なんのために
「みなさん、もうやめてください。皆様のお気持ちだけで充分です。これ以上ご迷惑をかけるわけには参りません」

井上家の若い当主の一言で、歴史ある旧家の取り壊しは決まった。大レジャー施設を作るために一帯を買い取った企業に対し、工事の中止を求めて争っていた人々は、ついに敗北してしまったのである。

もっとも本当に残念がっているのは、各家に残った年寄りだけで、たいていの家では内心で安堵のため息を漏らしていたのである。

過疎化が進んだ貧しい農村を引き払い、便利な町の暮らしに移るのだ。それも、普通に売ったら二束三文のこの土地に払われる立退き料は、みなが考えていたよりもよほど莫大だったのである。

わずかに残った若者や子供たちは、当然のごとく立ち退きを決めたかった。しかし、なにぶん昔の風習が強く残る田舎のことなので、各家の当主である老人が首を縦に振らなければ、いかんともしがたい。

その老人たちはこの村一番の旧家であり、村の顔と目されている井上家の歴史的価値を盾に、企業側との全面対決を決めた。立ち退き劇は紛糾を極めたが、裁判所が出した「井上家の建物には歴史的価値を認めない」と言う結論を受けて、企業側が優勢になりつつある。

そこで村の長老達が井上家の当主である若き未亡人、井上優子を交えて話し合った結論が、先のセリフであったであった。

「若奥様は、失礼ながらよそのお方だ。旦那様が生きておられたら、きっとそんなことは許さなかったと思うがね」

そんな老人の言葉に、優子は黙って頭を下げる。

「宮の原さん、優子さんは若旦那が村の娘と駆け落ちした後、井上家を潰さないように独りで頑張ってきたんだ。お嫁に来られてたった五年で旦那に裏切られ、そのままここを出てゆくことだって出来ただろうに。そのことはあんただって充分わかっているはずじゃないか。優子さんは立派な井上家の当主だよ」

別の老人にそう諭されて、文句を言った宮の原は黙り込んだ。本当は彼だってわかっているのだ。ただ、長く暮らした村を立ち退かねばならない悲しみが、八つ当たりをさせたのである。

「それじゃあ、話し合いは終わりだな。みんなつらいだろうが、こらえてくれ。これも時の流れだ」

優子をかばった老人がそう言って、集まりはお開きになり、同時にこの村の歴史も終わった。

村の象徴であった井上家が失われてゆく様を、みんなは苦しげな表情で見守っている。誰ひとり口を開くものはいない。作業員たちによって、旧家は着々と取り壊されてゆく。

と。

「あ、井戸に……」

小さくつぶやいた優子の声に、何人かが井戸のほうを見た。作業員が取り壊された廃材を古井戸にぽんぽん投げ込んでゆく。それを見てひとりの老人が、大声で怒鳴った。

「おい!やめないか!その井戸はこの村にはじめて掘られた井戸なんだ。ずっと昔に水は出なくなってしまったけれど、それでもその井戸は、この村を生んだ母親なんだぞ!」

気の荒い作業員が、その声に腹を立てて怒鳴り返す。

「どうせ埋めちまうんだ。なに放りこんだっていいだろうが!仕事の邪魔をするな!」

「なにを!貴様ごときに何がわかるって言うんだ!」

見守っていた村人と作業員の間で、けんかが起きそうになる。優子はその様子を、蒼白になって見つめていた。

やがて騒ぎを聞きつけてやってきた現場の責任者が、話を聞いて作業員たちに命令を下した。

「今はエコロジーだ環境破壊だってんで、そう言うのがうるさくなってるんだよ。すまないけど、井戸に降りて投げたものを取って来てくれ」

ぶうぶう文句を言っている作業員の間を抜けて、優子が責任者の前に立つ。

「いいのです。この方の言う通りどうせ埋めてしまうのですから」

「お嬢さん。そう言うわけにも行かないのですよ。ぶっちゃけた話、私が知らないで埋めてしまっていれば構わなかったのですがね。さすがに知ってしまっては、見て見ぬ振りは出来ません」

「でも、そんなことくらいで大げさにしなくても。土に染み込んではいけない毒や薬を埋めるわけではないのですし」

「そりゃそうなんですがね。お役所ってのはうるさいんですよ。深い穴ならしっかり埋めておかないと、後でわかったら私は解雇されてしまうんです。お気持ちは嬉しいんですがね」

そう言うと責任者は作業員に指示を出した。

優子は呆然としたままそこに立っていたが、やがてどこへともなく姿を消す。そして、作業員は放り込んだものを引きずり出し、ついでに放り込んでいないものまでも引きずり出してしまう。

声を失ったみなの前に引きずり出されたのは、完全に白骨化した人間の遺体であった。

 

「結局、旦那は駆け落ちしたんじゃなくて、優子さんに殺されていたって事なのか?」

「そうだろうな。あのやさしそうな人がそんな事をするなんて信じられないけど」

「考えてみりゃ、優子さんは家を壊されることにも反対しなかった。埋められてしまえば、全て闇の中と思っていたんだろう」

「う〜む。井戸に放りこんだ廃材を取り出すって話のときも、ヤケに反対してたしな」

「ああ、やっぱりあの人がやったんだな。怖い怖い」

警察からの正式な見解は出されていなかったが、村の人々の見解は大体こんなところだった。

優子は今、警察に連れて行かれて事情を聞かれている。とは言っても、彼女は何一つしゃべろうとはしないらしい。うわさを聞いた村人は、なんとふてぶてしい女だろうと、怖気をふるった。

しかし。

やがて村中が震撼する。

なんと、見つかった遺体は優子の亭主のものではなかったのだ。それどころか、その遺体が亡くなったのは、優子がこの村に嫁に来る、はるか以前の話だというではないか。

急転直下、容疑の晴れた優子は、無罪放免となる。

彼女の帰りを迎え入れは村人たちは、ばつの悪い思いをごまかすために、だれかれなく優子にやさしくした。しかし、優子はそんな彼らに無表情のまま頭を下げるだけで、決して二度と心を開くことはなかった。

 

「結局、遺体は昔井上の家に勤めていた使用人のものだったんだろう?家財を盗んで逃げたってされていた」

「そうらしい。当時の若い長男が家の金を使い込んだことがばれるのを恐れて、使用人に罪をかぶせて殺したんだろうって事だ」

「考えてみりゃ、あたりまえだよ。あのやさしい優子さんに、人なんか殺せるわけがないじゃないか」

「そうだ、そうだ!あの人は旦那に裏切られ、それでも井上の家を守ってきたというのに、その上人殺し呼ばわりまでされたんだ。なんて気の毒なんだろう」

人殺し呼ばわりしていた当の本人たちが、口をそろえて手のひらを返す。誰もが優子に申し訳なく、ばつの悪い気持ちを抱いていた。

やがて工事は再開され、問題の井戸も大量のコンクリートの海に沈んだ。その様子を見届けた優子は、村人には行き先を告げずに、独り寂しく姿を消す。

優子がいなくなったことを知って、みなは哀れむとともに、内心では胸をなでおろした。優子を見れば罪悪感にさいなまれることになる彼らにとっては、むしろありがたいことだったのである。

そしてその彼らも、次々と村を去っていった。

 

南へ向かう電車の席で、優子はぼんやりと窓の外を眺めていた。後ろに向かって流れてゆく景色を見ながら、思い出をつむぐ。

彼女を裏切った夫と、夫を寝取った泥棒猫の思い出だ。

激情に駆られて二人を殺した後、遺体を埋めようと降りた枯れ井戸の底で白骨死体を発見したときは、本当に心臓が止まるかと思った。しかたなく、井戸のすぐそばにできるだけ深い穴を掘った優子は、そこにふたりの遺体を埋めた。

家の取り壊しの話が持ち上がったとき、これは賭けだと思った。だから反対もしなかったし、取り壊しの当日も、わざと井戸へみんなの注意を向けたのだ。

そして、優子は賭けに勝った。

願った通り、村人も警察も古井戸から出てきた遺体にばかり注目し、井戸の底を掘り返すことはしたが、井戸のすぐ脇に目を向けた者は、ただのひとりもいなかったのである。

夫と女の遺体は、コンクリートに沈んだ。上にはレジャー施設が建ち、二度と発見されることはないだろう。少なくとも優子が生きている間は。

しかし、彼女の心には何の喜びもない。

井戸があったあたりにコンクリートが流し込まれたのを見た後、優子は深い深いため息をついてその場を去った。心を持たしていたのは、喜びでも安堵でもない。

絶望的な虚しさだった。

いつ死体が発見されるかとびくびくしながら、家を守りつづけた不毛な日々。そして、朝起きてから夜浅い眠りにつくまで、常に強いられた緊張の日々。

「私はいったい、何のために生きてきたんだろう?」

生気の感じられない、魂の抜けたような声でそうつぶやいた優子の顔は、信じられないほど老け込んでいた。

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