オイルライターブルース
濃密な霧雨が、ねっとり絡みつく。ぐっしょりと湿った空気が街のあちこちをゆるゆる流れ、雨を避けたはずのバーの中にさえ入りこんでくる、憂鬱な夜。

カウンターの中では、マスターがひとり黙々とグラスを磨いている。さっきまで有線が50年代のブルースを聞かせてくれていたが、今はそれも止まっている。

あとは時折、カウンターの客がもてあそぶ、オイルライターの立てる金属音だけが店の中に響いていた。

キン!カチャ。キン!シュボッ……カチャッ。

カウンターには2杯のグラス。

灰皿には、口紅のついた吸殻。

置いてけぼり食らった、細身のガスライター。

グラスを磨く手も止めず、男をちらりとも見ないまま、マスターはぼそりとつぶやいた。

「今日は随分と大人しいな?」

男は黙ったまま、哀しげな笑みを浮かべる。

マスターはそれっきり黙したまま。

二人っきりの店内は、冷房が効きすぎて少し寒い。マスターはリモコンを手に取ると、温度を調節する。エアコンから吹き出す風が弱まり、男のタバコから立ち上る煙が踊るのをやめる。

キン!カチャ。

「俺さ、こういう店を持つのが夢だったんだ」

ライターをいじりながら、男が不意にかすれた小さな声を出す。マスターは、一瞬だけ男を見ると、黙ったまま視線をそらす。

それっきり、また長い沈黙。

キン!カチャ。キン!カチャ。

男はふと腕時計を見た。

その仕草をマスターは横目で見る。その時、女がひとり、店の中に入ってきた。

「時間だよ」

女がそう言うと、マスターは黙ったまま、カウンターの奥にあった大きな旅行かばんを持ち上げた。そして彼は、ポケットからキーを取り出すと、男に差し出す。男はそれを受け取ると、自分のポケットにしまった。

それから思い出したようにカウンターの上に手を伸ばし、細身のガスライターを手に取り、女に向かって差し出した。

「忘れモンだ」

女は黙ってそれを受け取ると、マスター、いや、さっきまではマスターだった、「自分の店を借金のカタに取り上げられた男」の腕を取って店の外へと消えていった。

ひとり残されて、この店を買い取った新しい主は、小さな声で呟いてみる。

「でもさ、本当に夢だったんだよ……」

夢を叶える最初の一歩が、この憂鬱な夜だった。

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