日記を書く男
高柳(たかやなぎ)は途方にくれていた。

車掌に揺り起こされて目を覚ましたら、あたりは真っ暗で、聞いたこともないような海っぺりの田舎町。

その真っ暗な駅舎に放り出されて、困惑と不安に包まれたまま、高柳は真っ黒な夜の海に向かって立ち尽くしている。

「このまま海沿いに歩いてゆけば、2キロ先に民宿がある。こんな時間だが、民宿のばあさんは親切だから、事情を話せば泊めてくれるだろう」

という車掌の言葉を頼りに、無人の駅舎を出てみれば、春の海から吹き付ける夜風は、まだ、かなり肌寒い。ぶるっと震えて両腕を抱えると、

「あぁ……」

魂の抜けるような、なんとも力のないため息をつく。

そして、高柳はとぼとぼと歩き出した。

 

高柳は疲れ切っていた。

走って走り続け、前を見て、上を望んでがんばり続けた人生。

しかし、齢40を迎えて、急にその人生に疑問を感じるようになってしまった。たまっていた疲労が一気に吹き出した、と言ってもいいかもしれない。

自分は何を成したのだろう?

そんな曖昧でつかみ所のない不安感に苛(さいな)まれるようになったのだ。

親の言うことを聞き、勉学に励み、一流大学から一流企業へと、まさに絵に描いたようなエリートコースを歩んできた。その今までの人生に、ふと、疑問を感じるようになったのである。

立ち止まって周りを見渡してみれば、世の中にはそういう生き方を否定する言葉が、あちこちにあふれている。

「本当の自分」「本当の人生」「あなた自身」「やりがい」

10年前なら一笑に付していたことだが、40を過ぎ人生の半ばになってみると、世の中に流布しているそう言った言葉が、やけに気になるようになってきたのだ。

そうして考えてみれば、確かに自分は社畜といってもいいほど、会社のために人生をささげてきた。

妻とはもう、10年近くもまともに向かい合って話をしていないし、息子や娘が何を考えているかなど、もはや宇宙人の考えを知るより難しい。

このまま働いて、定年を迎えたとき、自分はどうなってしまうのだろう?

そんな不安は日を追うごとに、心の中で居場所を広げてゆく。それは、単なる不安にとどまらず、もはや恐怖に近い思いとなって、高柳に襲い掛かってきた。

そう。

40年ものあいだ、無駄に過ごしてきたのではないか? という喪失感、疲労感は、並大抵のものではないのだ。

幸いにして今までの努力は、高柳を社会的に高い位置まで押し上げていてくれた。会社でもいくぶん余裕の出てきていた彼は、思い切って少し長めの休暇をとり、旅行に出かけることにした。

と言っても、気晴らしや気分転換。そんな悠長な旅ではない。旅に出たくらいで、これまでの人生を取り戻せるわけもないし、そんな期待もしていない。身体を休めるためでもない。

かと言っていまさら「本当の自分探し」などと、甘ったれた子供のような幻想を抱いているわけでもない。そんなことを言い出すには、少し歳を取りすぎている。

高柳は、ただ、逃げたのである。

現実の自分と向かい合うことから、逃げ出しただけなのだ。

しかし、それを誰が笑える?

「どれだけつらくとも、現実と向かい合って」

などと言う手垢のついた言葉は必要ない。

高柳は40年の人生を、まさにそうやって戦いながら生きてきたのだ。前を向き、上を見上げ、現実と戦い、勝利し続けてきたのである。誰にも、何にも恥じることはない。

だが、その勝利と思っていたことそのものが、何の価値もないと言われ始めているのだ。

いい大学に行って、いい会社に入ることが、そんなにすばらしいことなのか? 本当に生きるということは、そういうことではないのではないか?

エリートをやっかんだ者たちの負け惜しみ。そう言い切れない、笑って済ますことのできない説得力が、確かにその言葉にはあるのだ。

40年の人生を根底から揺るがされる。

それも、具体的な挫折や敗北ではなく、ただ、世の中に蔓延している、かつて自分が「負け犬の遠吠え」と一笑して来た言葉。そんな言葉に、いまさらながら揺らされている。

この事実は高柳を不安にし、傷つけた。それは彼のように一生懸命生きてこなかった者には、決して想像もつかない、深く大きな傷であった。

高柳は傷だらけの心を抱えて、北に向かう列車に乗る。

「 傷ついた心を抱えて、列車で北へ」だって? あまりと言えばあまりの選択だ。切符を買いながら、自分でも少し苦笑してしまう。だが、それでも明るいイメージの南へは向かいたくなかった。

そちらに行けば、きっと自分を傷つけた者たち、若く血気にあふれ、人生を謳歌し、自分の過ごしてきた40年を否定する存在、「若者」が多いはずだから。

長く休みを取るために、連日、少しばかり無理をしたのがたたったのだろう。高柳は列車に乗るなり眠り込んでしまった。 そのまま車掌に揺り起こされるまで、旅情とは無縁の眠りに落ちていたのである。

 

海沿いの暗い道を、とぼとぼと歩き続ける。

なんだか今までの自分の人生を象徴されているようで、やりきれない思いがあふれてくる。歩む速度も、自然と遅くなる。

「あぁ、なんだか疲れたなぁ……」

万感の思いを込めて、高柳はつぶやいた。

本当に疲れてしまった、抜け殻のような高柳の声は、夜風に乗って海へと漂ってゆく。

いっそ、このまま……

と。

海岸にポツンと明かりが見えた。

なんだろう? 目を凝らしてみると、どうやらそれは焚き火だ。海岸にテントを張って焚き火をしている者がいるのだ。ここいらの海は、焚き火が禁止ではないのだろうか?

そんなことを考えてから、高柳は苦笑して、その考えを頭から払いのける。そういう杓子定規の考え方をしているから、自分は40年もただ会社のために働いてしまったのだ。

自嘲と自暴が自棄を呼び、高柳はいつになく大胆な行動に出る。道をはずれ、焚き火に向かって歩き出した。

「道を外れる」という行動が、なんだか心地よく思えたことも、高柳の背中を押した要因のひとつと言えるかも知れない。

「こんばんは」

勤めて快活に、高柳は声をかけた。

焚き火に向かっていた男は、ゆっくりと振り向く。その姿を見て、高柳は少しだけ後悔していた。しかし、かけてしまった声は、いまさら戻せない。

男は薄汚いシャツとジーンズに身を包み、長い髪を後ろで束ねた、少々危ない印象のある……

いや、彼の傍らに鎮座しているもの語れば、簡単に説明がつく。

彼のテントのそばには、高柳には名前も見当がつかない、一台の大きな単車が荷物を満載して停まってた。つまり男はそういう類(たぐい)の人間だったのである。

「この寒いのに歩きかい? 焚き火、当たっていきなよ」

男は意外に人懐っこい笑顔を浮かべながら、高柳に向かってそばの浜を指差した。高柳は笑顔に安心した勢いで、うなずきながら焚き火のそばに腰掛けた。

「やるかい?」

なにを? と聞こうとして、男が差し出したものに気づく。バーボンのボトルだ。高柳は首を横に振りながら、申し訳なさそうに言った。

「私は、あまり呑めないんです」

「そうか。残念だな」

強引に勧められるかと思ったが、男はうなずいたきり二度と勧めようとはしなかった。会社の忘年会で、強引に飲まされたことを思い出しながら、高柳は安心してひざを抱えた。

この男は、 幾つなのだろう?

最初は単車に乗ってこんなことをしているのだから、若いのだろうと思っていたのだが、焚き火と月明かりに浮かんだ横顔は、存外歳がいっているようにも見える。

なんだ、意外と歳がいってるな。もしかしたら、私と同じくらいだろうか?

そう感じたため、余計に安心してしまった。 安心しすぎてしまったのか。 それとも焚き火の……炎の持つ魔力なのか。

高柳は知らず知らずのうちに、いろいろなことを話し出す。男は黙ったまま、時々うなずくだけで、聞いているのかいないのか。

それがまた高柳の気を緩ませ、高柳はいつの間にか旅に出るきっかけになった話にまで及んだ。

「だから、私はこのままでいいのだろうか? なんて考えるようになってね。これから先、こんな気持ちのままじゃぁ……」

「なあ、高柳さんつったっけ? ちょっといいかな?」

話している途中で、男の声が割り込んできた。なんだ? と言葉を切った高柳に向かって、男は淡々と話し出す。

「今日ってのはさ、今日を楽しむためにあるんじゃねえかな?」

高柳は思わず男の顔を見る。

「明日を思い煩(わずら)うために、今日があるんじゃないと思うぜ? 明日の楽しみや苦しみは、明日のために取っておけよ」

そう言って男は焚き火を見つめながら、ボトルをあおった。

(そんな簡単なモノじゃない)

出かかった言葉を飲み込んで、高柳も焚き火を見つめた。 ゆらゆらと楽しげに踊る炎を見つめながら、改めて考えてみる。しかし、思考は千々に乱れ、やがて同じところへ落ち着く。

(そんな、簡単なものじゃないんだ)

と。

「俺は勤め人じゃないけれど、もちろん、そんなに簡単じゃないことは判ってるよ。いや、わかってるつもりだよ」

心を読んだかのような男の言葉に、高柳は驚いて男を見る。男は相変わらず焚き火を見つめたまま、少し照れくさそうな顔で言った。

「だけど、そのいろんなことを飲み込んで、あんたは今のあんたになったんだろう? そのあんたを否定しちまったら、今までの人生も否定されちゃうぜ?」

「否定……すべきなのかもしれない」

自嘲気味に高柳はつぶやいた。

すると。

「冗談言っちゃイケねえ!」

男の大きな声に、高柳は驚いて男を見た。

「40年だぞ? 40年の時間がまるっきり必要なかったなんてコト、あるわけないだろう」

一番そう思いたいのは自分なのだ。しかし、男には言ってもわからないだろう。言葉に出しては、ひとことだけ答える

「私には、必要なかったのさ」

すると男はなにやら気色ばんで言った。

「あんたは前を見すぎて、上を見すぎて、今をちっとも見ていなかったんだよ。だから、「色々あった」のヒトコトですべて済ましてしまってるんだ」

「君と私は違うんだ。私の……」

「うん、確かに俺にはわからないよ? だけど、あんたが何も見てなかったってコトだけはわかる。俺もずっとそんな時期があったから」

「君が?」

自由奔放に生きているように見えるこの男に、自分との共通点がある? とても信じられない思いで、しかし興味を引かれた高柳は、黙って男の話の続きを待った。

「もすこし、過去を大切にしてみろよ。過去を振り向くばかりじゃ、確かによくないかもしれない。けれど、あんたがすごしてきた時間、「思い出」ってのは、やっぱりあんただけの大切な宝物なんだ。簡単に否定なんてするもんじゃない」

彼はまるで、自分の人生を否定されたかのように怒っていた。

それから単車の後ろにくくられたバッグをもぞもぞと探ると、一冊の薄汚れたノートを取り出した。

「俺は旅をしながら、こうして日記を書いているんだ」

ずいぶんとまた、野性味たっぷりのこの男には似合わない趣味だと、内心少しおかしく思っていると、男もそれを察したのだろう。照れくさそうに笑いながら、ノートをひらひらと振る。

「まあ、似合わないとはわかっているんだけどさ。こうしてつまらないことでも書いておくと、後で読んだときに凄く面白いんだよ」

「そうだろうね? だが、それと……」

「おっと、話しは最後まで聞くもんだ。いいかい? 俺も昔はあんたみたいに、自分のやってきたことに疑問を感じて、全部を投げ出したくなってしまったことがある」

「へえ」

「意外かい? でもな、あんたとは多分、正反対の生き方だったと思うけど、いや、だからこそ自信がなくなる時ってのが、あんたより早く来たんだと思うぜ? 周りの人間すべてに否定されるんだからな」

なるほど。確かにそれはそうだろう。少なくとも自分は、つい最近まで自分を否定されることはなかった。いや、否定する声が小さかったから、無視して生きてこられたのだ。

「それでさ、もう駄目だと思って、全部ひっくり返して一からやり直そうと思ったんだよ。普通に就職して、普通に生きてゆこうって。回りの人間との関係って言う観点で言えば、ドロップアウトしたままよりは、普通に生きるほうが簡単だからな」

「そりゃ、そうだろうね」

「ああ。だけど、そのときちょうど、近所で自殺した奴がいてさ。昔の同級生だったんだけど、そいつ、すげえ頭の良いやつでさ。驚いたのなんのって」

「……」

「でも、気持ちはわかったよ。あいつも俺とはぜんぜん違う道を歩いていたけれど、やっぱり悩んでいたんだなって。悩んで、全部イヤになって、それでいっぺんに清算しちまおうって考えたんだろう」

高柳はどきりとした。

「落ち着いてから焼香しにいったら、そこで、おふくろさんがさ……泣いてるんだよな。自分のせいだって泣いてるんだよ。俺、違うよって言ってやりたかったんだけど、言えなかった。そのとき思ったよ」

男は炎を見つめていた視線を高柳に向けると、驚くほど真剣な顔で言った。

「今までのことを全部ナシにして、新規巻きなおしなんていえば格好は良いけど、それ、実は逃げているだけなんだって。だってそうだろう? なにか、例えば絵でもいいや。それを描いてて途中で駄目だなって破って描き直したら、もしかしたらもっと良い絵がかけるかもしれないけど、描けないかも知れないだろう?」

「でも、描けるかも知れないんだし、構わないんじゃないかな?」

「うん、描こうって意思が強ければ、いつかは絵が出来上がる。だけど、そうじゃない奴もいるじゃないか。描きたい絵があるんじゃなくて、描いているって状況が大事なやつ」

「よくわからないな」

「う〜ん。そうだなぁ……つまりさ、描いて、破って、また描き直してる間は、絶対に失敗しないだろう? でも、描きあがったら、良いにつけ悪いにつけ、評価が与えられちゃうじゃないか。他人に見せなくたって、自分自身は少なくともわかるだろう? 描きたいように描けたか、それとも、失敗なのかって」

「うん、そりゃあわかるだろうね」

「だからさ、新規巻きなおしなんて言っている時って、たいがい失敗しそうだからやり直すわけじゃねえ? 作り上げてもいないうちに、なんとなく失敗しそうだから、ここらでやり直そう、今ならまだ間に合う、みたいにさ」

「ああ……そうか」

高柳がうなずくと、男はにっこりと笑った。

「な? それってさ、「今までの自分を勇気を持って見直す」ってのとは違うだろう? 先を読んで、その先を絶望視して、失敗したくないがためにやり直してるんだよ。やり直してるあいだは、失敗したとはいえないから」

「そうだね。周りの人間にも、「やり直してるところです」ってイイワケが立つしね」

「そう。でもな、それって実はぜんぜん違うんだよ」

「なにが?」

高柳はもう、男の話にすっかり引き込まれていた。

「今をちゃんと見ないで、先ばかり見ているから、ココまでなら簡単に来られるなんて思えるんだ。実際ソコまでたどり着くのに、どれだけのことがあったかなんて、すっかり忘れちゃってるんだよ 。だから簡単に「やり直す」なんて言えるんだ」

「そう……かもしれない」

「でもさ、実際に今自分のいるところまでたどり着くって言うのは、そんなに簡単なことじゃないんだよ。それを忘れちゃってるから、簡単にやり直すなんて言えるんだ」

「そう……だね」

「だろ? だから、日記なんだ。日記を書いていると、驚くぜ? 自分がどれだけ簡単に、今までのことを忘れてしまうかってコトに」

「そうなのかい?」

「ああ、そうさ。俺、日記を書き始めて10年になるけれど、この10年間の思い出って、今までで一番濃い人生を送ってる気がするよ。いや、実際は今までと何も変わっちゃいないのだろうけど、時々読んでみるたびに、ああ、この頃はこんな考え方をしてたんだ、この頃からもう、こういう考えは変わらないんだ、っていつも新しい発見がある」

高柳は黙ったまま、男の顔を見ていた。その瞳には、曇りもなく、不安や迷いもない。いや、あるのかもしれないが、少なくとも、それらを抱えて生きていってやると言う、強い意志が感じられる。

高柳はしばらくそうして、焚き火に照らされて浮かび上がる男の横顔を眺めていた。

それから、大きくため息をつく。同時に、いつの間にかいっぱいになっていた肩の力が、すうと抜けたような気がした。

今まで会社のために生きて、それ以外の何もなかったように考えていた。

しかし、そんなわけはないのだ。どれだけ会社のために生きてきたって、本当にそれだけなわけはない。

例えば、自分は結婚もして、子供もいる。そう言葉にしてしまえばそれだけのことだが、ソコに至るまでに、どれだけのことがあった? どれだけ喜び、怒り、泣いた?

簡単な言葉にして、ファイルにしまって整理して、心の奥底に名札をつけてしまってしまえば、それで終わりだ。

だが、きれいに整理されてなくとも、時々引っ掻き回して取り出し、眺めてみれば、また違って見えるかもしれない。

少なくとも40年の時間だ。思い出せるだけ思い出して、つれづれに引っ張り出せるだけでも、相当な量の思い出があるだろう。

それで何が変わるかはわからない。

何も変わらないかもしれない。

だが、自分の40年に誇りと自信を持つ。

それくらいはできそうだ。

そして、自分にはそれで充分だし、それが一番欲しかったのだ。

「なあ」

声をかけると、男はこちらを振り向く。

男の顔を見ながら高柳は、帰ったら妻と子供たちを連れて、もう一度旅行に出ようと思っていた。

そして今度こそ、本当に晴れ晴れとした気持ちになって大きな声で言う。

「やっぱり私にも、ヒトクチ飲ませてくれないかな?」

男は一瞬驚くと、嬉しそうな顔で、にっこりと笑いながらボトルを差し出した。


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