ライナス・ラプソディ
「どうもおかしい」

ライナスはつぶやいた。ここ最近、共働きの妻の帰りが遅いのである。遅いといっても高々2〜3時間なのだが、結婚してこの十年、一度もなかったことなのだ。

ふと、予感を感じたライナスは、妻のいない隙に彼女の部屋を物色してみた。彼女が物を隠しそうなところは、大体察しがつく。

思った通り妻は彼の知らないうちに、新しい銀行口座を開設していた。残金は……彼の目が驚きに見開かれる。

それは彼の予想を二桁ほど上回る、高額の隠し預金だった。それがココ数週間の間に、驚くほどの勢いで減っている。

ちょうど、彼女の帰りが遅くなってきた時期と合致する。

「あいつ、いったい……」

次の日、ライナスは妻を尾行することにした。

会社の前で妻が出てくるのを待つ。思った通り妻はいつもと同じ時間に会社を出てきた。今朝、彼の確認のことばに、遅くなると言っていたはずなのに。

ライナスは不安と怒りを抑えて、彼女の後を追った。

彼女はそんなライナスに気づくこともなく、大きなビルに入っていった。隠し講座のある銀行だ。しばらく待っていると、彼女はそこを出て次の場所へ向かった。

次に彼女が向かったのは、彼ら夫婦のかかりつけの病院であった。そこでまた小一時間待たされる。ライナスは彼女の真意を測りかねていたので、声を掛けることができないでいた。

病院から出てきた彼女は、今度は近くの喫茶店に入った。

10分後、ライナスが予想していながらも、見たくなかった光景がそこにあった。妻は、若く背の高い男に、今しがた引き落としてきたお金を渡していたのである。男は嬉しそうに笑っていた。ライナスは男の顔をしっかりと目に焼き付けると帰路についた。

そのまま病院に向かう。

病院で、ライナスは医師に詰め寄った。もともと付き合いの長いかかりつけである。彼が自分が予想していたことを、妻から聞いたということにして告げると、医師は仕方なくうなずいた。

ライナスは悪性の病に冒されていたのだ。

打ちひしがれたまま、ライナスは自宅の扉をくぐった。妻はまだ帰ってきていない。ライナスは暗い居間で、ひとりで泣いた。

次の日ライナスは友人を訪ねた。

裏社会で生きているその友人に、司法解剖しても決して検出されない毒薬を分けてくれとせまる。友人は少し驚いたような様子を見せたが、何も言わずに薬を渡した。

友人は、帰ろうとするライナスに声をかける。

「奥さんは元気かい?」

何も答えないライナスの顔を見て、友人は判ったと言うようにうなずくと、扉を開けてライナスを送り出した。

その晩、ライナスはワインを一本買ってきた。驚きながらも歓ぶ妻のグラスに、隙を見て毒薬を混入する。

そして乾杯。

ライナスはゆっくりと崩れ落ちる妻の姿を、無表情に眺めていた。

と、呼び鈴が鳴った。

無視しようとしたが、あまりにもしつこいので、ライナスは仕方なく扉を開けた。扉の外には、喫茶店で妻と会っていた例の男が立っている。

男はにっこりと笑うと、軽やかにしゃべりだした。

「こんばんは。旦那様ですね?はじめまして。私は医療法人冷凍睡眠協会のものです。今回、なんとかあなたの冷凍睡眠の枠を確保することができました。おめでとうございます。これであなたは未来で病気の治療にあたることができますよ」

唖然とするライナスに向かって、男はなおもしゃべる。

「枠が確保できるまで、旦那様には内緒にしておいてくれと奥様に厳命されていたのですが、こうして無事に取れた以上、もういいでしょう?それではこれから手続きのほうをですね……」

ライナスは強引に男を帰すと、居間に戻った。倒れている妻を抱え上げ、長椅子に寝かせる。そしてそのまま、無表情で妻を見ていたライナスが、不意に顔を歪ませた。

意を決したようにテーブルの上のワイングラスに、ワインとクスリを入れてひと息に飲み干す。クスリはすぐに効いて、ライナスの意識は遠のいてゆく。

ゆっくりと崩れ落ちるその瞳には、涙があふれていた。

 

しばらくして、長椅子の上で妻が目を覚ました。

テーブルに突っ伏しているライナスに一瞥をくれると、彼女は玄関へ急いだ。表には先ほど帰ったはずの背の高い若い男が立ってる。妻は微笑むと男を中に入れた。これから先のことは、女の細腕では不可能だからだ。

男は持ってきた注射器の中身をライナスの静脈に流し込んでゆく。今はクスリのせいで仮死状態だから何の効果も見せないが、クスリが切れた時点から、その中身がゆっくりと効果を発揮するのだ。

ライナスを抱えると表に運び出し、車にの後部座席に座らせた。そこにライナスの友人であるはずの、クスリをくれた男がやってきた。若い男は彼に会釈をすると、傍らで彼の作業を見ていたライナスの妻に向かっていった。

「奥様、あれは?」

妻はうなずくと、封筒を手渡す。若い男はそれを受け取ると、もう一度二人にお辞儀をして、去っていった。

ライナスの妻は、ライナスの友人の腕を取ると、甘えた声で言った。

「やっと済んだわ」

男は少し陰のある口調で、

「あまり後味のいいものじゃないな」

「でも、仕方ないじゃない?ねえ、それよりどこかにお食事に行かない?」

「女は強いや」

苦笑する友人に、妻はにっこりと笑いかけた。

 

若い男は、仮死状態のライナスを載せたまま車を走らせていたが、途中で渋滞に捕まり舌打ちをする。しかし、怒ってみても、車の列は容易に進みそうもない。

ふと気づいて、内ポケットから封筒を出す。中身を広げて、確認するためにざっと読むことにした。

それは、愛の言葉から始まっていた。

『愛するライナス。これを読んでいるということは、あなたは病気を克服して新しい人生のスタートを切っているということね?おめでとう。

なぜこんなやり方になったかは、主治医のお医者様に聞いてるかしら?冷凍睡眠というのは、すごくデリケートなもので、恐れや不信感を持っていると上手くいかないらしいの。

解凍した後の人格に、影響が出てしまうのですって。だからあの時点では、あなたが自ら死を選ぶという、言わば死を恐れない精神状態にすることが必要だったの。

責任感の強いあなたなら、間違いで私を殺したとなれば必ず死を選ぶと思っていたから。あなたは私を愛するがゆえに私を殺そうとし、愛するがゆえに絶望して死を選んだ。私のあなたへの愛は、いっそう深まったわ。

だけど、私はあなたと一緒にはいけない。

私には年老いた両親もいるし、あなたが冷凍睡眠に入った後の始末も残っているから。だいいち、二人分の料金は高くて支払えないしね(笑)

私はこっちでがんばります。あなたは、その未来の世界で、がんばって生きていってね?そのころには私は死んでしまっていないだろうけど、天国であなたのことを応援しています。

あなたにあえて本当によかった。愛してるわ、ライナス。さようなら』

読み終わると同時に、ちょうど車が動き出したので、男は手紙をしまってハンドルを握った。

「この手紙を見れば、冷凍睡眠の副作用で生きる気力を失っている人間も、きっと勇気をもてるだろう。しかし、よく考えたよなぁ。学者ってのはたいしたもんだよ、まったく」

男の思いはライナスの妻へと飛ぶ。

「でもまあ、それよりたいしたもんなのは、あの奥さんだよな。打ち合わせしてるうちに、いつのまにか旦那の友人とデキちまうんだから。そりゃ旦那は未来へ送っちゃうんだから、悪いということもないだろうけどさ。やっぱり、女はおっかないや」

男はへへ、っと小さく笑う。

注射で仮死状態のままのライナスを所定の係りに預けると、彼の仕事は終わった。彼は家に帰り際、自分の彼女に電話しようと携帯を取り出した。そして、そのまましばらく立ち止まる。

5分ほど考えた後、電話をしまった彼は歩き出した。

たまにはひとりで飲むのも悪くない。

index