さよならのかわりに
たとえば雪が雨に変わるように。

なんの前触れもなく突然、ずっと続くと信じていた幸せの日々、そのすべてが壊れてゆく。むかし見たあの映画のように、幸せを約束されていた僕のすべてが雨に流れて凍土の中にしみこんでゆく。

雨はやまない。

怒ったしぐさ、泣き顔、そして笑顔。

愛してる。それだけで時の流れさえ止められたのに、もう、あの日々は帰ってこない。そう、決して……

そして僕は雨の中、ただひとりで立ち尽くしている。

ずいぶんと長いことそうして立ち続け、やがて、僕は足元の凍土に視線を移した。いつまでも過ぎ去った日々のことを思っているわけにはゆかない。

僕にはやらねばならない事があるのだから……

 

優性遺伝子保護法。

すごく賛否両論の多い法律だけれど、僕は賛成派だ。この星はもう、たくさんのヒトであふれかえっていて、これ以上、余分な人間を養うことはできないんだから。

それは確かに、人間に優劣をつけるというのは、人権擁護団体に言われるまでもなく僕だって、どうかな? とは思う。だけど、だからと言って理想論だけで、ヒトの住める土地が増えるわけじゃない。

空を見上げれば、それは確かにすぐ近くに住むことのできる星、いや、できた星がある。だけどそれはあくまで「理論的には」ってコト。

いくら美しいからといって、いくら我々の故郷だからといって、重力が6倍もある地球なんかに、誰が好き好んでいくものか。

だからこそ、優性遺伝子保護法ができたんだ。遺伝子のデザインを解析して、劣等と判断されたものは、地球に送られる。その、いったい何が悪いって言うんだ?

別に殺すわけじゃないんだし、そりゃ最初は6倍の重力に立つことさえできないらしいけれど、それに慣れさえすれば、地球の住人は破格の扱いを受けているんだから、文句を言う筋合いはないと思う。

地球に行きさえすれば、それ以降、すべての税金は90%以上免除されるし、土地だって自分で開拓した分は、いくらでも自分のものにできるんだから。

大体、地球の人間が必要なもののほとんどは、僕たち月人が援助しているんだよ?

劣悪な遺伝子を持っているのに、この破格の扱いなんだから、僕らは感謝されることはあっても、文句を言われる筋合いじゃないと思うんだよね。まあ、そんなことも理解できないからこそ、劣悪遺伝子保持者なんだろうけど。

まあ、いいや。そんなことは、どうでもいいんだ。

そうじゃなくて僕が言いたいのは、レミーがいかに素晴らしいかってコトなんだ。

レミーは美しくて、やさしくて、それでいて一人の人間として尊敬に値する、広い視野と深い思慮、そして類まれな行動力を備えている。完璧、と言うのはレミーのためにある言葉じゃないだろうか?

劣悪認定された者はもちろん、優性認定された者にも、月にいる限りは厳しい制限が設けられる。それは遺伝子のデザインによって決まるんだけれど、レミーはなんと、Sクラスなんだ。

特Aクラスの上、つまり、産児制限という一番厳しい規制さえも、彼女には当てはまらないんだよ。

Sクラスは月に何人もいない。僕の所属する特Aクラスだって、人口の数%なんだ。

僕は初めてレミーの登録証を見たとき、驚きと喜びで全身にふるえが走った。Sクラスと特Aクラスなら、文句なしに上流階級だ。S同士のように無制限とは行かないけれど、それでも3人の子供を持つことが許される。

子供3人だよ?

僕が有頂天になったのも、無理はないだろう?

もちろん、僕に子供ができるたびに、下のクラスの誰かは地球送りになるんだけれど、まあ、それは仕方ないことだ。遺伝子が決めたことだから、あきらめてもらうしかないな。

ぼくはもう、レミーに夢中だった。

僕たちはどこのパーティでも、注目の的だったよ。どこへ行っても、Sクラスのレミーは賞賛と羨望の的だった。そして、彼女を射止めた僕も、ね。

そりゃあSクラス同士のカップルには及ばないかもしれないけれど、彼らの数は非常に少ないから、そのことについて僕が不愉快な思いをすることはまったくなかった。

レミーと僕は、将来についていろいろと語り合った。たくさんの映画を見て、こんな風に幸せになろうね、とお互いの手を握り締めた。レミーといるだけで、僕は毎日が幸せで、むしろ怖いくらいだった。

そして、ついに……

彼女の身体に、待望の赤ちゃんが宿る。

Sクラスと特Aクラスの子供だ。文句なく特Aクラスに認定されるだろう。

僕とレミーは、意気揚々、出産管理センターに向かった。

 

何がなんだかわからないウチに、僕の幸せは崩れ去ってしまった。

僕らの子供は検査の結果、アンダーD認定を受けてしまったのだ。認定外、つまり堕胎か地球行きのどちらかの選択肢しかないのだ。いったい何がどうしたと言うのだろう。

パニックになりかけている僕のそばで、レミーが深いため息をついた。彼女は何も言わなかったけれど、僕にはそのため息が「あなたのせいよ」と言っているように聞こえて、胸が締め付けられそうだった。

僕は担当医を呼び出すと、食って掛かる。

「いったいどうして! なぜ僕たちの子供が!」

彼は無表情のまま肩をすくめると、淡々とした口調でつぶやいた。

「仕方ありませんな。確かにこんなことは大変珍しいのですが、しかし、まったくありえないことではありません。あなたと彼女の遺伝子の組み合わせは、アンダーD以外ありえないんですよ」

「だから、なぜ!」

「決まっているでしょう?」

彼はタバコに火をつけて、ゆっくりと美味そうに吸った。空気にバカ高い税金がかかる月でタバコが吸えるということは、彼も特Aクラス以上だと言うことだ。

担当医はそうしてタバコを吸いながら、無表情というより、不愉快なことにむしろ面白そうな顔で、僕の顔を覗き込むようにして言った。

「あなたは彼女の息子なんですから」

 

Sクラスのエリートらしく、莫大な財産に物を言わせて遺伝子制御や手術を何度もおこなった、作り物の美しい顔に微笑を浮かべながら、レミーは僕に言った。

「まさか、あなたが私の子供だったとはね。そりゃ、下のクラスなのに、魅力的なはずだわ。でも、こうなったら仕方ないわね? さよなら、今まで楽しかったわ。早く素敵なヒトを見つけてね?」

彼女が僕を愛してくれていたことは間違いない。

下のクラスの男と子供を作るなんて、Sクラスではまず考えられないことらしいから。もっとも僕は、そんなことまったく知らなかった。だからこそ、何の疑いもなく、ただ喜んではしゃいでいたのだけれど。

僕は絶望にさいなまれながら、抜け殻のような日々を過ごした。しかしやがて、僕の頭にある考えがひらめく。それはとても魅力的なものだった。

その日から僕は生き返り、必要なことを学び始めた。仕事をしなくなったために、僕のクラスは見る見る落ちていったが、そんなことはもう、どうでもよかった。

来週からDクラスに格下げが決まったある日、僕は必要なすべての情報を手に入れた。そしてその足で、地球行きの申請をする。人口過多の月政府は、瞬く間に僕の申請書を受理する。

地球行きの前の晩、僕はレミー、いや、僕の母親に連絡を取った。もちろん未練や泣き言を言うためではなく、必要なものを手に入れるためである。

そうして僕はいま、母親から譲り受けた、生まれてすぐに死んでしまった息子のなきがらを抱きしめて、地球の上にいる。

地球に降り立つと、僕は真っ先に、誰も欲しがらないため手付かずで残っていた、シベリアと呼ばれる地方を手に入れた。シベリアはその日から、建設用ロボットと僕しかいない、僕の王国となった。

6倍の重力に押しつぶされそうになりながら、大地を踏みしめて僕は立っている。息子のなきがらは、シベリアの凍土の中に埋葬するつもりだ。ここなら決して腐ることはないから、息子は長い時を、この凍土の下で眠ってすごすだろう。

そして、ここには、まだ完全には掘りつくされていない、幻の財宝も眠っているはずだ。それは間違いない。僕はそれを調べるために、レミーと別れてからのすべての時間を費やしたのだから。

地下に眠るその天然化石燃料、石油と呼ばれる過去の遺物を掘り出して、僕は金を手に入れる。

衛星軌道に乗る太陽電池パネルや、水素電池などたくさんのエネルギーがある現在、石油に燃料としての需要はまったくない。

しかし、石油から作ることのできる繊維やプラスティックなどの骨董品は、月のSクラスの間では、莫大な値打ちがあるのである。

もちろんこの厳しい環境で、僕がいつまで生きられるかはわからないけれど、命を賭してでも、僕はそれをやりとげるつもりだ。息子であり、同じ母から生まれた弟である、この小さななきがらをよみがえらせるために。

クローンを作ることは、法的に許されていない。しかし、莫大な金さえ積めば不可能ではない。

月から放り出された人々の住む、月を憎み、月への復讐を誓う者の住む、この地球でなら。

 

雨はやまない。

月生まれの僕には初めての、雨に打たれる感触を楽しみながら、僕はにやりと唇をゆがめた。氷に閉ざされたはずのシベリアで、雪が雨に変わるようになっている。凍土は溶け始めているのだ。

凍土が少しでも溶けてやわらかくなれば、石油を掘り出すこともそう困難ではなくなる。ロボットとがんばれば、死ぬまでにめどくらいは立つだろう。

自分の考えに対する自信が、確信に変わる。

息子であり弟である遺体を埋めた場所を見つめて、僕はもう一度微笑んだ。

君のおかげで、僕は今までの自分の愚かさを知った。傲慢さ、醜さを知った。君の母親は、永遠に知ることはないかもしれないけれど、僕は君のおかげで命に優劣なんかないということを知った。

大丈夫、必ず生き返らせてやる。

その後は、僕を憎もうとレミーを憎もうと、好きにするといい。

もっともレミーはともかく、そのころには僕は死んでいるかもしれないけれどね。もちろん君の復活のことは、誰かに必ず頼んでおくから、今は、安心して眠るといい。

ただこれだけが、僕が君のためにできるすべてだ。

もしかしたら永遠に君へ聞かせることができないかもしれないから、今、これだけ言っておこう。さよならのかわりに。

息子よ、愛している。

index