セイのお見合い
本作は、拙作「冬一郎参上」のサイドストーリーとなっております。もちろん単独でも話は通っていますが、興味をもたれた方は本編の方も、どうぞご覧ください。

 

「セイさん! いらっしゃいます?」

風呂屋のユメヤの二階。誰もいない小座敷に向かって、女将の鈴(すず)が声をかける。まことに不思議な光景だが、ユメヤでは日常茶飯事のことだ。

「へ〜い」

どこからともなく声がすると、小座敷の窓から一陣の風。と、気づけば座敷の隅に、セイが立っている。この小男は、元内閣諜報部員であり、隠れ里の忍者の末裔でもあるのだ。

「セイさん。ちょっとお話があるんだけど、いいかしら?」

「構いやせん。どうせ退屈していたところですから。なんです? 先生がまた何かしでかしましたか? それとも、門倉のだんな?」

先生とは、鈴の夫にして柔術道場と寺子屋を営む、捕手神明菊島流(とりてしんめいきくしまりゅう)古武術の総領、つまり流派の最高師範、菊島冬一郎三矩(きくじまとういちろうみつよし)のことである。

などと書くと仰々しいのだが、まあ、呑んだくれては人のトラブルに首を突っ込んで、いらぬおせっかいばかりしている単純な男だ。

門倉のだんなというのは、冬一郎の悪友で、茶道、門倉流(かどくらりゅう)宗家の嫡男、門倉誠兵衛(かどくらせいべえ)のことである。

父、門倉元斎(かどくらげんさい)をして、「門倉流中興の祖、門倉凛元(かどくらりんげん)を彷彿とさせる」とまで言わしめた天才茶人であるが、普段の姿は、基本的に冬一郎とそう大差ない。つまり、呑んだくれのおせっかいである。

セイはこの二人がおせっかいや、冬一郎の祖母にして、女性初の内閣総理大臣を勤めた女傑、菊島まひるに依頼された仕事などをするとき、そのスパイとしての能力で、何度も手助けしたことがあるのである。

普段はそんな片鱗も見せない、呑んだくれで人のいい、穏やかな人物なのであるが。

「いえね、実はセイさんにお見合いの話を持ってきたの。冬一郎さんたちには内緒よ? あの人たちが絡むと、うまくいく話もしっちゃかめっちゃかにされてしまうから」

くるくると瞳を動かせて微笑む鈴のせりふに、セイは飛び上がってしまった。勝手に飲んでいたお茶を吹き出して、目を丸くする。

「ま、ま、待ってくださいよ、鈴姉ぇ! そんな、あしは結婚なんてしませんよ! ダメです。断ってください」

「会うだけでも、会ってみたらどう? 先様にはセイさんのお人柄を話してあるんですけれど、ご両親も、ご本人も、凄く乗り気なんですよ?」

「や、ダメですよ。勘弁してください。あしは今までどおり、気楽に生きて生きたいんです。だいたい、あしなんて所帯を持つガラじゃないし、なにより……」

「セイさん!」

思わぬ鈴の大きな声に、セイは話をやめて鈴を見た。

「セイさん、真面目に聞いてくださいね? あちは、いえ、あちだけじゃなく冬一郎さんも、セイさんにはいつも感謝していますし、本当の家族のように思っています」

「そりゃ、あしだってそう思ってますよ。まあ、新婚の家庭にのこのこ入り込んじまっているのは、面目ねえ限りですけれど」

「真面目に聞いてくださいってば。家族だからこそ、セイさんには幸せな家庭を持っていただきたいンですよ。それとも誰か、心に決めた方がいらっしゃるんですか?」

鈴がそう言うと、セイは珍しく真剣な顔をして考え込んだ。それから、何か意を決したような凛とした表情になって、鈴に向かって正座する。

「鈴姉ぇさん。ここだけの話にしてくださいますか?」

鈴はびっくりしながらも、うなずいた。

「それじゃあ、少し、昔話を聞いてください」

 

内閣諜報部の仕事というものは、汚い仕事が多い。

もちろん機関の性格上、やむを得ないことではあるのだが、その諜報員は、重大な精神的疲労を伴う、そんな汚い仕事に、内心嫌気が差していた。

そう、若き日のセイである。

この日もそんな汚い仕事に向かう途中であった。気が重いのが胃に来たのか、少々胃が痛むので、セイは仕事に出る前に通り道にあった薬局に入った。

調剤薬局であったその店は、隣の病院から処方箋を持った患者さん達がたくさん訪れていて、かなり混雑している。別の薬屋にいくかと扉の前で回れ右をしたところで、後ろから来ていたヒトとぶつかってしまった。

「あっ!」

消えそうに小さな悲鳴を上げて、その人物は薬局の玄関で転んでしまう。セイはあわてて助け起こした。

「こりゃどうも、申し訳ありやせん。大丈夫ですかい?」

ハイとうなずいてあげたその顔を見た瞬間、陳腐な表現だが、セイの身体に電気が走った。

「あ……」

「あのう……なにか?」

「い、いえ。お怪我がなくてよかった。それじゃ、あしはこれで」

あわててその場を去りながらも、ちらちらとその女性の後ろ姿に目をやる。そう、一目惚れと言うヤツだ。後ろ髪を惹かれる思いでその場を去ったが、彼女の顔は、その日一日、セイの心から消えることはなかった。

次の日、セイはまたもあの薬局に向かう。今度はもちろん、胃が痛いわけではない。どちらかといえば、病んでいるのは胸のほうであろう。もっとも、こればかりはどんな薬局にだって、薬は売っていないのだが。

「あ……あなたは」

彼女が来るのを見計らって、セイはさも今来た風を装いながら、薬局の前で彼女に「偶然」出会うことに成功した。

「あ、昨日はどうも申し訳ない。少々急いでいたものですから、きちんとしたお詫びもできませんで」

「いえ、お詫びだなんて、そんな……」

「どうです? もし良かったら、お詫びがてらそこらで食事でもご馳走させてください」

すらすらとよどみなく誘っているようだが、もちろん、昨日一晩考え抜き、練習した成果である。彼女はしばらく考えてから、小さくうなずいた。

セイの人生は、激変した。

汚い仕事でどれだけいやな思いをしても、彼女と過ごせば消し飛んでしまう。彼女の微笑みに舞い上がり、ふとした言葉に傷つき、ちょっとしたしぐさに狂喜乱舞する。

ああ、こんなにステキな人、他にいるだろうか?

彼女と会う以外の時間は、彼女を想い、次に会える日を数えるだけの時間と化す。彼女は住所を教えてくれなかったので、セイにできるのは電話を待つことだけだった。

もちろん、彼の仕事なら、彼女の住所やその他のことを調べるのは簡単なことである。しかし、セイは決してそれをしなかった。それは彼女に対する冒涜であり、彼女を愛する自分の気持ちに対する冒涜である。

一緒に撮った写真を、胸のポケットの上からいとおしくなでるだけ。それだけでも、ステキに幸せだった。セイは恋するだけの存在になった。

しかし、仕事は相変わらず汚い。

その日、セイは暗殺チームが殺したターゲットの死体の回収と、現場の片付けに向かっていた。もちろん、片付けの中には、目撃者の口を封じることも含まれている。

金を積むか、命をとるか。どちらにしても、楽しい仕事ではない。

セイは小さなアパートに到着すると、殺戮のあった部屋を淡々と片付け始める。これが終わったら、周りの人間をそれとなく探り、万が一目撃しているものがあれば、片付けなくてはならない。

部屋を片付け終わると、するりと影のように隣の部屋の前まで来た。

反対側は空き室だったから、こちらの住人が何も聞いたり見たりしていなければ、セイの仕事は完了だ。

セイはそうっと玄関の扉を開けようとして、住人が出てくる気配を感じ、すばやく身を隠した。扉が開き、中の住人が恐る恐る顔を出す。

その恐怖に震える様子や、泳ぐ瞳を見れば、この住人が事件の一部始終を目撃、もしくは聞いていたことは、プロのセイからしてみれば、一目瞭然であった。

しかし、彼の心臓は、一瞬動きを止める。

そう、この隣の住人こそ、彼の一番大切な人、愛する人であったのだ。一瞬パニックになりながら、セイはその場から姿を消す。走りながら、彼の頭脳は、ものすごい勢いでフル回転していた。

このままでは、彼女の命が奪われてしまう。

どうする? どうにかごまかすか? いや、それは不可能だ。相手は情報収集と解析のプロ集団である。ごまかしきることはできまい。

ならば、自分が守るしかない。

古来より忍びというものは足抜けを許されないものであるが、しかし、組織を抜けるしか方法はない。それを望む者には、死による開放以外の道はないのだとしても。

だが、自分はやる。

忍びの掟も、スパイの常識も知ったことか。自分は愛するあのヒトのために生きるのだ。あのヒトのために、すべてをなげうって、戦うのだ。

それは決して心楽しい未来図ではなかったが、しかし、セイのいちばん求めていたものかもしれない。彼はそうと決めると、つむじ風のように彼女の部屋まで舞い戻った。

幸いまだ、同僚たちには嗅ぎ付けられていないようだ。

セイは大きく息を吸い込むと、扉をノックした。

なかから、小さな震える声で、返事がある。

セイは思い切って扉を開けた。

と。

一瞬目の前が真っ白になった。

こちらに向かって座った彼女の白いブラウスの胸に、真っ赤な鮮血がバラのように花咲いている。真っ青な顔で息も絶え絶えの彼女は、驚いた表情でセイを見ていた。

遅かったか!

氷の手で心臓をわしづかみにされたまま、セイはふらふらと彼女に近づいてゆく。その瞳からは、いつしか大粒の涙が流れ出していた。

「すまない。すまない」

それだけをつぶやきながら、彼女のそばに近寄る。

セイがそっと抱きしめると、彼女は小さな声で聞いた。

「どうして……?」

ここに来るまでの経緯(いきさつ)、隣の惨劇は自分の同僚がやったこと、自分はその後片付けを仕事にしていること、彼女が危ないと知って、組織を抜ける覚悟でここまで来たこと などを語った。

すると、彼女はカゲロウのように、はかなく微笑んだ。

「ふふふ。あわてん坊さんね、あなたは」

「え?」

「勝手に私を殺さないで?」

「え? え?」

彼女はゆっくりと自分の胸元を指して見せた。そこには何の傷もない。それでは、このたくさんの血液はいったい?

「これはね、私が吐いたんですよ。私、病気なんです」

つまりそれが、彼女が薬局にいたわけであり、セイに住所を教えなかったわけなのだ。彼女は医者に、余命一年の宣告をされていたのである。

「なんと……なんと言う……」

言葉を失ったセイに向かって、彼女は穏やかな微笑を絶やさぬまま、ゆっくりと語った。

「私はあなたが好きです。そしてあなたが愛していると言ってくれる事を、本当に嬉しく、幸せに思います。でも、私の命はもう、残っていないの。だから、あなたの気持ちに応えることはできないの」

微笑んではいるが、しかし、彼女の表情には、寂しさとそれ以上に色濃く、あきらめの表情が浮かんでいた。見るものの心まで深く沈ませる、悲しいあきらめの色が。

セイの身体の中に、押さえようもない、強い力がわきあがってくる。

「私と一緒になればいい。私は、必ずあなたを守る。あなたが旅立つそのときまで、私がずっとそばに居る」

「ダメよ。そんな」

「私が好きだといってくれただろう?」

小さくうなずいた彼女を抱き寄せ、セイは決然とした面持ちでその瞳を見つめた。彼女も見つめ返す。

そうして、長い時間が流れた。

「私はもう、長くはありません。それでも、もし一緒にいてくれるなら、死ぬ瞬間まで、あなたと一緒にいたい」

「なら、話は決まった。さあ、着替えなさい。一緒に逃げなくては。都会に逃げよう。人の多いところなら、うまく隠れられるだろう」

愛する人がうなずくのを見て、セイはまた少し、心の中に強い力が芽生えるのを感じた。

 

「そういうわけで、彼女の命は残り少なかったのですが、それでもあしは彼女と一緒に、都会へ逃げました。そして、しばらくの間、平和な日々が続いたんです。あしは本当に幸せでした」

真剣な顔でセイの話に聞き入っていた鈴は、そこでほっとため息をついた。しかし、続くセイの言葉に、また緊張を走らせる。

「そこに現れたんです」

「だ、誰がですの?」

「まひる様からお聞きになったことはありませんか? 内閣調査室のエージェントを束ねる室長のさらに上に君臨する、影の最高実力者。あしたち忍びの頭領、力王様ですよ」

 

その小さな老人は、セイの前に忽然と姿を現した。

存在感、と言えばいいのだろうか。目に見えぬながらも圧倒的なその迫力は、セイの皮膚をびりびりと刺激するようだ。これがあの、ニコニコと微笑んでばかりいた、吹けば飛ぶように小さな、あの老人なのか?

薄汚れたビルに挟まれた、暗い路地裏。生ゴミのバケツが異臭を放つそんな場所で、老人とセイはにらみ合っている。

セイはじりじりと脂汗を流しながら、いつでも飛び退ることの出来るように、自分の身体の重心を、何度となく確認する。いつもなら重心を身体の中心に置いて、あらゆる攻撃に対処することなど造作もない。むしろ、無意識に属する行動のはずである。

ところがこの老人の前に立つと、何度確認しても自分の身体がふらふら揺れているようで、なんとも心もとない気分になるのである。とにかく必死に心と身体をコントロールしながら、声音だけは勤めて平静を装い、セイは老人に語りかけた。

「これは、これは。力王さま御自(おんみずか)ら、このようなところまでお運びになられるとは、いったいいかがなされました?」

「痴れ者が」

突風が吹いた。

いや、老人の気迫に、そのような幻想を見せられてしまったのだ。それほど老人の声には、裂帛(れっぱく)の気合がこもっていた。つまり、それほど怒っているのである。

セイは一瞬、心の奥底から萎えそうになり、やがて、逆に吹っ切れた。これはもう、言葉を尽くして許しを請うというようなレベルではない。それならそれで、いっそこちらも腹をくくれると言うものだ。

腹をくくってしまえば、先ほどからの迷いは消え、身体の重心から上下に引いた垂線に、己の胆力を上手く乗せることが出来た。重心が安定した途端、心のほうも安定し、瞳に迷いがなくなる。

「ほほう、腹をくくったかよ。イイワケする気はない、と言うことじゃな?」

老人はわずかに目を細めると、セイをにらみ据えながら、にやりと笑った。とてもセイよりふた周りも小さい老人のものとは思えない凄みが、その笑みに宿っている。

「あしは何も、恥ずべきことはしていませんぜ?」

「恥じる心がないのだから、それも道理じゃの」

「愛する人のために生きることが、それほど恥ずべきことですか?」

「成せねばならぬことを放り出して、そう言うことをいっている、そのおまえの態度を恥ずべきなのじゃよ。判らぬか?」

「わかりやせんね。成さねばならぬと言っているのはあンた方だけで、あしには関わりのねえこってすから。あしはもう、里に戻る気もねえし、薄汚い仕事に戻る気もねえです」

老人は厳しい、見ようによっては悲しそうな瞳でセイを見ると、無言のまま間合いを詰めてきた。驚くほど自然に、あっけなく懐に入られたことに気づいてから、ようやく悪寒が背中を走る。

悪寒と同時に、足元のほうから凶悪な意志を持った何かが襲い掛かってくる。無我夢中で体をひるがえしたその眼前を、老人のぞうりを履いた小さな足が、獣のアギトのように駆け抜けてゆく。

すさまじい体術であった。

肝を縮み上がらせながら、何とか飛びのいたセイは、そのまま横っ飛びにビルの壁を蹴る。蹴った反動で身を翻し空中に舞うと、身体を前方に宙返りさせながら、老人に向かって渾身のカカト蹴りを見舞った。

浴びせ蹴りと呼ばれるこの技は、忍法を基礎とした格闘術、骨法に見られるものである。

と。

カカトが老人に当たる寸前、肛門から氷柱(つらら)を突っ込まれたような感覚が襲う。空中で無理やり身体をねじり、不様に転げて地面に両手をつきながら、セイは四つんばいのまま老人に視線を移した。

老人の手にはいつの間にか、笹の葉のような形をした鉄製の鋭い刃物が握られていた。忍びが懐中や袖(そで)、手の中などに忍ばせる武器、暗器である。いろいろな形があるが、老人のものは鉄で作った笹の葉のような形をしている。

笹の中央には指が通る程度のリングがあり、そこに親指や中指を入れて使うもののようだ。あのまま蹴りを入れていれば、暗器は正確にセイの太ももの付け根、そけい部の大腿動脈を切り裂いていただろう。

距離をとったところでようやく、セイの全身から脂汗が噴出した。

瞬間、そのほっとした一瞬を狙い済ましたように、老人の身体が、またもモーションなしで懐に入ってくる。セイは老人の足が地に付く寸前を狙って、前蹴りを放った。まっすぐ足の甲で蹴るのではなく、ひざを曲げ、がに股のような格好で、ぐにゃりと複雑な軌道を描くように蹴るのだ。

舞(まい)と言う、骨法独特の蹴り方である。螺旋の動きで蹴るために、ボクシングで言うコークスクリュウブロウと同じ原理で、窮屈な場所や体勢からでも貫通力のある蹴りが出せる。

飛んできた暗器がセイの太ももに刺さるのと、舞を入れた蹴りが老人の足の甲を蹴りつぶすのは、ほぼ同時だった。セイは刃物をつき立てたまま跳び退り、さすがに老人も一瞬、動きを止める。

チャンスと見たセイは、足の痛みを無視して、一気に間合いをつめ……

ようとして、そのままどうと地面に倒れ伏した。

無表情のまま老人が近づいてくる。

老人はセイの太ももから暗器を抜き取ると、面白くなさそうな顔で独り言ちた。

「暗器に毒を塗っておくなど、初歩の初歩じゃろうが。その程度の腕の男は、もう、いらん。そのままどこぞでのたれ死ぬがよい」

言ってくるりときびすを返すと、それきりまるで地面を滑るように表通りへ出、あっという間に人ごみの中へ消えてしまった。

残されたセイはしばらく動けずにいたが、やがて全身を痙攣させながら、げえげえと胃の中のものを吐き出す。陸に打ち上げられた魚のように、むちゃくちゃに暴れながら、あたりに吐しゃ物を吐き散らした。

頬をぬらす涙は、苦しいからなのか、悔しいからなのか。それとも彼女を置いて先に逝くことへの悲しみなのだろうか?

吐瀉物にまみれたまま、地面をのた打ち回りつつ、セイはいつまでも泣き続けた。

 

「ま、結局、それは毒って言っても効力の弱いものでして、ひどく苦しみはしますが、命まで取るようなものじゃなかったんでさ。もっとも、三日三晩、そうして苦しんだんですから、毒の効力が消えたときは、ただでさえやせっぽちなのが、さらに一回り小さくなってましたがね」

セイはそう言って顔をほころばせた。

「それじゃあ、その力王様と言う方は、最初からセイさんのことをお許しになってらしたのですね」

「そう……なんでしょうね。後から聞いた話なんですが、何でも昔、力王様はまひる様にぞっこん惚れていたんですが、まひる様の心が冬一郎先生の曾おじいさん、菊島十太夫様にあると知って、潔く身をお引きになったことがあるそうなんでさ」(サイドストーリ: 「はいからさんが通る」参照)

「ああ、そう言えば、そんな話を聞いたことがあるかもしれません。それでは力王様は、セイさんに昔の自分を見たのかもしれませんね」

「そう言う事かも知れません。まあ、あの恐っそろしい爺さまに、そんなロマンティックなところがあるなんて、実際に体験したあしでさえ、信じられませんがね」

「まあ、ひどい」

ころころと笑う鈴の笑顔をまぶしそうに見ながら、セイも笑った。鈴の笑顔に、愛する人の面影を見たのかもしれない。

「あしと居たことが少しは心の励みになったのでしょうか。彼女は医者の言葉を裏切って、三年、生きてくれました」

セイはそのときを思い出したのか、ひどく穏やかな、懐かしそうな顔で遠くを見ている。

「彼女と過ごした日々は、ずっとあしの宝物ですよ。あしはもう、その思い出だけで生きてゆけます。だから鈴姉ぇ……申し訳ないんですが」

その言葉に、話の発端である見合いのことを思い出した鈴は、真っ赤になって両手を振った。両の瞳に、見る見る涙が浮かんでくる。

「とんでもない。あちこそ無神経なおせっかいを言って、ごめんなさい。本当にごめんなさい。セイさん、どうぞ許してください」

涙を浮かべて頭を下げる鈴に、セイは飛び上がってしまう。

「そ、そんな。鈴ねえ、お顔を上げてくだせえ。いや、弱ったな」

半泣きになりながら詫びる鈴の頭を、なだめすかして上げさせると、セイは苦笑しながら頭を掻いた。

「まあ、鈴姉ぇは言いづらいでしょうから、先様にはあしからお断りの連絡を入れておきます」

「いけません。それは私が、先走りであったと正直に謝ってきますから。セイさんには冬一郎さんがいつもお世話になっているのに、ホント、ご迷惑ばっかりかけて。ごめんなさい」

「迷惑だなんて、やめてくださいよ、鈴姉ぇ。世話になってるのはこっちでさあ。それに、今回の話だって、鈴姉ぇがあしの幸せを考えて持ってきてくだすったんだってこたあ、誰よりあしが一番わかってまさぁ」

それでもまだぐずぐずと落ち込んでいる鈴の顔を、セイは下からおどけた顔で覗き込む。驚いた鈴が目を見張ると、セイはにやりと笑って言った。

「もし、あしなんかが先生や鈴姉ぇのお役に立っているって言うんなら、ひとつだけワガママを聞いちゃもらえませんかね?」

あわててうなずく鈴。

「あしは、これからもずっと先生や鈴姉ぇ、門倉のだんなや葵のだんな、奈津ちゃん、以蔵さん達と一緒にいたいんです。あしは、みんなのことを家族だと思っているんですよ」

真剣に聞く鈴の顔に、少しくすぐったそうな顔をして、セイは続けた。

「あしは、みんなが大好きです。だから、結婚もしないでずっと、先生や鈴姉ぇのおそばに居ることを、許しちゃあくださいませんか? 新婚さんに、とんでもないお願いだとは、重々承知の上で」

屈託なく微笑んだセイの顔を見ながら、鈴は顔をくちゃくちゃにして泣き笑いする。ぽろぽろと涙を流しながら、何度も何度もうなずいた。

「そうですか! 嬉しいなぁ。あしは本当に幸せな男ですよ」

本当に、本当に嬉しそうに、セイは笑う。

と。

表が騒がしくなった。

「おや、先生と門倉のだんなが帰ってきたようですね?」

言うと同時に、表から冬一郎の声がした。

「やい! セイ! 居るか? すげえぞ! いいもの見せてやる」

後に誠兵衛の声が続く。

「二段投(にだんなげ)だ! 幻の銘酒、二段投が手に入ったんだ! セイ! 一緒に呑もうぜ?」

「ふざけンな! 俺は見せてやるって言ったんだ。おめえらなンかには、一口たりともやらねえぞ。匂いだけ嗅がせてやるから、とっとと帰れ」

「ケチなこと言ってるンじゃねえよ。おーい! セイ! 「うな和」までひとっ走り頼まぁ。あっこのオヤジに、誠兵衛の酒のつまみを見繕えって言やあ、適当に包んでくれるからよ」

「あークソ。いつもこれだよ。まったくセイといい、てめえといい、何でそんなに意地汚ねえんだ? 鈴! 鈴ぅ! こうなったらアレだ。こないだご隠居にもらった、近江牛があったろう? あれも出しちまえ!」

「なに? 近江牛だ? てめえ、いつの間に! 俺に黙って喰う気だったな? このヤロウ。なんて意地汚いヤツだ」

「やかましい! ふざけたこと言ってるなぁ、このクチか?」

「いててて! 痛ぇだろう! やめろ、バカ!」

やかましく騒ぎたてながら階段を上がってくる二人の声に、にっこりと微笑んだセイは、鈴にウインクしてみせると、階下に向かって大きな声を張り上げた。

「先生! 門倉のだんな! 二人だけで飲んじゃイヤですよ? あしがうなぎ屋から帰ってくるまで、我慢しててくださいね?」

間髪いれずに、二人同時に怒鳴り返してくる。

「いやなこった!」

セイは肩をすくめて鈴に微笑んだ。と、次の瞬間には窓から飛び出し、うなぎ屋に向かって一目散に走り出す。

その頭上には、抜けるような初夏の青空が広がっていた。


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