栞(しおり)
キキーッ! ドンッ!

ありゃ、やっちゃった!

車を降りてみると、男の人が倒れている。スピードを出していたために、かなり非道い状態だ。シロウト目に見ても、もう、助かりそうもない。

音を聞きつけて、周りに野次馬が集まってくる。

救急車は呼んだか? 警察に連絡したか?

なんてもう、ウルサイったらない。

私は大きくため息をつくと、銀色に輝く「栞(しおり)」を取り出した。位置を確認してみると、どうやら三日前のところに挟んだままのようだ。

あ、しまった。昨日の夜、挟んでおくのを忘れたから、また三日前からやり直さなくちゃならないや。

参ったなぁ……

でもま、仕方ないか。人殺しになっちゃうよりはマシだもんね?

私は栞のはさんである所を開いた。

 

「栞」

それは、いつかは忘れてしまったけれど、いつの間にか私の傍らにあった。いまや、私になくてはならない、何より大切なものだ。もちろん、彼氏よりもね。

そんなことを言ったら、ひどい女だと思われるかもしれないけれど、「栞」の力を知ったら、あなただってきっと何よりも大切にするに違いない。それくらい「栞」は私にとって大切なものだ。

どこでもいい。人生のある位置に、この栞を「はさんで」おく。やり方は秘密。そして、その後は普通に生活すればいい。

栞が便利なのはその後。万が一の事態、たとえば今の交通事故みたいに、人生のピンチになったときなんかに、栞のところを「開く」だけ。

それだけで私は、瞬時にその時まで戻るってわけ。そこから、新たに人生の仕切りなおし。何回失敗しても、その度に栞を開けばいいの。時々今日みたいに挟み忘れてて、ずいぶん前にもどっちゃうこともあるけど、それはご愛嬌。

ね? 素敵でしょう?

戻った時には、それまでの記憶をなくしてしまうのだけれど、栞を使ったってことだけは解る。だから記憶はなくても、「ああ、この時の選択は違っていたんだな」って解るってわけ。

私はいつも、右左なら右、とか上下なら上、とか必ず選ぶ方を決めているんだ。だから、栞で戻った時は、いつもと違う選択をすればいいだけ。もう、人生なんて簡単もいいところ。

もちろん人生の選択は、二者択一だけではないけれど、でも、重要な選択って、たいてい二つに一つなんだよ、意外と。知らなかったでしょ?

寝る前に今日が素敵な一日だったら、栞を挟んでおく。そうじゃなければ戻っちゃう。こんな風にして、私はまったく大きな失敗をしないで生きてきた。

そして、これからもそうやって生きていくの。

 

私は30になった。もちろん今も「栞」のおかげで、最良の選択をしつづけ、素敵な夫と可愛い息子に囲まれた、幸せな日々をすごしている。

そんなある日、息子がいつもより早く起きてきた。

「おや、寝ぼすけさんが今日は珍しいわね?」

私の声に、息子は、なにやらまじめな顔でうなずく。

「今日からかけっこの朝練習をするんだ。来週、運動会だからね」

なるほど、それで彼のまじめな様子にも合点がいく。

去年の運動会、息子は徒競走でトップを走りながら、ゴール寸前で転倒してビリっけつになってしまったのだ。

大泣きする息子を見ながら、

「そういえば、もうずいぶんと泣いてないなぁ」

と思ったから、よく覚えている。

パクパクと朝ごはんを食べている息子を見ているうちに、ふといたずら心がわいてきた。息子に向かって、質問してみる。

「ねえ、もし去年のカケッコやり直せるとしたら、もどってやり直したい?」

息子は私の言葉に箸を止めて、小首を傾げて考えている。その可愛らしいしぐさに、私は幸せでいっぱいになる。ああ、やっぱり人生、こうでなくっちゃ。

息子は元気よくうなずいた。

「うん、戻りたい。もどって今度は転ばないようにするんだ」

可愛らしい、子供らしい答えだ。やっぱり子供だって、取り返したい過去や、やり直したい過去はあるんだ。

私は、可愛い息子に、夫にも秘密にしている「栞」を使わせてあげることにした。一年前のかけっこは取り戻せないが、これからは彼にも、私のように選択ミスや後悔のない、素晴らしい人生を歩ませてあげたい。

「そう……じゃ、これからはね、何か失敗をしたときは母さんに……」

「あ、やっぱり戻りたくない」

息子はあわてて言い直した。私は驚いて、思わず聞きなおす。

「どうして? あんなに悔しくて泣いたでしょう?」

息子は胸を張って、誇らしげに言った。

「うん、だけどね、あのときよりも今のほうが、僕、速くなったんだ。だから、こんどはね、去年よりもぶっちぎりの一等賞になれるんだよ」

息子の自信と誇りに満ちた笑顔の前で、私は、何も答えることが出来ないまま、ただ黙ってうつむいてしまった。

 

私はずっとやり直してきた。

どうせやり直せるからと、人生を真剣に生きてこなかった。そしてそのことに、何の疑問も感じなかった。幸せならいいじゃない、と思っていたのだ。

だけど息子は、失敗を糧に、去年よりずっと成長していた。

失敗を糧にする勇気も、そのときそのときを真剣に生きる強さも、彼は彼自身の手で勝ち取ってきたのだ。息子は今、己の力で失敗を取り返すための、新しい挑戦をしようとしている。

そしてそれは、誰でもない、彼自身が考えた、彼の過去の失敗への、落とし前のつけ方なのだ。なぜなら彼は、私からは決して、それを学び取ることはできなかったはずなのだから。

私は、息子を送り出した後、そっと「栞」を取り出す。

銀色に輝く栞を見つめながら、今までの人生を思い返してみた。もちろん、何一つ失敗のない人生だ。いや、失敗はしたのだろうけれど、そのたびに簡単にやり直してきたから、何一つ記憶に残ってない。

それはそうだ。

私の出した成功、私の出した結果について、私は何一つ努力してないのだから。失敗に泣かない代わりに、成功に喜ぶこともなく、淡々と生きてきたのだから。

私の得てきたものは、雑誌やTVでみんなが求めるような、誰もが求める代わりに、誰にでもありうるような、そんな典型的な「成功」であり、「幸せの形」だったんだ。

もう、やめよう。

失敗しても、つらい思いをしても、やり直しの利かない真剣勝負だからこそ、泣いたり笑ったりできるんだ。

何の思い出もない、こんな薄っぺらい人生を、愛する息子に歩ませるわけには行かない。そして息子がそう生きる以上、私も共に歩んでゆきたい。

私は栞を捨てる決心をする。

「いままで、ありがとう。これからは、息子と一緒に生きてゆきます」

そうつぶやいてゴミ箱に入れようとした「栞」は、窓から吹き込んできた風にさらわれて、表に飛んでいってしまった。

ひらひらと舞うその姿を見ながら、私は初めて「本当に生き」はじめた実感に、いつの間にか涙を流していた。

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