| ある神話 |
丘の上で男は風に吹かれている。 真っ白な肌で心地よい風を感じながら、男は何かを待つように超然と立っている。 約束の丘の上で。 みゆきはまさひろと食事をしていた。みゆきの誕生日と言うことで、いつもより張りこんだまさひろが、最高級ホテルのレストランを予約しておいてくれたのだ。 食事がひと段落したところで、まさひろはポケットから小箱を出す。もちろん、給料3ヶ月分の指輪だ。予感があったとはいえ、やはり感激に涙が出てくる。黒いワンピースのすそをぎゅっと握って、みゆきは懸命に涙をこらえた。 近くのバーに行こうと言うまさひろに連れられて、二人はいったんホテルを出る。店はガラスに覆われた、大人っぽいジャズバーだった。慣れた様子で店に入ってゆくまさひろを頼もしく思いながら、みゆきは有頂天だった。 バーに行っても結局は二人だけの世界を作ってしまうのだから、どこでもいいようなものだが、やはり的確なロケーションを設定してもらえると言うのは嬉しいものだ。 二人はバーのボックス席に入り、マティニで乾杯する。 幸せな時間がゆったりと流れてゆく。 と。 バルルン!ガシャーン!バルルルル! 突然起こった状況に、店中の人間が唖然とする。もちろん、みゆきとまさひろも。 店の前に大きな単車が止まり、降りてきた男が店のガラスを割って中に入ってきたのだ。薄汚れた革ジャンと革パンツは、この男がみゆきの住む世界から一番遠いところにいる事を表している。 怒声をあげて近づいてきた店主を片手の一撃で黙らせると、男は店の中を見まわす。驚きに固まる店内の人々を吟味する様に、ひとりひとりにらみ付けてゆく。 ゆっくりと動いていた男の視線が、みゆきの上で止まった。厳しい表情が少しだけ弛んだように見えた。と、男はみゆきに向かって近づいてくる。 みゆきに近づいてくる事に気づいたまさひろが、驚愕の目で振り向いた。みゆきは何がなんだかわからないと言うように、大きく首を横に振る。 「なんだおまぇぐぁっ!」 立ちふさがったまさひろを片手で掴みあげた男は、そのまま荷物でも放るように、店の隅へ投げつけた。カエルが潰れるような不自然な音を立てて、まさひろは沈黙してしまう。 男はみゆきの前に立つと、右手を差し伸べた。みゆきは驚きと恐怖ですくんでいる。 「迎えに来たよ」 意味不明のセリフに、みゆきは後ずさる。その様子を見て、男は哀しそうな瞳をすると下を向き、聞き取れるかどうかの小さな声で言った。 「またか…今度もダメなのか?」 それから意を決した様に顔を上げると、今度ははっきりと聞こえる大きな声で言う。 「待っている。約束の丘で」 男はそれだけ言うときびすを返し、店の外にあった単車に跨って走り去ってしまう。 みゆきはいつまでも震えていた。
丘の上に立つ男の周りを、いつのまにか警官隊が囲んでいる。遠くを眺めながら風に吹かれていた男は、その気配に気づいて囲んだ警官隊を眺めた。 「やはり、ダメか」 その声は絶望にあふれ、かすれて震えていた。そのまましばらくがっくりと肩を落としていた男は、やがておもむろに顔を上げる。その顔にはヤケになった開き直りの諦めと、残虐な怒りが見え隠れしている。 「さて、それじゃあひとつ、暴れるとするか」 言い放ったときには駆け出していた。 慌てて身構える警官に向かって、全身の力を解放する。信じられないような膂力から放たれるそのこぶしは、一撃で警官を数メータもふっ飛ばした。 二十人はいた警官隊が、あまりの力に一瞬動きを止める。止めたそのスキに、あと二人が宙を舞った。ようやく彼我の力の差に思い当たった警官隊は、もたもたと拳銃を抜く。 しかし哀しいかな発砲の許可を貰わないうちに撃つ事になれていない警官達は、拳銃を構えたまま拡声器で威嚇するだけであった。そのうちにまた二人が肋骨と大腿骨を折られて転がる。 誰かが威嚇射撃をした。その銃声がスウィッチになって、パニックになった警官たちは一斉に男へ向かって発砲した。百発近い銃弾が男の身体に撃ちこまれる。 男はもんどりうってその場に倒れた。弾の入っていない拳銃の撃鉄をカチカチと鳴らしていた警官達は、そこでようやく冷静さを取り戻し、男の骸(むくろ)に近づいてゆく。 と、彼らはその場に凍りついた。男の身体が目の前で見る見る小さくなってゆくのだ。どうしようとオロオロしているうちに、男はついに消え去ってしまった。 あとには、革ジャンと革パンツが残されているだけである。結局、穴だらけになったそれらの証拠品を抱えて、報告書の内容に頭を痛めながら、警官隊は去っていった。
誰もいなくなった丘の上に、血のように赤い夕日が差している。 しばらくして、夕日に赤く染まった丘の上に、みゆきが姿をあらわした。男が倒れていたあたりに立つと、そっとささやく。 「ばかね。なんで警官たちはあなたがこの丘にいる事を知ったと思うの?私が教えたからに決まっているでしょう?私がこの丘を教えられたと言うのは、全てを思い出したからに決まっているじゃない。恐怖から冷めたあと、だんだん思い出してきた私は、やって来た警官にこの丘を教えたの」 それから少し悲しそうな顔をして、ため息をついた。 「もう、疲れちゃった。あなたといっしょに帰るわ」 そう言って少し意地悪そうに笑うと、誰もいない空間に向かって話を続けた。 「どれだけ知らん振りをしても、あなたは私の前に現れてくれた。それは本当にうれしいわ。でもね、もう少し女心ってものをわかってくれないかなぁ?あのまさひろとまでは言わないけれど。大事なときほど、女はドラマティックな演出が欲しいものなのよ?」 微笑みはやがて、楽しげな笑顔に変わる。 「まあ、あなたにそう言うのを求めても、無理なのはわかってるけどね。結局、獣なんだから。だから少し意地悪して、警官隊を差し向けたのよ」 そう言うと腕を組んでぐっと背中をそらし、大きな声で叫んだ。 「そろそろ出てきなさい。もう千年待たされたいの?」 みゆきの言葉と同時に、あたりの空間が風を巻き始めた。空気中の水分が凍り始めたかと思うと、見る見る形を整えてゆく。数秒後、男が雪のように真っ白な肌を露出したまま、嬉しそうな笑顔で立っていた。 「やっと会えた」 何かひとこと意地悪を言ってやろうと思っていたみゆきは、その幸せに満ちあふれた微笑みに負けた。ゆっくりと男に近づいてゆく。男は両腕を広げたまま、この上なくやさしい微笑でみゆきに言った。 「会いたかった」 屈託のない男のセリフに、長い長い時を経た、いろんなしがらみから開放されて、みゆきは心から笑った。 「お待たせ。せっかちなユキオトコさん」 数千年前、この国を守ってきた神々は、丘の上で離れ離れになった。 人間がだんだんと力を増し、神々の住む場所が失われてゆく事に怒り、嘆いた神々は、この国を見捨てて神々の住まう場所に帰っていったのだ。 それからのこの国の、争いに満ちた歴史は、あなたのほうが詳しいだろう。 とにかくそんな中でも、特にこの国を愛していた神々、水を司(つかさど)る神々だけはこの国の人間を見捨てずにいてくれた。この国が水に恵まれている理由である。 水を司る神々ふたりは人間に紛れ込んで、何とかほかの神々が帰ってきてくれるような社会を作るために奔走した。そして百年ごとに待ち合わせては、お互いの働きを報告しあっていたのだ。 しかしこの国の人間は、なかなか誤った道を正そうとはしなかった。男神はついにあきらめ、千年前、神々の国へ帰ろうと言った。女神はそれでもあきらめずにがんばると言った。 男神はそれ以来、百年ごとに現れては女神を説得しようとしたのだが、女神はそのたびに断りつづけ、ついには男神のことを忘れるようにさえなった。それほどこの国を愛してくれていたのである。 そして女神のこの国を思う気持ちと同じくらい、男神も女神を愛していた。女神が自分を忘れていることをわかっていても、男神は百年ごとに女神を迎えにきたのだった。 そしてついに、女神は男神の前に姿をあらわした。 それがこの国を救えると確信したためか、この国を見捨ててしまったためなのかは誰にもわからない。 だが、男神にとってはどうでもいいことだ。愛する女神が自分の元へ帰ってきてくれるのだから。 千年のときを経て、ふたりは抱き合う。 空にはいつのまにか、祝福の雪。 |