなくなってしまった亀の姿を探して、なんとなく、もう一度海を見る。

と。

ざぱぁ!

巨大な物体が、海を割って姿を現した。

「な、なんだぁ?」

驚く太郎を尻目に、その物体はずんずんと近づいてくる。その丸く大きなドーム型の姿は、巨大な亀にも見えた。

「まさか、さっきの亀の親が、御礼に来たのかな? それとも、私が亀をいじめたと思っているのかもしれない」

などと、おびえながらその姿にすくんでいると、やがて、その大きな亀のごとき物体は、陸に上がってきた。すぐに甲羅の一部が開き、中から不思議な格好の人間が現れる。

「ややっ、中からヒトが出てきたぞ?」

太郎はいまや、恐怖よりも好奇心で、その巨大亀に瞳を釘付けにされていた。中から出てきた人間らしきものは、全身テラテラと黒尽くめで、しかもなんと、目がひとつしかない。

一つ目たちは、わらわらと出てくると、亀の甲羅の一部を引っぺがし、何かの作業を始めた。時々、聞いたこともない言葉が飛び交い、ウイ〜ンだのバリバリだの、なにやら恐ろしげな音がする。

やがて作業は終了したのだろうか。一つ目たちは、次々と亀の甲羅の中へ、入っていってしまった。

「一つ目……こりゃあ、妖怪か何かだろうか?」

さすがに腰の引けた太郎は、あわてて走り出そうとした。

すると。

「おい、誰か居るぞ!」

叫び声があがり、一つ目たちが一斉に太郎のほうを見た。巨大な亀の方からは、海岸の岩が邪魔になって、今まで見えなかったのだ。

見つかった! と思った刹那、太郎の全身を恐怖が満たす。

すると、一つ目の一人が、こちらに向かって歩いてきた。

太郎はいまや、ぶるぶると震えだし、力の入らない足で、ガクガクと逃げ出そうとする。その後ろへ、大きな声がかかった。

「待て。逃げなくていい。何もしないから」

大声に飛び上がった太郎は、腰を抜かしてしまう。これでは、逃げ出せそうもない。観念して、恐る恐る振り向くと、一つ目は、その大きな目玉を、ひょいっと両手で取り外した。

目玉〜水中眼鏡を外した下からは、真っ赤な髪の毛の、しかし、一つ目よりは、よほど人間らしい顔が現れる。

「真っ赤な髪……お、鬼だろうか?」

おびえる太郎が逃げ出せないで居るのを見ると、安心したのか、その男は、くるりと振り返って、後ろの仲間に声をかけた。

「大丈夫。若い男が一人だけだ。確保してゆこう」

それから太郎に振り返ると、男は優しい声で話し出した。

「面白いものを見せてあげるから、一緒にきなさい」

「面白いものを? ああ、そうか。助けた亀のお礼なんですね?」

赤い髪の男は一瞬、怪訝な顔をしたが、やさしく微笑んでいった。

「とにかくこちらへ来なさい。この世のものとは思えない、すばらしいところへ連れて行ってあげよう」

好奇心旺盛な若者に、異存のあるはずがなかった。

先ほどの恐怖もどこへやら、太郎は大きくうなずく。

おっかなびっくり亀の甲羅の中へ入ると、中はつるつるのすべらかな、太郎が見たこともないもので覆われている。太郎は、もう、目に入るすべてが珍しく、あちこちに触ろうとした。

すると、赤い髪の男が、やんわりとそれを制する。

「そこいらのものに、触ってはいけないよ。これから、海の底深く潜る。そこから、外を見ているといい。見たこともない、深海の、珍しい魚が見えるかもしれないよ」

指差された先には、四角い窓がある。太郎は西洋の本で見たガラスというものだと、すぐにわかった。思わず胸を張って、得意げに答える。

「これは知ってますよ。グラッスと言うものでしょう? 向こう側は見えるのに、雨や風が入ってこない、不思議なものだと、本で読みました」

男は一度、モニターの説明をしかけ、その絶望的な困難さに気づき、うっすらと笑ってうなずくだけにした。

 

やがて太郎を乗せた巨大な亀〜潜水艇は、目的地に到着した。

「ここで、まっていなさい」

赤い髪の男に言われて、太郎は黙ってうなずく。

太郎が通されたのは、巨大な部屋だった。海側の壁一面に分厚い耐圧の強化アクリルがはめ込まれ、海底の様子が見えるようになっている。

しかし、太郎の興味を引いたのは、海の中の景色よりも、部屋そのものだった。床には柔らかなじゅうたんが敷き詰められ、銀色の優美なデザインのいすが、いくつかおいてある。

もっとも、太郎には、それが腰をかけるものだということがわからないので、彼はただ、珍しい部屋の中を眺めながら、ぼけっと突っ立ていた。

「海の底に、このように広大で不思議な城が……これがうわさに聞く竜宮か」

「いらっしゃい」

後ろから、突然、声がかかった。振り向いたそこには、不思議な着物をまとった、蜂蜜色の髪を持つ女が一人、微笑みながら立っている。

「あなたは……あなたが、乙姫様ですか?」

太郎の言葉に、一瞬あっけにとられた女は、やがて吹き出した。

「乙姫様? ふふふ、姫様ってほど若くもないんだけれど」

「まさか、竜宮城にご招待いただけるとは……」

「ご招待ってコトでもないんだけど、まあいいか。ここはね、あなたたちを観察し、研究するための、施設なのよ」

「わたしたちを?」

「そう。そして、私はそこの所長。あなたは、この世界に本来ないはずのものを見てしまった。だから、観察対象にならないのよ。それで、ほかに悪い影響が出ないうちに、隔離されたってワケ」

「は? あの……乙姫様?」

「わからなくていいから、聞いてなさい。あなた、幸せよ? 今まで、あまたの賢者が求めてやまなかった、この世界を律する法則の一端を、垣間見ることができるんだから。つまり、神の摂理をね」

ブロンドの女は、にやりと意地の悪い笑みを浮かべた。

「神の摂理……では、乙姫様とは、神様なのですか? 竜宮とは、神の住まう場所なのですね? すごい! 私は、神々の住まわれる場所へ来たのか!」

「う〜ん、まあ確かにあなた方を見守ってるって意味では、神と呼ばれてもいいのかもしれないけど。でも、私たちは、あなたたちを助けたり、救ったりはしないわよ? ただ、見てるだけなの」

「そうでしょうとも。神様が簡単にお助けになっては、我々が努力しなくなってしまいますからね。いやぁ、しかし、すばらしい」

女は肩をすくめて半笑い。

「やっぱり、話が理解できないみたいだけど、まあいいか。スタッフの準備が整うまで、まだ時間もあるし、せっかくだから、いろいろと面白いことを教えてあげる」

太郎は、子供のように目を輝かせて、うなずいた。

知識欲の旺盛な男なのである。

「安倍晴明(あべのせいめい)って知ってる?」

話がいきなり飛んで、太郎は一瞬戸惑ったが、うなずいて答えた。

「陰陽師でしょう? 天子様にお仕えして、政(まつりごと)の吉凶を占うという。うそかまことか、百を越えるお歳だそうですが」

「そう、反魂術までも使いこなし、死者さえも操る無敵の陰陽師……ってことになってるヒトね。あのヒトあたりは、我々の存在に、おぼろげながら気づいているみたいね」

「晴明様が、竜宮の存在に?」

女は妖艶に微笑むと、ゆっくりと近づいてくる。太郎は、むっとするようなその色香に、思わず体を硬くした。その様子を面白そうに見つめて、女は話を続ける。

「彼が気づいたのは、シリンダー(筒)のせいなの」

「しりんだぁ? それは?」

「そうね……竹筒みたいなものよ」

「竹筒、ですか」

「死者をよみがえらせる研究をしていた、竹取翁(たけとりのおきな)と言う老人が、シリンダーを手に入れたの。間抜けな話なんだけど、こちら側の手違いで、新品のシリンダーがひとつ、紛失していたのよ。それを、どこでだか、拾ったというわけ。もっとも、本人は、その重要性にまったく気づいてなかったのだけれど」

「……?」

「シリンダーには、カスタム(改造)された、人体コントロールナノマシンが入っていた。カスタムの内容によって、シリンダーは色分けされているの。老人が拾ったのは、グリーンのシリンダー。救急救命シリンダーよ」

「乙姫様。いったい何を言っているんです?」

「外傷、病気、そのほかのトラブルを治療するシリンダーのこと。死後24時間以内であれば、たいていの状況には対応できるのよ。もっとも、それ以上時間がたっていれば、酸欠による脳のダメージまで回復させることはできないけれど」

太郎は、女の言葉の意味がわからず、ついには黙り込んでしまう。もっとも女のほうは、そんな彼にかまわず、嬉々としてしゃべり続けていた。

「老人は反魂術に成功したと勘違いしていたようだけど、実際はシリンダーの力なの。シリンダーのナノマシンがかぐやを治療している間に、怪しげな術をいろいろと駆使して、それによって生き返ったと思っていたらしいけど、まったくお笑い種だよね」

「あの……乙姫様? 私には、あなたのお話がちっとも……」

「まあ、そうあわてないで。時間はたっぷりあるんだから。老人は、もともと、安倍晴明の命で反魂術を研究していたのだけれど、そんな男がシリンダーを拾ったというのも、何か因縁めいたものなのかもしれないわね」

女はますます、饒舌になってゆく。

「しかし、老人は綱に斬られてしまった。それで、コトの仔細を渡辺綱(わたなべのつな)から聞いた晴明は、老人の屋敷を徹底的に捜索させ、そこで、シリンダーの存在を知ったわけ」

「……」

「でもね、それじゃこっちは困るのよ。そんなものが存在することを、被験者が知ってしまっていては、正確なデータが取れないでしょ? 彼らをはるかに凌駕する、神のごとき力を持った存在が、実際に居るとわかってしまってはね」

「……」

「神はあくまで、宗教としてだけ存在していてもらわなくては、まずいわけ。じゃないと、みんながその巨大な存在を当てにしすぎて、自力で事態を切り抜ける力をもてなくなってしまうから。さっきあなたが、言ったみたいにね」

「はい。それはわかります。神様を当てにして、努力しなくなってしまって、いいわけがないです」

ブロンドの女は、優しく微笑んでうなずいた。

「だから、私たちは、極力、自分たちの存在を消して行動しているの。今回は、ちょっとしたトラブルで、潜水艇が故障してしまい、たまたま、あなたに見られてしまったけれど」

「大丈夫です。ここで見聞きしたことは、決して誰にも話しませんから」

「うん、それは心配してないけどね」

太郎は、美しい乙姫が自分を信用してくれたと、ひどく嬉しい気持ちになった。本当はもちろん、彼女が心配していないのは、もっと物騒な理由によるのだが。

「私たちはね、海底に身を潜めて、あなたたちの社会生活、一部始終を観察しているの」

「私は、神様は空の上にいらっしゃるものだと思っていました」

「うん、そういう意見もあったんだけどね。でも、宇宙に居るよりも、深海に居たほうが、長く見つからずに住むと考えたわけ。私たちも、本当の深海をすべて探査できたのは、宇宙に出たずっとあとだったから。」

「……はあ……」

「あなたが、世界と認識しているのは、この星のある一部。隔離された、ほんの一部の世界なのよ。そして、私たちが所属しているのは、その外側、あなたたちが西洋と呼んでいる、隔離された外の世界なの。わかるかな?」

「えぇ? 西洋というのは、単なる外国ではなく、神々の国のことだったのですか?」

「まあ、そうなるかな?」

「なんと……」

太郎は、あまりの衝撃に絶句する。

「現在、日本と呼ばれている場所は、我々によって意図的に隔離された、巨大な実験場なのよ。遺伝子からデザインされた、まったく新しい人類の特性を研究するための、大切な実験場」

「……」

「この星はもう、採掘するものは採掘されつくし、リサイクルできるものはリサイクルしつくしたわ。でも、百億の人間が住むのは、もう無理なのね。だから、私たちは、別の星を見つけて、そこに移住したの」

「別の星?」

「そう。それでね、移住も無事成功し、生活に余裕が出てくるとね、今度は残してきた自分たちの故郷が、ひどく気にかかるようになったのよ。それで、故郷の星、地球を、できるだけ元の状態に返してあげようということになったわけ 」

女はここで、やりきれないと言った顔になると、吐きすてるように付け加えた。

「もちろん、そういう一見やさしい、人間味にあふれたことをして、政府のイメージをアップさせようって言う、多分に『政治的な思惑』が絡んでもいるんだけど」

「……はあ」

「で、実はその裏で、新しい人類を作り、彼らを研究して、我々の将来に備えようって計画が持ち上がったの。さすがに、今の母星を、ここと同じように滅ぼしてしまって、また 他の星を探して移住、って言うわけにも行かないでしょう?」

「私には、神々の事情はよくわかりません」

困惑する太郎には一切かまわず、女は話を続けた。

「だから、あなたたちは私たちとよく似ているけれど、全然別の生き物だといってもいいの。寿命もうんと短いし、身体はずっと丈夫だし、食事もうんと少なくてすむし」

神様と自分たちが、違う生き物だといわれても、太郎としては、そりゃあそうだろうとうなずくしかない。しかし、寿命という言葉に、太郎は興味を引かれた。

「神様は、どれくらい生きられるのですか?」

「そうね、おおむね百年位かな。中には百二十を超える人もいる。あなたたちの平均が五十年だから、その倍くらいは生きるわね」

「ひゃ、百二十?」

「もっとも、あなたたちのように、ほんのわずかな、私たちにとっては一回の半分にも満たない食料で、十日も生きることはできないけれど。私たちは、日に三食、食べるのよ。それも一回に、あなたたちの倍の食事をね」

太郎は、またも絶句してしまう。日に三回、一度に自分たちの倍の食事を取るのなら、そりゃあ百年もの長生きをするだろうと、妙なところで感心してしまった。

「日本以外の国々には、地球復興委員会のスタッフが点々と存在して、それぞれのフィールドで、破壊された自然を回復させようと、がんばっているわ。まだまだ時間かかるけれど、いずれは、元の美しい地球がよみがえるでしょう」

「はあ……よくわかりませんが、大変なお仕事なのでしょうね」

「そうね。でも、みんなやりがいを持ってるわね。それに比べると、私たちは、やっぱり、楽しい仕事とはいえないわ」

「そうなのですか? しかし、人々を見守るという、すばらしいお仕事ではありませんか。いや、神様に、私のような者が言うのは生意気ですが」

「ふふふ、ありがとう。でもね、実際、ひどい仕事なのよ。だってね、この研究が一段落して、我々が新しい星とうまく共存してゆくことができるようになったとして、それじゃあ、実験に使われたあなたたちをどうするかって話になるでしょう?」

「はぁ……」

「そのときの、あなたたちの役目って言うのは、観光施設化された地球の、昔の生活を再現し、演出するための、いわば動物園の動物みたいなものなのよ」

「?」

「なんでそんなことになるかって言うとね、この計画に出資しているのが、有名なレジャーランド会社だからなの。その会社が、出資の条件として、その後の観光権利を手にしたってわけ。ねずみがシンボルの、あの、有名な会社よ。まあ、あなたは知るわけないんだけれど」

女は少し怒ったような表情で、そう言った。それから、困惑している太郎の顔を見て冷静さを取り戻したのか、急に話題を変える。

「桃太郎のお話、知ってる?」

「はい、桃の殿様の、昔の武勇伝ですね。そういえばあの殿様も、ずいぶんと長生きしたようですけれど、もしかして?」

「そう。アレも私たちの、失敗の例。ちょっとした事故で、DNA操作処理前の胎児を入れた、胎盤カプセルを乗せた飛行機が、ある山の山頂付近に墜落してしまったの。もっとも処理班が飛んでって、すぐに後片付けをしたのだけれど」

「は、はぁ……」

「そのときに、ひとつだけ、カプセルが回収されないで、川に乗って、ふもとまで流れていってしまったのね。処理前だから、カプセル内の胎児は、私たちと同じ人間だった。カプセルを拾った老夫婦が持ち帰ったときには、もう、中の胎児は大きく育ち、やがてカプセルは胎児を外へ出すために、開いたってわけ」

「すみません、乙姫様。私にはもう、何がなにやら」

「つまり、あなたの言う桃の殿様は、私たちの仲間だったってこと」

「なんと。それであの殿様は、長生きしたんですね? へえ、桃の殿様が、神様だったとは」

そのとき、扉が開いて、彼女の部下らしい男が入ってきた。

男と二言三言話した女は、太郎を振り返ると、悲しげな笑みを浮かべた。

「さて、そろそろ時間みたい。いろいろと話せて楽しかったわ」

「こ、こちらこそ。神さまのお話を聞かせていただけて……」

「では、さようなら」

冷たく話を切ると、彼女はそれきり、姿を消す。

その後姿には、なんともいえない、悲しげな陰(かげ)が、べったりと色濃く落とされていた。

 

ほどなく、出て行った女の代わりに、大きな身体に物騒な雰囲気を漂わせた男たちが数人、音もなく部屋の中に入ってきた。

残された太郎は、近寄ってきた屈強な男たちに、おびえながら、愛想笑いを浮かべる。しかし、もちろんのこと、彼らはまったく表情を変えず、太郎の両腕を取り、部屋から連れ出した。

「あ、あの……そろそろ帰していただけませんか?」

誰も、一言も発しない。

太郎はますますおびえたまま、おとなしく連れられて行くしかない。

やがて太郎は、一面真っ白な、一室に連れてこられた。そこで男たちはきびすを返すと、一人を残して、どこへともなく姿を消す。

残った男は、黙ったまま、壁際に立っていた。そのあまりの無機質さに、声をかけるのもはばかられるような気がして、太郎は黙ったまま、部屋の真ん中に突っ立ている。

と。

「やぁ、今度はなんだい?」

場違いなほど陽気な声に、太郎は、そちらを見る。

奥の部屋から、一人の男が出てくるところであった。ふちなしのメガネをかけ、真っ黒な長い髪を後ろで結んだその若い男は、にっこりと微笑みながら、太郎、壁際の男、どちらにともなく話しかける。

すると壁際の男が、感情を感じさせない声で、言った。

「潜水艇を目撃され、保護しました。処理をお願いいたします」

「え〜またかよ。僕は今月、ろくに休みをもらっていないんだがなぁ」

「お願いします」

もう一度、念を押すと、男はそれきり姿を消した。それで、彼の仕事が終わったというわけだろう。メガネの男は、大きくため息をつくと、困惑している太郎を見る。太郎は仕方なく、また愛想笑いをした。

「やれやれ。君もついてないが、僕もついてない。お互い、不幸だったとあきらめるしかないようだねぇ」

「な、なんのことでしょう?」

「うん、説明するのも面倒だから、話したくない」

「す、すみません」

「謝ることもないがね。まあいい。それじゃあ、こちらにおいで。痛いことも、怖いことも、何もないから」

「はぁ……」

太郎は言われるまま、白衣のすそを翻して歩き出した、メガネの男のあとを追った。追いながら、恐怖をごまかすためにだろう、男へ話しかける。

「あの……あなた様も、神様なのですか?」

一瞬、驚いて太郎を見た男は、それから相好を崩して答える。

「ああ、そんな風に吹き込まれたんだ。まあ、君が言ってる神様ってのが、あの高慢ちきな女のことなら、残念ながら、そうだよ。僕も彼らの仲間だ」

「乙姫さまと、仲が悪いのですか?」

「乙姫ぇ? あの年増がかい? またずいぶんと君は、口が達者だな。それじゃあ、あの女、喜んで、いろいろと面白い話をしてくれただろう?  もともと、なにやら原住民に感情移入してるみたいだし」

「ええ、わからないことのほうが多かったですが、ずいぶん驚きました」

男はふんと鼻で笑うと、肩をすくめる。

「だろうね。君に説明したんじゃなくて、自分はこんなにいろんなことを知ってて、ここの支配者なんだってコトを、自分自身に確認したかっただけだろうから。まったく、僕の患者の中じゃ、一番手のかかる女だ」

「患者? 乙姫様は、ご病気なのですか?」

「ああ、病気さ。もっとも、身体じゃなくて、こっちのほうだがね」

男は、そういって、自分の頭を指差す。

太郎が真に受けて目を見開くと、男は苦笑してつぶやいた。

「いや、誤解させたな。患者ったって、カウンセリングの、さ。彼女は確かに、非常に優秀な人物ではある。だが、それはスペシャリストとしてであって、こんな大切な場所を取り仕切るような、ゼネラリストでは、断じてない、ってだけの話さ。だから、僕の治療、正確に言えば、出す薬がないと、胃に、穴を開けちまうんだよ」

「はぁ……」

「つまり、ものすごく優秀な職人ではあるけど、親方の性質(たち)ではないってことだ。だから、気を病んでしまって、僕があげる、気病みの薬がいるって言ってるのさ」

「あぁ!」

わけのわからない話を聞かされ続けていた太郎は、ようやく言葉の通じる同国人に会えたような気がして、にっこりと愁眉を開いた。この、自分にわかる言葉で話してくれる神様は、いったい……

「あの……神様。神様にもお名前がおありでしょう?」

「僕? 僕はね……あぁ、ドクターでいいや。みんなそう呼ぶから。ただし、最初にマッドをつけるのは禁止。君はこの施設の中で、唯一、僕に敬意を払う大切さを理解できる、まともな頭を持った人間のようだから」

「ど、どくたぁ……様とお呼びしてかまわないのですね?」

「ドクター様ってのも変だけど、まあいいや。とっとと仕事を片付けて眠りたいから、早いトコ済ませよう」

「あの……私はいったい、何をされるので?」

「記憶を消すんだよ。つまり、ここで見聞きしたことを、全部忘れさせるのさ」

「わかりました。ここで見たこと、聞いたことは、すべて忘れます」

「うん、それを君が本気で言ってることは、僕にはよくわかってる。でも、それじゃあ納得しない連中が、僕の頭の上に、ごろごろしてるんだよ。あの高慢ちきな女を筆頭にね」

「はぁ、ですが……」

「まあ、君は何もしなくていいよ。ここからは、僕の仕事だから」

そう淡々と決め付けると、ドクターはなにやら端子のたくさんついた機械を取り出す。

「さて、これをかぶって」

「あの……」

「なんだい? 早く終わらせようよ。お互いのためにも」

「はぁ、ですが、すべてを忘れてしまうというのは……」

「ああ、大丈夫。本能とか、生活習慣みたいな記憶は、全部残るから。このイカした帽子をかぶって、僕がこのスイッチを入れ、こっちのコンピュータでちょいちょいっといじれば、10分後には、『ここはどこ? 私は誰?』状態の 出来あがりさ」

そういってドクターは、けらけらと笑った。

その、少々異常な感じに、太郎は、なんとなくいやな気持ちになる。

「あの……約束します。絶対にしゃべりません。ですから、その……思い出とか、そういうものまで消さないでください。父や、母や、友達のことまで、忘れたくないです」

「まぁ、そうだろうけど、そこまで細かくは、さすがにやれないんだよなぁ。生活習慣とか、本能なんかと違って、そういう記憶ってのは、すごくあいまいだから。特定が難しいんだよね。ま、あきらめてよ」

「そんな……いやです……いやだ……」

「だろうけどね」

ドクターは、拳銃のような格好をした注射器を取り出した。鎮静剤か、麻酔薬のようなものが入っているのだろう。針がないところを見ると、皮膚へ強く吹き付けて浸透させるタイプの注射器だろうか。

「2004年ころ登場した、この手のタイプの注射器は、針を使うタイプと違って、痛みをほとんど感じないんだよ。少し痕が残るけど、それも二三日で消えるから、心配しなくていい」

言いながらドクターは、太郎に向かって注射器を近づけた。もちろん、十分注意はしていたのだが、しかし、太郎があまりに従順で人がいいため、ドクターには油断があったのだろう。

恐怖というより、びっくりしたイキオイで振り回した太郎の手が、注射器を叩き落とす。すばやくそれを拾い上げた太郎は、みようみまねで、ドクターに向けた。

注射器は、武器ではない。もちろん、拳銃のような安全装置などあるわけもなく、その形からもっとも自然にできる動作、手を握るという動作によって、強力な薬液が、皮膚に浸透するほどの圧力で発射される。

ばしゅっ!

彼我の距離は薬液を浸透させるには遠かったが、ドクターの目に薬液を浴びせるには、十分な距離だった。

「うわぁ!」

ドクターはあわてて目をぬぐったが、その動作で皮膚にすり込まれた薬液は、その本来の性能を十分に発揮し、あっという間にドクターの意識を奪う。 彼はその場に昏倒した。

自分のしでかしたことに、しばらく呆然としていた太郎は、やがてはっと我に帰ると、辺りを見回した。そしてあわてて表に出ようとする。しかし、扉の開け方がわからない。

どうしよう……

不安におびえながら、考え込んでいると、突然、扉が開いた。

刹那、考えるより先に、太郎の身体が動く。

いくら思索好きの、気のいい若者とはいえ、太郎だっていっぱしの漁師だ。鍛え抜かれた身体は、まるで獲物に飛びかかる獣のように、開いた扉に突進する。

どん!

入ってきた人物は、太郎の強烈な体当たりを食らって、廊下の反対側に吹っ飛ばされる。後頭部を打ち付け、気を失ったその人物を見て、太郎ははっと身体を硬くした。

「お、乙姫様……」

考えたのは、一瞬だった。

強靭なその腕に乙姫……施設の所長を抱えると、後は振り向きもせず、一心不乱に駆け出す。

闇雲に走って、走って、走りまくった。

しかし、もちろんのこと、出口の見当など、つくはずもない。

太郎は途方にくれ、それでも足を止めることなく、走り続けた。

と。

ウゥ〜〜〜!

突然、廊下に、耳を劈くようなサイレンが鳴り響いた。

太郎は驚いて、一瞬足を止める。

すると。

「ドクターが倒れているのを、誰かが見つけたんでしょうね。もう、逃げられないわよ?」

耳元で声がして、太郎は飛び上がった。

それから、声の主が自分の抱えている乙姫様だと気づき、あわてて彼女を下に下ろすと、平伏した。

「数々のご無礼、どうかお許しください。ですが私は、父や、母、友達を忘れるわけには、ゆかなかったのです」

「どうして?」

女は憤(いきどお)るでもなく、冷静な表情のまま、平伏する太郎の後頭部に話しかけた。太郎は頭を床にこすりつけたまま、黙っている。

「顔を上げなさい。怒ってなんかないわ。私たちのしようしたことの方が、ずっとひどいことなのだから。ただ、どうしてそんなに、忘れたくないのかを聞きたいの」

「はぁ、しかし、当たり前のことではないでしょうか?」

「そう……そうかもしれないわね。でもね、私たちには、そういう感覚が、あまり、理解できないのよ。父親も、母親も、いないから」

「な……」

軽い口調で発せられたその言葉に、太郎は思わず絶句する。

「私たちはね、みな、生まれる前から設計されて、きちんと管理され、目的を持って生み出されるの。さっき話した、桃の殿様が生まれたのと同じ、あの胎盤カプセルの中からね」

「みんな、桃から?」

「うふふ、そう言うと、なんだかとてもロマンティックに聞こえるわね」

所長は、少しくすぐったそうに笑った。それから、太郎の顔をまっすぐ見て、優しい声で言う。

「あなたは、とてもまっすぐな人ね。そして、とても澄(す)んだ魂と、謙虚な心、優れた頭脳を持っている」

「とんでもない。私はただの愚かな漁師です」

「いいえ、愚かなのは、私たちよ。少しばかり知識が多くたって、それを宿す魂がこうもゆがんでしまっていては、いったい何になると思う? 少しばかり科学が進歩したからって、それを扱うのが傲慢さに満ちた魂だとしたら、それが本当に進歩だといえる?」

「わ、わかりません。ごめんなさい」

「いえ、ごめんなさい。あなたを責めてるんじゃないのよ?」

女は、いまやはっきりと好意を持った表情で、太郎を見つめていた。

「人はね、あなたの言うような意味でなら、愚かでいいの。ずっとバカでいいのよ。一日一日を、まっすぐに生きて、澄んだ魂と、少しばかりの勇気を持ってさえいれば、それでいいの」

「はい……」

「あなたをスタッフに引き渡してから、私は考えた。いえ、考えるだけなら、ずっと前から考えていた。己の好き勝手に星を使いつぶし、使えなくなったら逃げ出し、また勝手な都合でそれを修復し、最後には命まで勝手に生み出し、それさえも都合よく利用する」

女は、ついに、ひとしずくの涙を落とした。

「何だってこうも、傲慢に生きてきたんでしょうね、私たちは」

「神様だからじゃないんですか?」

真摯な、純粋な表情でこう言われ、女はついに耐えられなくなり、太郎に抱きついて、泣きじゃくった。

声を上げて、泣きじゃくった。

太郎は、されるまま、身体を硬くして、その場に立ちすくんでいる。

やがて、女は泣き止み、のろのろと身体を離した。

「ごめんなさい。驚かせてしまった」

「いいえ。びっくりしたけど、乙姫様に抱きしめられたら、天にも昇る気持ちでしたよ。なんだか、いいにおいがしますね。それに、やわらかい。村の女とは違うなぁ。やっぱり、神様だ」

妙な風に感心している太郎に、彼女は涙でくしゃくしゃになった顔をほころばせた。それは、彼女が何年かぶりにこぼした、心からの微笑だった。

それから、何かを吹っ切った明るい表情で、彼女は太郎の手をとる。

「さあ、行きましょう。この箱を、もっていて」

女が取り出した小箱を受け取り、太郎はしばらく考えてから、腰につけた魚篭(びく)の中に入れた。それから、彼女の顔を見て。

「でも……」

「大丈夫、私に任せておいて」

ちょうどそのとき、警備役の者たちが、足音高く集まってきた。そして、麻酔銃を構えた、その刹那。女が鋭い声を上げる。

「待ちなさい! 彼を行かせなさい。彼は、この施設の動力ラインを破壊する爆弾を仕掛け、その起爆スイッチを持っている」

思わぬ言葉に、警備員たちが躊躇した。

すると、その後ろから、大きな声がかかる。太郎をここまで連れてきた、例の、赤い髪の毛をした男だ。

「その男に、そんなことができるわけがない。その男は、ただの原住民だ。所長、あなた、その男を使って、いったい何をたくらんでいるんだ?」

「ただの原住民ではなかったのよ。向こう側の、工作員だったの」

女の言葉に、あたりは騒然となる。太郎以外のすべての人間が、彼女の言う『向こう側の工作員』という言葉の持つ、恐ろしい意味を理解しているからだ。

「まさか! そんなわけはない」

「彼は実際に、爆弾の起爆スイッチを持っている」

そういいながら彼女が太郎を指差した。きょとんとした太郎の顔は、しかし、恐怖に駆られる者から見れば、一種異様なふてぶてしさと取れないこともない。

そして何より、彼の腰につけられた、竹製の魚篭(びく)から、明らかに軽金属とわかる、鈍い光を放つ金属の小箱が見えていた。

「スイッチよ」

叫びながら、太郎を振り向いた女は、太郎にだけ聞こえるよう、小さな声で言った。

「魚篭の中の箱を持って」

言われるまま太郎が魚篭に手を入れ、小箱を取り出すと、周りの連中は凍りついたように固まってしまった。

「そのまま、ゆっくり歩いて」

太郎はゆっくりと歩を進める。それに釣られ、彼と女を取り囲んでいた人々も、ゆっくりと移動した。

「うそだっ! そんなはずはない!」

赤い髪の男が怒鳴る。

その瞬間、女の瞳がきらりと光った。

「そんなはずはない? どういう意味かしら?」

「う……いや……」

「どうやら、ここにも工作員がいたようね? それとも、向こう側への、内通者かしら?」

「ば、ばかなっ!」

「まあ、とりあえずそれは、後で追及させてもらいましょう。今はとにかく、彼の言うことを聞くしかないわ。動力ラインを破壊されてしまっては、私たちの命はない。ここで水圧に押しつぶされるか、極寒に凍えて凍死するしかないのよ?」

「きさまっ! 何をたくらんでいる!」

「彼を、確保しなさい。所長命令です。私には、あなた方の命を守る義務があるのです。彼が無実かどうかは、後日、きちんと公開裁判を行います。今は何より、自分の命を守りなさい」

テロリスト問題を、いつの間にか、自己の安全の問題にすり替えられてしまっていることにも気づかず、警備員たちの数人が、あわてて赤い髪の男を取り押さえ、連行していった。

「さあ、私が案内するから、潜水艇のところまで行ったところで、そのスイッチを渡してもらうわ。いいわね?」

強くそう聞かれ、わけもわからぬまま、太郎はうなずく。彼女は瞬時に振りかえると、警備員に向かって強く叫んだ。

「ここは彼を刺激しないように、言うことを聞きます。みんな下がって、管制室のモニターで、事態を監視してください」

要は何もせずに下がれ、ということだ。

だが、『モニターで監視』と言う、新たな行動命令を与えられている。命令される側と言うのは、明確な命令を与えられると、そのとおりに動くことで安心できるのだ。

そのため、単純に引けと言われるよりも、心情的に、受け入れやすかったのだろう。警備員たちは、上司である、彼女の命に従った。

女は、太郎を連れて、潜水艇のある格納庫へ向かう。

そこに入って、格納庫の扉を閉めると、メイン電源盤を開け、ブレイカを落とした。これで、緊急回路が入るまでの30秒間、格納庫は閉鎖される。

「急いで!」

太郎の手をとり、駆け出した女は、潜水艇に入り込むと、間髪いれずにメインコンピュータを起動させる。一番権限のあるIDをスキャンして、潜水艇のコンピュータは、言われたとおりエンジンを起動した。

そこでようやく、緊急回路が作動し、格納庫の動力が生き返る。

「ハッチ、オープン」

潜水艇から発せられようが、どこから発せられようが、彼女の命令は、今のところ絶対だ。

格納庫のコンピュータは、彼女の、正しくは、所長のIDを持つ潜水艇コンピュータの要求にしたがって、ハッチを開いた。すぐさま、潜水艇は全速前進で、開いたハッチを飛び出す。

異常に気づいた管制塔がハッチを閉じようとしたときはすでに遅く、潜水艇は、深海の闇の中へ消えていった。

 

「とまあ、こんなところで授業は終わりだけど、何か質問は?」

「質問だらけ。とりあえずわかったのは、あなたが神様じゃないと言うことくらいですかね」

太郎の答えに、女は満足そうに笑った。

いずことも知れぬ、海。

波間に漂う潜水艇。

そのデッキの上で、太郎と女は、燦々(さんさん)と照る太陽を浴びながら、微笑みあっている。

からくも逃げ出した二人は、いずれどこかに上陸し、姿を消さなければならない。だが、その前に、少しでも太郎に現状を把握させようと、女は、噛んで含めるように易しい言葉を使って、今までの経緯を太郎に伝えた。

そして、ある程度話したところで、覚悟を決めた。

自分たちがやってきたことは、太郎側からしてみれば、到底、許せるものではないと思ったからだ。残虐非道のそしりを受けようとも、甘んじて受け入れなくてはならないだろう。

そう覚悟をして話したのだ。

しかし、おそるおそる反応を待っていた彼女が受け取ったのは、 彼女から渡された小箱〜それはスイッチでもなんでもない、ただのシガレットケースだったのだが〜を海へ投げた後、満面の笑みを浮かべた太郎の、こんな言葉だった。

「間違うことも、誤ることも、人間ならあるでしょう。だったら、気づいたそこから、取り返せばいいじゃないですか」

まっすぐなその答えに、彼女は胸のつかえをいっぺんに降ろす。

もちろん、話はそんな単純なことではない。これから、その償いなりをしてゆかなくてはならないだろうし、その前に、追っ手から逃げなくてはならない。目の前には、不安材料ばかりだ。

だが、彼女には不思議と、何の不安もなかった。

目の前にいる、このたくましい男が、無限の勇気と力を与えてくれるような、そんな不思議な感覚に包まれているのである。女はまぶしそうに、太郎の顔を見つめていった。

「それじゃ、時間もないし、もう一度、わからないところをおさらいしましょう。それから、どこかに上陸して、今後のことを考えなくちゃ」

すると太郎は、手をかざして太陽を見てから、彼女へ視線を落とす。

「ああ、そうですね。でも、それより先に教えてもらうことが」

「なに?」

怪訝な顔をした女に向かって、太郎は、見る者の胸が痛くなるほど優しくてピカピカに光った、最高の笑顔を浮かべて言った。

「決まってるでしょう? あなたの、本当の名前ですよ、乙姫様」

「あ……」

女は声をなくす。

それから、少し唇を震わせた。

やがて、涙と笑みで顔中くしゃくしゃにしながら、女は、太郎の胸に飛び込んだ。その身体を、太郎は軽々と抱きとめる。

色んなことがある。

今までの責任、これからの仕事、大切なこと、大変なこと、たくさん。

でも、今は忘れていいよね?

女は、体中にあふれ出す幸せとともに、太郎の耳元へ口を寄せ、打ち寄せる波の音に負けないよう、大声で叫んだ。

「私の名前はね……」


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