| 信念の人 |
| 男は幸せだった。 仕事も順調で収入も人並みより多いくらいだし、数年ほど付き合い一緒に暮らしている彼女もいる。 自分も、家族も、彼女もいたって健康だし、誰を恨むことも、誰に恨まれることもなく、平平凡凡に暮らしている。 そして彼は、若く、体力気力に満ち溢れ、信念に満ちていた。その信念とはしかし、そう言った若者には珍しい方向性を持っていた。 特に刺激的に生きたい訳でもないし、平凡の何が悪い? 身を滅ぼすような野心も持たず、周りの人間との調和を求めて生きている自分に、男は誇りを感じていた。 穏やかな日々。 これに勝る幸せはない。愛する家族、恋人、友達との穏やかな楽しい日々をすごし、男には何の不満もなかった。この日々を大切にすることこそが、男の信念だった。 そして彼は、その信念を貫き通す、強い意志をもっていた。
ある日、彼は応募もしてない懸賞にあたった。 それも並みの懸賞ではない。マルチバックへの質問の権利だ。 普段、世界政府を運営するためにフル稼働している、世界最大最高速のコンピュータ「マルチバック」が、年に一度だけどんな質問に答えるという、マルチバックを作った企業のデモンストレーション企画に選ばれたのだ。 これは世界政府に所属するすべての成人を対象に行われる。マルチバックが世界中の人間の中からひとりを無作為に選び、その人物の質問に対して全力で答えるのだ。 その様子は世界中に放映され、質問者は一躍、時の人となる。質問者には専属のブレーンがつけられ、今までの質問と重複しないか、とか、内容があまりにも簡単でないか?などを検証される。 結局、大抵の質問者は自分の疑問など早い段階でそのブレーンチームに解かれてしまい、彼らの用意した、難解だがしかし質問者には何の興味もないようなことを言わされる。 しかし、ジャーナリズムは言う。 それでいいのだ。質問時のTV放映権とか、その他の言わば「マルチバック祭り」で発生するもろもろの利権によって、質問者は経済的恩恵を充分に得ることができるのだから、と。 質問日の一ヶ月以上前から、彼の周りは大騒ぎになり、それまでの平穏な人生は一変した。 にわかに増えた親戚が、彼や両親のもとへ金の無心に来る。老いた両親は、報道陣の過激な取材に身体を壊してしまう。 金や有名になることが目当ての女が次々と現れ、彼と彼女の仲もギクシャクしてくる。そこを狙い済ましたように、彼女のほうにも近づいてくる芸能関係者や男が後を断たなくなる。 他にも、テロリストがマルチバックに爆弾を仕掛けてくれと頼みに来たり、そのテロリストを捕らえるために秘密警察や公安がやってきたりと、剣呑な男達が彼の周りを徘徊するようになった。 彼の友達も、この物騒な連中のおかげで、訪ねてこなくなった。 彼は自分の信念に基づいて、この大波から家族や恋人を守ろうとし、およそ考えられるあらゆる防御策を講じた。普通の人なら、とっくにあきらめて、ジャーナリズムの洪水に飲み込まれていただろう。 しかし男は、その洪水に敢然と立ち向かう。彼の心身はぼろぼろになり、それでも彼は自分の信念のために戦った。 あの穏やかな日々を取り戻すために。 しかし、大衆の要望と言う錦の御旗を掲げた報道陣は、彼らを決して離さなかったし、彼等がプライベートを守ることも許さなかった。両親は病に倒れ、恋人は去り、友人も失った。 彼の幸せは破壊された。
そして、質問日当日。 彼にはちんぷんかんぷんの、専門的な質問が長々と書かれた用紙を持って、彼はマルチバックの前に立った。フラッシュが焚かれる中で、青白い顔をした彼にはもちろん、そんな用紙を読み上げる気は毛頭ない。 彼の幸せをめちゃくちゃにしたマルチバックに責任を取ってもらおうと、彼はこの何日間かの間、ずっと質問を考えていた。 時間を戻す方法。幸せを取り返す方法。 しかしどれも、マルチバックに定義を求められ、その定義に添った答えを出されることが目に見えている。 あなたにとって時間とは?幸せとは?などと定義を聞かれ、それに対するまさに機械的な答えをただ羅列されても、そんなものは彼には何の意味もない。口先では、決してマルチバックには敵わないのだ。 彼はマルチバックに、ひとことだけ質問した。 「おまえの幸せとは?」 もちろんマルチバックはすぐに演算にかかった。世界政府を運営しているマルチバックが、安っぽいSFの中に出てくるコンピュータのように抽象的な言葉で機能不全に陥るような、貧弱なマシンであるわけがないのだ。 「私はあくまで機械であるから、幸せと言う感情は持たない。ただし、それに近い意味合いとして、私の機能がより発揮しやすい環境に置かれれば、あなたが幸せと言うような状態に近いだろう」 理路整然と、マルチバックは答えた。当然、その具体的な方法に関しては、答えないに違いない。マルチバックが機能しやすい環境と言うのは、その逆をすれば機能低下を強いられる環境になるからだ。 それは国家機密に属する。 男は静かにうなずくと、ゆっくりと質問席を離れた。 驚き呆れた様子で待っていた、報道陣やブレーンチームの非難の声を聞き流しながら、彼は無表情に歩いてゆく。報道陣のひとりが、彼に大声で怒鳴った。 「どういうつもりなんだ?」 男は皮肉な薄ら笑いを浮かべる。 「おまえらこそ、人の幸せをぶち壊しておいて、よくそんなセリフが吐けるな?」 鼻白んだジャーナリストを尻目に、男は歩き出す。別のジャーナリストが、そこへ声をかけた。 「それでは、あの質問はあなたの復讐だったのですか?あんな質問で、マルチバックがフリーズするとでも思ったんですか?SF映画じゃあるまいし、ばかばかしい」 男は立ち止まると、にっこりと笑い、報道陣に向かって話し始めた。その話が終わった時、報道陣と男の間に黒塗りの高級車が滑り込む。 あっけに取られる報道陣を尻目に男がその車に乗り込むと、車はあっという間に消えていった。その後を、公安の車が追いかけてゆく。 「おい、なんだあれは?」 「みたか?あの車、外交官ナンバーだったぞ?」 世界政府が樹立した現在、外交官を置いている国は限られている。 それは全て、世界政府の掲げる自由世界に対立する、いわゆる軍事国家であった。 そこに属する工作員と思われる一団が彼を連れて行った。自分から乗り込んだ事実を考慮するまでもなく、彼がすでにそちら側の陣営に属していることは、公安が追いかけたことから見て、間違いないだろう。 報道陣の脳裏に、彼が自信と信念に満ち溢れた表情で、最後に発した言葉がよみがえる。 「復讐じゃない。マルチバックが幸せを感じるかどうか、それだけが知りたかったんだよ。君たちの幸せを破壊するのはそう難しいことじゃないが、マルチバックはそうもいかない。幸せを感じないものの幸せを壊すことは出来ないだろう?」 爽やかとさえ言えそうな彼のまっすぐな瞳は、邪気のないぶんだけ余計に見る者を戦慄させる。彼は穏やかな微笑のまま言った。 「あれは、マルチバックと君たちに対する宣戦布告だ」 報道陣は男のセリフと彼の笑顔を思い出し、戦慄したまま、いつまでも立ち尽している。 彼らはしつこい取材のおかげで、知っていたのだ。 男が信念を貫く人であることを。 |