| 新しい恋 |
朝からの氷雨は昼過ぎころ、ついに雪へと変わった。 お気に入りのポルシェの中で、きよみは軽く舌打ちする。せっかく昨日洗車したというのに、これじゃあ洗車代が無駄になった。 もっとも、あの男から手切れ金代わりにもらったカードは50万上限の現金のほかに、ガソリン代や洗車代は別に使えるから、きよみの財布が傷むわけではない。 同じくきよみ名義で買わせたポルシェは、グリップの低くなった路面に何度もタイアを滑らせながら、それでも猛々しく加速してゆく。もちろん華奢なきよみでも乗れるオートマだから、クラッチを滑らせる心配もない。 ふと、寄り道したくなったきよみは、ポルシェを右折レーンに入れた。 キュキュキュキュキュッ! 後ろで鋭いスキール音がする。慌ててミラーを見ると、一台の単車が、ずるずるとリアタイアを左右に振っていた。きよみがウインカーもつけずに車線変更したので、パニックブレーキをしたのであろう。 何とか追突を免れた単車は、猛然とポルシェを追いかけてきた。単車の男は、右折レーンで停車したポルシェの左に単車を寄せると、ごつい皮のグローブをした手で、コンコンとサイドウインドウをたたく。 カラまれるようなら男友達を呼んでやろうと思いながら、きよみはウインドウを開けた。男に向かって、鋭い声をあげる。 「なによ?」 その高飛車な態度に、ヘルメットの下のほうから見えている男の口元がにやりとゆがむ。 「へぇ、ポルシェ乗りにもクソはいるかよ。たいがい面白くヤりあえる渋い奴が多いんだがな。ま、最近じゃポルシェ使いじゃなくて、乗っかってるだけのバカもいるから仕方ねえか」 それだけ言うと、男はリアタイアを派手に空転させて、あっと言う間に右折斜線の一番前に出てしまった。罵声を浴びせてくるとばかり思っていたきよみは、あっけにとられてポカンとする。 信号が赤に変わり、右折の矢印が出て前の車が動き始めたころ、ようやく悔しさがこみ上げてきた。きよみは普段、あまり男に見下されることはない。強烈な性格と、類まれなる美貌がたいていの男に二の句を告げさせないのだ。 もちろん今のことに限って言えば、悪いのは全面的にきよみである。女だから見下されたわけではなく、マナーの悪い運転で単車の男にブレーキをかけさせたのだから、面罵されても仕方ないトコロだ。 それは覚悟していた。その上でこちらを女と見て絡んでくるようであれば、男友達や、コネを使って荒っぽい男たちを集めてやろうと構えていたのである。性質(たち)が悪いといえば性質が悪いが、何度もいやな思いをしているきよみとしては、ある意味当然の処置でもある。
何度もつらい恋愛をして、きよみは大人になった。 もう、全霊をかけて誰かを愛することなんてないだろう。相手の気持ち、自分の気持ちをうまくコントロールして、上手に折り合いをつけることを学んだ。そうなってしまえば、世の中なんて楽に渡ってゆけるものだ。 恋愛以外のトラブルだって、周りが見えているから余裕を持って対処できる。交通事故を起こしてたとえ自分が悪くても、いきなり謝ることをしないのは訴訟社会の発達した国から入ってきた習慣だ。しかし、実に合理的できよみ好みの対処法だ。 だから自分が悪いのにああいった態度を取った。しかし、あの男は自分が事故らされたかもしれないということより、きよみがポルシェを操っていないことを蔑んだ。これがどうにもわからず、なおかつ腹立たしい。 とにかく自分が悪いのがわかっているだけに、逆に腹が立って仕方ないきよみは、アクセルを踏み込んで単車を追い始めた。強引な割り込みを繰り返しながら、どんどん前に進んでゆく。しかし、単車はなかなか見えてこない。 と、はるか遠くの高速入り口に、例の単車が入ってゆくのが見えた。 きよみはさらにアクセルを踏み込んで、あっという間に高速入り口に入る。ゲートをくぐったすぐのところで、男はヒップバッグの中に高速券を入れているところだった。 きよみは左ハンドル用のゲートをくぐる。ちょうどそのとき、単車が走り出した。まっ昼間の高速はガラガラだったので、きよみも思いっきりアクセルを踏み込んだ。ポルシェはずるずるっとリアタイアを滑らせた後、豪快に加速してゆく。 きよみは目を疑った。 単車は、べた踏みしているポルシェを置き去りにするかのように、きよみを上回る速さで加速してゆくではないか。ポルシェといえばスーパーカーの代名詞。現に今まで、たいていの車に遅れをとったことはない。 そのポルシェを簡単に置き去りにしてゆく信じられない単車の加速に、きよみは唖然とした。 それでも勝気な性格が、アクセルを緩めることをさせない。 今まで出したことのないハイスピードに引きつりながらも、きよみは猛然と単車を追ってゆく。時速200キロを超えたところで、単車との差が詰まり始めた。きよみはにやりと笑うと、単車のテールランプをにらみつけて、さらにアクセルを踏み込む。 高速コーナーや軽いわだちにハンドルを取られるので、きよみの腕には力が入りっぱなしになる。心臓がどきどきと早鐘を打ち、ずるりとタイアをとられるたびに、声にならない悲鳴をあげる。 何度も走った高速道路なのに、今まで直線だと思っていた場所がカーヴを描いてきよみに襲い掛かる。速度が違うと、これほど違った風景になるのか?ゆるいカーヴだと思っていたところが、まるで牙を剥いてこちらを飲み込もうとしているかのようだ。 白い雪がまるで弾丸のように、フロントグラスに突き刺さってくる。 長い直線に入って、ほっと一息つけるようになると、冷静に相手を観察する余裕が出てきた。そしてきよみはまた驚く。 単車は明らかにヨレていた。 ちょっとした拍子に後輪がうねうねとゆれているのが、ここから見てもよくわかる。男は単車に張り付いたまま、それでもアクセルを戻さない。雪のカーテンを切り開くかのように、男と単車は一体となって走ってゆく。 「バカじゃないの?怖さを感じる回路が切れてるんだわ」 と、つぶやきながら、きよみも同じ速度でついてゆく。 最初は、どこかで単車をぶち抜いてやるつもりだった。しかし、雪で視界が悪い上に、タイアは何度もすべる。カーヴというカーヴがすべて悪魔の笑い顔のように大口を開けている。とてもじゃないが、単車を抜くどころの騒ぎじゃない。なんとか離されないようについてゆくのが精一杯だった。 単車がウインカーを出してサービルエリアに入ったときは、正直言って胸をなでおろす思いだった。ほっとしたまま、きよみもサービルエリアに入ってゆく。そこで突然、きよみは凍り付いてしまった。 サービスエリアを入ってすぐのところは、単車、普通車、大型車で行く方向が違う。そんなことはわかっているつもりだった。しかし、今まで考えもしなかった速度で走りつづけてきたきよみの感覚は、完全に麻痺していた。 普通車とかかれた矢印の看板が、ものすごい勢いで迫ってくる。 慌ててブレーキを踏み込むと、矢印の道に沿ってハンドルを切った。とたんにタイアがグリップを失って、ポルシェはくるくると回りながら駐車スペースに突っ込んでゆく。 心臓が口から飛び出しそうになったまま、運転席できよみは悲鳴をあげた。フロントグラスに写る景色が、左から右へすごい勢いで流れる。ポルシェが止まっても、きよみは下を向いたまま、しばらく悲鳴をあげ続けた。
バルルルンッ! エンジン音がした後、サイドウインドウをコンコンとたたくものがいる。 顔を上げたきよみの目に映ったのは、ヘルメットをとった単車の男だった。真剣な顔で中をのぞきこんでいるが、スモークガラスのために中が見えないのだろう。男はコンコンと窓をたたきつづける。 きよみはドアを開けると表に出た。足がふらついて、思わず男につかまる。 「でーじょーぶか?駐車場がすいててよかったな?」 きよみは男の腕を振り払らうと、言い返そうとした。しかし、次の瞬間、自分ではどうしようもないくらい、身体がぶるぶると震えだす。両手で自分の腕を抱え込んだまま、ついに座り込んでしまった。 男はタバコに火をつける。落ちてきた雪がタバコにあたって、じゅっと音を立てた。数分してきよみの震えが治まってきたころ、男はようやく口を開いた。 「それが、死と隣りあわせの恐怖って奴だ。自分じゃどうしても止められないだろう?あんたの全身が怖がったんだよ」 きよみは顔を上げて男を見る。 「このあと、ポルシェを降りるか、乗るか、それとも「使う」かはあんた次第だ。もし、使ってやろうって気になったときは教えてくれ。いつでも相手してやるよ」 不遜なセリフながら、ある意味「生死をともにした」相手の言葉は、不思議と心地よくきよみの中に染み込んできた。ついさっきまで知らなかった世界の象徴が、きよみの前に立っている。 「どうやって教えろって?電話番号でも渡す気?それとも私が教えるとでも思ってる?」 そう言わせたのは、今まできよみが生きてきた世界の残骸だったかもしれない。セリフを言い終わる前に、男がそんなことをカケラも思っていないことを、きよみ自身がいちばん先に気づいていた。 男?女?そんなことは、この世界では関係ないのだ。 「毎週とはいかないが、土曜日ここに来ればまた会える」 男はそう言うと、単車のエンジンをかけた。そのやかましい排気音に負けないように、きよみは大声で叫ぶ。 「次は必ずぶっちぎるよ?」 男はそのセリフに、一瞬、目を丸くしてきよみを見つめた。それから心から楽しそうに大声で笑い出す。 「おまえも、ばかだなぁ?」 それだけ言いのこし、単車は小ぶりになってきた雪の中へ消えていった。その後ろ姿は、やはりこの世界の象徴だ。しばらく見送ったあと、くるりとポルシェに振り向く。 「……かもね」 つぶやいたきよみの顔には、微笑が浮かんでいる。きよみは、自分が恋をしたことに気づいたのだ。忘れていた情熱が、胸のうちをいっぱいに満たしてゆく。 もちろん相手は、単車の男ではない。 男なんかより、ずっと厄介な相手だ。 |