マインドハッカー
由美子は声をかけられないでいた。

確かにその男は、約束に時間に約束の場所にいる。だが、どう考えても、その男が約束の人物だとは思えないのだ。しかし、彼のほかにその場所には誰もいない。

由美子はしばらく逡巡していたが、やがて意を決すると、その男に近づいて声をかけた。

「あの……小早川さんですか?」

大きな単車のシートに横向きに腰掛けて煙草を吸っていたその男は、気のなさそうな様子で由美子に目を向けると、ゆっくりとうなずいた。するとやはり、この男がそうなのか。

由美子は驚きを隠して、頭を下げた。

「私、中森先生にご紹介をいただいた、高崎由美子です」

「小早川博史だ。何もそこまで緊張することはないよ。取って喰いやしないから」

小早川はにっこりと微笑みながら、冗談を言う。その微笑に少し安心して、由美子も思わず破顔した。

「ごめんなさい。思っていたイメージと少し違ったので、戸惑ってしまって。精神科の先生だとばかり思っていたものですから」

「ああ、気にしないで。よく言われる。もちろん俺は精神科医じゃないよ。見ての通り、ただのチンピラさ」

そう言う小早川の格好は、たしかにドクターには見えなかった。

真っ白い麻のだぶだぶのズボンを少年がやるように腰で穿(は)き、上半身はこれも真っ白い、ぴったりとしたタンクトップ。ぼさぼさの長い髪は銀色に染められ、レイバンのサングラスをかけて大きなバイクに腰掛けている。足元はサンダルのような形の黒いスニーカ。

チンピラと評した本人の評価は、かなり正確だと言えよう。

弟とは正反対の人種だ、と由美子は思った。

由美子は弟のことで、ずいぶんと長いこと悩んでいた。

彼女の 弟は、両親の期待に沿うため、周りの期待に応えるため、真面目一本やりで生きてきた。そして両親もそれを当然のことと、彼を叱咤激励し、応援した。

高崎の家は代々、医者や学者などの優秀な人間を輩出してきたという矜持が、両親に子供への過度の期待を持たせたのだろう。

もちろん由美子も高崎の名に恥じぬよう、優秀な成績を修めた。

そして弟も二年前、姉の後を追って見事、最高学府に入学を決めた。両親や周り、由美子ももちろん喝采を送った。

しかし、弟の心は、ずっと不安定だったのだろう。

入学を境に一人暮らしを始めてわずか半年で、彼は周りの誰もが思いもよらない道を選ぶ。

栄光の世界という、宗教団体に入信したのである。

栄光の世界は、それほど過激な宗教団体ではない。お布施を集めることを目的とした、詐欺のような似非宗教団体ではなく、比較的真面目に宗教に取り組んでいる。

もっとも、今のこの国にそれほど過激な宗教団体が存続できるわけもないが。

それでも、周りの人間は、そろって眉をしかめた。

この国の人間は、かつておきたあるカルト宗教団体の事件以来、新興宗教団体に対して、過敏なほどの警戒心を持っているから、それもまあ、ある意味当たり前の反応だろう。

しかし、すでにかなりのめりこんでいた由美子の弟は、その反応に対して怒り狂った。

教祖様の語る真理は、実にすばらしい。 これほどすばらしい考えを、どうして理解できないのだ?

最高学府に入ることができたと言う自負、常に高い評価を得続けた誇りが、彼に周りの人間を、無知で無学な愚か者に見せたとしても、ある面では仕方なかったかもしれない。

彼はますます宗教活動にのめりこみ、ついに先月、せっかく入った大学を休学せざる得なくなっていた。本人はもはや大学で学ぶことなど何もないと言い張っていたが、両親が学校に頼み込んで、休学扱いにしてもらったのである。

両親は心労で見る見る衰えてゆく。

たまりかねた由美子は、大学時代の恩師でもあり、現在最も最先端の精神科医でもある、中森教授に相談を持ちかけた。由美子はこの教授の元で、色々なことを学んだのである。

教授は時に父であり、時に友人であり、由美子を導き、支えてくれたひとだ。そして優秀な精神科医である。弟のことを相談するには、教授以外に考えられないだろう。由美子はそう判断して、教授の元を訪れた。

すると教授は、いつもどおりのやさしい笑顔で由美子を迎えてくれた。由美子はその笑顔を見て、ああ、これで安心だと、体中の緊張がほぐれる想いだった。

教授は多忙な人であったが、それでも由美子のために、自分は忙しくて相談に乗ってやれないが、優秀な人間を紹介するといってくれたのである。由美子は彼の言うがまま、紹介された人物と会うことになった。

それが目の前の男である。

「まあ、格好は俺の趣味だし、仕事には何の関係もないから、気にしないでくれ」

はあ、と微妙な表情でうなずいた由美子に、男はにやりと笑って言った。

「どうも、信用できない? まあ、精神科のお偉方ばかり見てたら、それも仕方ないかな」

「いえ、そんな……」

「とりあえず、話を聞く前にデモンストレーションしたほうがいいかな?」

「デモンストレーション?」

「そう、俺がどういう技術を持っているか」

由美子は男の言っている意味が図りかねて、少し警戒しながら聞いた。

「あなた、何者? なにをしようって言うの?」

小早川はニコニコと笑いながら答える。

「俺か? 俺はマインドハッカーだ。その力を見せるって言ってるのさ」

由美子はつられて反射的に微笑みかけた表情を、そのまま凍りつかせた。

 

マインドエンジニアと呼ばれる職業がある。

簡単に言えば精神科医と催眠術師を足して2で割ったようなものだ。

主な仕事は治療としての暗示や、催眠。精神科医がその道の研究者だとすると、彼らは技術だけを特化したプロフェッショナルである。

会話を武器に精神病と戦う、その最前線の専門家だ。技術的には、下手な精神科医を凌駕する者も数多くいる。

21世紀半ばに登場したこの職業は、精神的疾患が爆発的に多くなっている現代の風潮と言う追い風を受けて、瞬く間に人々に認知された。

ところが驚いたことに、彼らの需要は、実は、精神医療よりも他の業界に多かった。大企業の多くが、彼らの技術をいち早く評価し、欲しがったのである。

理由はいうまでもないだろう。新入社員の教育や、株主総会での心理操作、社畜と呼ばれるイエスマン社員の製造など、彼らの能力が必要とされる機会は、実に多いのだ。

多くのマインドエンジニアが高額の報酬で引き抜かれ、患者の治療のために学んだはずの知識を、企業や政府のために一般人を操るテクニックとして使うようになった。

医療現場で働くマインドエンジニアは、彼らを邪道として忌み嫌い、軽蔑した。逆に彼ら自身は、技術力で彼らを下回る場合の多いマインドエンジニアたちを蔑み、誇りを持って自らをマインドハッカーと呼んだ。

これがマインドハッカー誕生の経緯である。

そんなアウトローの多いマインドハッカーの中でも、特に危険視されるのが、洗脳や、洗脳はずしを専門とする者たちである。

彼らはマインドハッカーの中でもトップクラスの力を持つものが多いが、彼らのクライアントの多くが宗教団体や、政府筋など、金に糸目をつけない連中であるため、その技術に対する尊敬と同等の、軽蔑や畏怖で迎えられる。

 

化け物を見る目つきで、由美子は男を見た。精神をいじる専門家、それもアウトローとかアンダーグラウンドと言われる部類の人間である。警戒するのも仕方ないことだ。

と。

小早川はニコニコ笑いながら、穏やかな低い声で喋りだす。

「そうだよ。俺は精神のプロフェッショナルだ。それも、超がつく部類だと自負している。君の考えてることなんて、だいたい見通せるぜ? ほら、その目だよ」

由美子が思わず顔に手をやると、今度は先ほどより少し抑揚の強い声が、するりと彼女の耳にもぐりこんできた。

「俺が笑いかけたとき、君の瞳は心持ち開いた。そしてマインドハッカーだとわかった瞬間、まぶたが少しケイレンした。君は心の中が目の周辺に出るタイプだね。気をつけたほうがいい。いや、そんなことをいうと余計に気になるかな? まあ、気にしないで。右のまぶたのケイレンのコトは忘れてくれ。ほら、またケイレンした。気にするなってば。気にすると余計におかしくなるんだ。意識しないことが大切だよ。意識しないで。気にしちゃだめだよ」

もちろん、由美子のまぶたはケイレンなんてしていない。しかし、気にするなを連発されるうちに、なんだか少し、右のまぶたがケイレンしているように気になってくる。

そんなはずはないと由美子は強く瞳を閉じた。閉じた瞬間、小早川は由美子に顔を寄せる。目をあけた由美子は、目の前に顔が迫っているのを見て、驚いて後ずさった。そのまま彼の顔を凝視する。

小早川は彼女の目を見ながら、探るようにその瞳を見返していたが、やがて少し強い早口で追い討ちをかけた。

「気にするなって。大丈夫だ、ケイレンは止まる。そうして強く力を入れてしまうと、余計にケイレンしてしまうんだ。リラックスだ。だいじょうぶ、リラックスして右まぶたのことは忘れるんだ。リラックス。リラックス。力を抜いて、心を穏やかに、あわてるな」

驚いたところに、リラックスリラックスと畳み掛けられて、由美子の身体にはますます力が入ってゆく。いまや、右のまぶたはわずかだが、明らかにケイレンしていた。由美子は自分のまぶたが痙攣していることに気づき、さらにあせる。

小早川の声はだんだん大きく強く早くなってゆく。

「ダメだ! そうやって力を入れたら、今度は左目がおかしくなるぞ? ほら、言わんこっちゃない。左目まで力が入ってきた。あせるな! あせるとケイレンしだすぞ! あせらずリラックスして身体の力を抜くんだ! ほら、右だけじゃなく左までケイレンしだした」

あっという間に、由美子の両まぶたはケイレンを始める。

「ああ、ふさがる。ふさがってしまう。瞳の周りの眼輪筋に異常に力が入ってきた。そのままじゃあ、まぶたが完全にふさがって、何も見えなくなってしまう。何も見えなくなるんだ。見えなくなる」

徐々に下がってきたまぶたは、いまや完全に閉じてしまった。

由美子はパニックにちかい状態になる。

そこで急に、小早川の声がこれ以上ないほど優しく、穏やかになった。

「大丈夫」

由美子はぴくんと身体を震えさせる。ゆっくり、穏やかに、小早川は声のトーンを落として由美子に話しかけた。

「俺の声を良く聞いて。俺の声を聞いて。わかるね? 大丈夫だ。ね? 大丈夫だろう? 俺の声は聞こえるね? ほら、もう大丈夫。何も怖くない」

由美子は唐突に失った視力の代わりに、耳から聞こえる小早川の声に全神経を集中する。男の声は穏やかで、低く、安心感に満ちている。

「聞くんだ。今から俺が君の手を握る。驚かないで? 握ったら、その手の感触だけを考えて。いいかい? それじゃあ、握るよ?」

小早川の手が、由美子の手を握った。由美子はその手を握り締める。

「そう、強く握ってごらん。そしたら次は、その力をゆっくりと抜くんだ。出来るかい? ああ、できたね。じゃあ、もう一度。そう、力を入れて。そうだ。それじゃ力を抜いて……うん、そう。ほら、君の身体は君の思い通りに動くだろう? ああ、ケイレンも止まってる。これで大丈夫。もう、目を開けられるよ」

由美子は恐る恐る目を開ける。

「あ……見えた」

呆けたようにつぶやく彼女を眺めて、小早川はにやりと笑いながら、ゆっくりと両手を彼女の顔の前まで持ってくる。

ぱん!

目の前で両手を打った。びくんとした由美子に向かって、小早川はニヤニヤ笑いのまま片目をつむる。

「とまあ、こんなところか」

一瞬ぽかんとした後、彼女は自分を取り戻した。なにがあったのか、ここでようやく彼女は理解した。同時に、急速に怒りが湧き上がってくる。ほとんど無意識に、平手打ちをしようと右手を動かした。

その瞬間、絶妙のタイミングで、小早川が顔をしかめた。

「ひっぱたくのは勘弁してくれないか?」

先読みされて思わず動きを止めた由美子は、さらに怒りに燃えると、今度は明確な意思を持って、彼に平手打ちを放った。

ばし!

殴られた小早川は、それでもニヤニヤ笑いをやめずに言う。

「ま、これでおあいこってトコかな? じゃ、仕事の話を始めよう」

そのとぼけたセリフに、由美子は怒って声を荒げる。

「冗談じゃないわ! なんでこんなことをするのよ!」

由美子の剣幕に小早川は小鼻の横を掻きながら、ふふんと笑って言った。

「あんたぁ、俺を信用してるか?」

「してるわけないでしょう!」

「だろうな。もちろん俺もしていない。だとしたら、考えうる限りの安全策をとるのは当たり前だろう? 違うか?」

「まあ、それは……でも……」

「俺はあんたを信用していない。それはあんたという人間だけじゃなく、もしかしたらあんたの後ろに居るかも知れないやつらも含めてだ。俺には、あんたが本当に弟のことで相談しに来ただけなのか、それとも俺の敵が放った連中なのか、わからないんだからな。だとしたら、あんた個人だけじゃなく、あんたに仕込まれたマインドボムを警戒するのは当然だろう?」

「マインドボム……」

「聞いたことがないわけじゃあるまい?」

小早川の嘲笑に、由美子は唇をとがらせる。

「バカにしないでよ、後催眠のことじゃない。私に後催眠をかけて、あなたが言いそうな言葉をキーワードにする。キーワードが言われた瞬間、私があなたを襲う。そう言うことでしょう?」

中森教授を恩師と呼ぶことからもわかるように、彼女も精神医療を勉強していたことがある。当然、その言葉くらいは知っていた。

「それはいちばん単純な例だが、まあ、そういうことだ。催眠で無意識のリミッターをはずされたら、例えあんたが女で素手でも、こちらが殺されることは充分にあり得る。火事場の何とかってヤツだな。俺はそれを警戒して、あんたに後催眠をかけられた兆候がないか、スキャンしたんだ」

「スキャン……」

「そうだ。マインドボムを仕掛けられた者は、当然催眠をかけられたこと自体を忘れている。しかし、それでも独特の兆候を示すモノなのだ。どれほど技術のあるエンジニアでも、その兆候を完全に消すことは出来ない。少なくとも、俺の目をごまかすのは絶対にムリだ」

「あなたにはそんなに敵がいるの?」

「まあ、両手両足の指じゃ追いつかないね」

「マインドハッカーって危険な仕事なんだ?」

その言葉に小早川は、肩をすくめて答える。

「まあ、俺の場合、性格的もに問題があるんだろうな。つい余計なことを口にしては、つまらない敵を増やしてばかりいる。他の連中は、もう少し穏やかに仕事しているんだろうが」

「でしょうね。わかる気がするわ。その敵のリストに、私の名前も加えておいていいわよ」

「冗談だろう? あんたに俺の敵になれるほどのスキルがあるとは思えない」

小早川は鼻で笑う。由美子はその様子に、一瞬また怒りを感じたが、それでも怒りを押さえて、大きくため息をついた。

「判った。とりあえず今回に関しては、許します。でも、今度やるときは事前にそのことを教えて欲しいわね。あなたくらいの腕前があれば、たとえ被験者が知っていたって、スキャニングくらい出来るんでしょう?」

小早川は黙ってうなずいた。

「あと、それから」

「なんだ?」

「私の名前は、高崎由美子。あんたあんたって気安く言わないで」

小早川は一瞬唖然とした後、苦笑しながらうなずいた。

 

それから二人は、近くの喫茶店に向かった。

そこで差し向かいに座り、由美子はコーヒー、小早川はなんとビールを注文する。由美子は驚きあきれ、言葉を失ってしまう。この男は本当にやる気があるのだろうか? 弟をこんな男に任せて、大丈夫なのだろうか?

不安と怒りに駆られて、しばらく小早川を睨んでいた由美子は、それでも気を取り直すと、大きくため息をつき、弟についての情報を事細かに話し出す。

小早川は腕を組んだまま、黙って由美子の話を聞いていたが、すべて話し終わると低い声で喋りだした。

「栄光の世界については、俺も少し調べたことがある。別件の話だが。あそこはまあ、それほどひどい団体じゃないと思うぜ? お布施を強要することもないし、確かに信者の多くは若者だが、まあ、健康的といってもいい部類だろう。洗脳、少なくとも俺が借り出されるような、過激な洗脳をしてるとは思えないんだが」

「弟は、明らかにおかしい。いえ、あの教団は絶対に裏があるわ。両親もそれを心配して、私に何度も面会に行かせた。だけど、弟は会ってもくれない。あの子が私に会いたがらないなんて、絶対におかしい。あの 子には私の助けがいるのよ」

由美子は表情を硬くして言った。その顔は、何の迷いもなく、決然としたものだ。しかし、言っているのは感情論でしかない。小早川は心の中で軽く舌打ちすると、相手に喋らせることした。

「何でそう言えるんだ?」

「身内が言っているのよ? 間違いないでしょう?」

「不十分だな。俺が人間的に信頼できないのは構わないが、俺もプロだ。きちんと情報を与えてもらいさえすれば、それなりの打開策、少なくともあんた、いや、高崎さんが納得できるだけの策を立てることは可能だ」

「客観的な証拠が必要ってこと?」

「そうだ。むしろ、弟さんと会わせて貰えれば、いちばん簡単だな。必要なら、その場で洗脳外しをしてやる」

「わかったわ。そういうだろうと思って、面会の予約は取り付けてあるの。もっとも、弟が会ってくれるかはわからないけれど」

小早川はにやりと笑った。

「そいつは話が早くていい」

店を出ると、小早川は由美子に向かって笑いかけた。本人は割合普通に笑ったつもりだろうが、どうしても嫌味っぽくなってしまうのは、人徳のなせる業といったところか。

「俺を抱きしめるのはイヤか?」

「は? なにを言っているの?」

由美子の言葉に、小早川は黙って自分の単車を指差す。

「これに乗っていくってこと?」

「怖いか? いやなら電車かタクシーで向かってくれ。栄光の世界の総本山はわかってるから」

由美子はしばらく考えて、肩をすくめた。

「いいわ。乗っていく。ヘルメットはあるの?」

「へえ、乗ったことあるんだ?」

単車に乗ったことのない人間が、即座にヘルメットまで気を回すことは珍しい。

「そりゃあるわよ。これでも一応、普通の青春を送ってるんだからね?」

「御見それしました」

小早川は由美子が単車の後ろに乗ったことを確かめると、ゆっくりとクラッチをつないだ。大排気量の単車は、地鳴りのような排気音を上げながら、その巨体をするすると進める。

「上手じゃない。前に乗ったときは、後ろに転げ落ちそうになったわ」

「こう見えても紳士なんだ。それにまあ、こいつにはバックレストがあるからな。落っこちる心配はないさ」

単車の後部座席にある背もたれを指して、小早川は笑う。

思ったよりも楽な乗り心地に、由美子が感心していると、小早川の単車は国道に出た。そこからは、先ほどの言葉をすべて撤回したくなるくらい、車の間を縫いながら、恐ろしいスピードで走ってゆく。

強がった手前、悲鳴を上げたり弱音を吐くわけにも行かず、由美子はただ小早川の身体につかまって目を閉じていた。

苦行は比較的早く終わり、ふたりは栄光の世界の総本山の前にたどり着いた。

単車を降りると、足がふらつく。由美子は思わず小早川の腕にしがみつき、あわてて離れると文句を言った。

「ずいぶんな紳士だこと」

「ああ、あれは単車に乗ってるとき以外の話だよ」

あきれた由美子が文句を続ける前に、小早川はすたすたと門の中へ入っていった。受付らしきところで何事か話している小早川を睨みながら、由美子は小さく舌打ちした。

「最低!」

 

案内された応接室らしきところで、ふたりは由美子の弟が来るのを待っていた。品のいい器に煎れられた玉露が香ばしい。

そう思って何の気なく湯飲みに手を伸ばしたところを、小早川に止められた。

「目の前で煎れたとしても、俺なら出された飲み物に、安易に口をつけたりしないがね」

あわてて手を引っ込めてから、やはり面白くないのだろう。由美子は皮肉な表情で小早川突っかかる。

「でもあなた、この教団に危険はないって言ったじゃない」

「まあな。だが、慎重にしておいて損はない。わずかのリスクでも可能性があるなら、回避するに越したことはないだろう。それでも呑まなきゃいけないほど、のどが渇いてるわけじゃないんだから」

言うことは筋が通っているのだが、いちいち嫌味っぽいのが癇に障る。由美子は引っ込めた手を膝に置くと、黙ってそっぽを向いた。

と。

応接室の扉が開く。

「お連れしました」

案内にいた女性が入ってきた。その後ろには若い男が、信者の着物であろう作務衣(さむえ)のような形の白い服を着て立っている。理知的な顔をしているが、表情は硬い。

「たかひろ……」

由美子は思わず声をかけた。しかし言われた青年の方は、彼女をまったく無視して、応接室のソファに腰掛けると、小早川に向かって挑戦的な視線を送った。

受けた小早川の方は涼しい顔で、案内の女性に微笑みかける。

「席を外していただけませんか?」

女性は一瞬逡巡したが、黙って頭を下げると退室した。

「たかひろ!」

由美子の声にはまったく反応を見せず、青年は黙ったまま小早川を睨んでいる。小早川も黙ったまま、ウエストにつけたバッグから小さな機械を取り出した。

姉弟の視線が集まる中、彼は手早く機械の準備をするとスウィッチを入れる。 ヴンと小さい音がして、機械が動き出した。

「これでよし。悪いが盗聴されたくないんでね。小細工をさせてもらうよ」

「私のほうには、話すことなどありません」

厳しい表情のまま、青年がようやく口を開く。小早川は右手をひらひらさせて、ニヤニヤと笑った。その様子が癇に障ったのか、青年は少し上気した顔で語気を強めた。

「私は両親にも姉にも、二度と会うつもりはありません。大覚様のお言葉が理解できないような愚かな人々とはね」

「高弘! なんてことを」

叫んだ由美子を押しとどめて、小早川は言った。

「少し黙っててくれないか? 彼は少なくとも、俺とは話してくれている。とりあえず今は、俺に任せてくれ」

腹立たしいことではあるが、確かに小早川の言う通りだ。理解した由美子は、激昂した心をなだめながら、力なくうなずいた。小早川もうなずくと、高弘のほうに向き直る。

「さてと。まあ、その大友かぶれは置いておいて、君に聴きたいことがある」

「大友かぶれ?」

「知らないのか? 大友克洋だよ。ジャパニメーションの金字塔、「アキラ」を描いた、日本が世界に誇る漫画家じゃないか」

「知りません。それがいったいどうしたというのです?」

「だから、その「アキラ」って漫画の中に出てくる鉄雄って言うのがさ、新興宗教じみたことをやるとき、教祖に仕立てた男の子を「大覚様」って呼ぶんだよ。それでな、この少年っていうのが……」

「くだらない漫画の話など聞きたくないですね。用がないなら、これで失礼しますよ。私は本当は、あなた方なんかに会いたくなかったんだ。大覚さまの指示じゃなければ、だれが……」

高弘の言葉に小早川が方眉を吊り上げる。

「ほう、その大覚様とやらが、俺達に会えと?」

高弘は失言を悔やむように顔をゆがませると、それきり黙ってしまった。

「何でだと思う? どうして大覚様は君にそんな指示を出したんだ?」

「知りませんよ。深いお考えがあるに決まってます」

「俺にはそうは思えないがね。信者の家族が信者を取りかえしに来たと聞いて、びびったんだろう。例のカルト教団みたいに思われたくなかったんじゃないかな?」

「俗人は、考えることが俗ですね」

高弘の嫌味を、小早川は聞き流して続ける。

「だいたい、ここの教義からしてちと疑問だと思わないか? 天界、この世、地獄。この間にたくさんのステージがあって、それぞれ求められるものが違う。それを正しく理解して修行を積めば、死後、いや、君らの場合は死後とは限らないんだったか。とにかく次のステージへ上がれる。それを繰り返し、いずれは天界へ、てな教義だろう?」

「そのように単純なものではありませんよ」

「だが、おおむねそう言う事だろう? 要はゲームじゃないか。大覚と言う名前といい、教義の内容といい、どうも俺にはただのオタクにしか思えないんだよな。そういえば、例のカルト集団の教祖も、宇宙戦艦ヤマト見たいなことを言ってたんじゃなかったか?」

「大覚様を、そのようなものと一緒にするな! 不愉快だ! 失礼させていただく」

「まあ、待ちなよ」

穏やかながらも、強く太い声で、小早川が言った。成り行きを見守っていた由美子はどきりとする。

これは……

この声に覚えがある。

思わず小早川の顔を見た。相変わらずニヤニヤと薄ら笑いを張り付かせたその表情の奥で、しかし、目だけは笑っていない。

もしや……

由美子は固唾を呑む。

「お前らの教義は、迷える者を救ってはくれないのか? 俺の言うことが愚かだというのなら、オマエの大覚様とやらが似非(えせ)でないことを証明して、俺を正しい道に導いてくれよ」

「断る!」

「できない、と言い換えたらどうだ?」

怒りに燃え、言葉を失った高弘は、ぶるぶるとこぶしを握っていたが、それでもつかつかと戻ってくると、ソファにどっかりと腰を下ろした。

洗脳外しが始まるのだろうか?

由美子がそう思った矢先、小早川はニヤニヤ笑いながら高弘に言った。

「そうおびえるなよ。何もとって喰おうって言うわけじゃない」

覚えのあるセリフに、由美子の身体がふたたび硬くなる。

「いいか、あんたは別にだまされてるわけじゃない。かたくななだけだ。あんたほど優秀な頭を持った人間を、そう簡単に洗脳したり出来るわけがないからな。ただ、聞いてくれ」

高弘は口を挟まないでうなずく。

「あんたの深層意識の中には、常に不安が付きまとっている。それが過大な期待のせいなのか、そんなことはどうでもいい」

「そんな不安はない」

「そうかい? まあ、それならそれでもいいさ。だが、はっきり言って、あんたの人格は安定していない。その自覚はあるだろう? すぐに怒ったり、冷めたり、常に不安定なんだ」

「私はまだ、修行中の身なのだ」

「そうだな。そういうことは誰にでもあることだ。しかし、そんな不安定なくせに、イヤに確固たる自信を持っている部分もある。それはなぜだと思う?」

「大覚さまの教義には、それだけの説得力があるんだ」

「まあ、それ置いておこう。俺が言いたいのは、その確固たる自信のウラにこそ、あんたが本能的に恐れたり隠したかったりしているものがあるんじゃないかと睨んでいるんだがね」

「そんなものはない」

「あんたは勉強一筋で生きてきた。こういっちゃナンだが、俺よりは確実に異性と付き合ったり、交わった経験が少ないだろう? だから、比較的簡単に、敵の目論見にハマっちまったんだな」

「なにが言いたい?」

「つまりだよ、あんた自身は覚えていないかもしれないが、俺はおぼえてないほうにチップを張ってるがね、とにかくその覚えてない空白の時間に、まあ、ありていに言っちまえばヤられてるんだ」

あまりの言葉に、由美子も高弘も言葉を失う。

「やつはオマエを抱いた後、その記憶を消してるんだ。だが、深層心理にはそのことが残ってる。だから、無条件で信頼し、言うことすべてを鵜呑みにしちまうんだよ」

「あんた、気は確かか? そんなわけないだろう!」

「まあ、ここまで聞いたんだから、最後まで聞きなよ。とにかくだ。覚えてないったって、強烈な体験だ。単純な催眠で完全に痕跡を消せるわけもない。そいつを俺が引き出してやるよ」

「バカな」

「怖いのか?」

「バカバカしいだけだ」

「ま、いいさ。俺の声を聞け。聞くんだ。あんたには消された記憶がある。それがあんたにとって、苦しい嫌な記憶とは限らない。もしかしたら、いや、おそらくきっと幸せな記憶に違いない。俺にとってはどうでもいいことだ。だがな、聞いてるか? 問題なのは、相手がその記憶を消したってことなんだよ。いいか、あんたにとっては幸せなことかもしれない記憶を、同じく幸せに感じていると信じていた相手が、簡単に消し去ろうとした事実なんだ。まるでデリートボタンひとつでファイルを消しちまうように」

高弘は黙ったまま、小早川の顔を見ていた。

「わかるか? 相手はあんたのことなんて、なんとも思っていないんだよ。ちょっとしたつまみ食いみたいなものだったんだ。わかるな? だから復讐しろって言いたいわけじゃない。ただ、人の心と身体をもてあそんで、挙句の果てに催眠で消しちまおうなんて、ひどいと思わないか? 思うだろう? 思っているはずだ」

高弘は少し肩をすくめたが、しかし顔は真剣に小早川を見ている。

「俺の声が聞こえるな? 返事はしなくていいよ。大丈夫、俺が決着をつけてやる。あんたを助けてやる……だから、俺の声を聞け……聞くんだ……もう、まぶたを開けていなくていいんだ……」

だんだん低く小さくなった言葉は、やがて消えるように途切れた。

小早川はゆっくりと息を吸うと、大きくため息をついた。

と。

目の前の高弘が、にやりと笑った。

「どうやら、あんたの催眠は私には効かないようだな?」

小早川は肩をすくめて答える。

「ああ、そうだな。だが……」

二人はそろって由美子を見た。

由美子はソファに深く腰掛けたまま、安らかな寝息を立てていた。

「姉さんの方には効いたようだ」

高弘に向けられていたはずの言葉は、実は由美子に向けられていたのであった。小早川が大覚だとか教祖という言葉を用いずに、あえて代名詞や抽象的な言葉で話を進めたのには、こういう意図があったのである。

「ふん、やはりそんなことか。事情を説明してもらおう」

「簡単なことだよ。さっき言ったように、この子は自分の恩師である、中森教授という男に、もてあそばれていたんだ。しかも、その後の記憶を催眠で消されてな」

「なるほどね。それで、あんたの依頼主は?」

「ご両親に決まってるだろう?  俺は彼女の様子を伺っていた。彼女は中森教授のところへ弟の相談をしに行った、いや、実際は彼に操られ会いに行く。そこでのやり取りを盗聴した俺は、中森が紹介した男のところへ先回りし、キャンセルを入れ、代わりに姉さんに会ったと言うわけさ」

「両親は、姉がおかしいことには、気づいていたのかな?」

「だから依頼してきたんだろう。この子は教授におもちゃにされて、だいぶん前から、心の均衡を失っていた。すぐにカッとなったり、暴力を振るったりな。だが、それでも今までは何とかなっていた。あんたがいたからだ」

高弘は遠くを見ながら、ゆっくりとうなずいた。

「ああ、姉は私がひとり立ちすることが気に入らなかったんだ。とにかく私を庇護下においておきたがった。私はそれが鬱陶しくて、一人暮らしを始めたんだ。そして大覚様に出会い……」

「それはもういいって。おおよその見当はついてる。あんたの目は狂信者でもなけりゃ、信心深い信者の目でもない。強いて言や、優秀なビジネスマンの目だ」

小早川の言葉に一瞬鼻白んでから、高弘ははじめて大きな声で笑った。

「なんだ、ばれてたのか。さすがにマインドハッカーだな」

「やめてくれ。こんなのはマインドハックなんて呼べない。初歩の心理学でさえないさ」

小早川は肩をすくめると言葉を継いだ。

「とにかく、あんたが教団をのっとろうが、陰で操ろうが、俺にはどうでもいいことだ。あんたのご両親の依頼通り、姉さんの後催眠をといて、教授のやったことを教えてやるだけさ」

「姉は傷つくだろうな……」

高弘はその瞬間だけ、優しい弟の顔に戻る。

小早川は小首をかしげて答えた。

「かもな。だが、このままじゃいつか、完全に壊れちまうのも確かだ。それならせめて、破滅なり、再起なり、復讐なり、彼女のことは彼女に選ばせてやればいい」

「あんた、意外に優しいんだな?」

「バカ言え。俺はそれで彼女がどうなろうと知ったことじゃない」

「へえ」

高弘がニヤニヤ笑うのを見て、小早川は舌打ちする。

「俺は、教授だかなんだか知らないが、洗脳とも言えないような、こんなちゃちな後催眠しか出来ないやつが、心理学者だ、精神科医だとのさばってるのが気に入らない んだ。それだけさ」

「まあ、それならそれでいい。それよりこれも何かの縁だ。そのうち仕事を依頼させてもらうかもしれないが、構わないかな?」

高弘の言葉に、小早川はいつものニヤニヤ笑いを取り戻して言った。

「構わねえが、俺は高いぜ?」

「本当のプロの仕事ってのは、それだけの価値があるものだろう?」

ふたりはニヤリと笑いあった。

「まあ信者の洗脳だろうが、洗脳はずしだろうが、いつでも言ってきな。例のカルト教団なんか足元にも及ばないくらい、完璧に洗脳してやるよ。金さえ払えば、ローマ教皇でもあんたの教団に入れてやる。まあ、どっちにしてもあんたなら、少しは負けてやるよ 」

そう言った小早川の顔には、強烈な自信と誇りが見て取れた。

「それじゃ、俺は行く」

「両親にヨロシク」

「それは俺の専門じゃない。自分で言いにいきな。大手を振って両親に会えるくらい、この教団を掌握したら」

高弘は肩をすくめて苦笑いを浮かべた。

小早川は由美子の耳元で何事かささやく。すると由美子はぼんやりした顔のまま立ち上がり、小早川の後に従った。小早川はテーブルの上の盗聴かく乱装置をポケットにしまうと、くるりと後ろを向いた。

「じゃあな、あばよ」

「ああ、姉をよろしく」

小早川は後ろを向いたまま右手を上げて答えると、応接室を出て行った。

高弘は大きくため息をついて、ソファに深々と座ったが、すぐに立ち上がると敬虔な信者の顔を作って、応接室を飛び出した。彼にもやることが山積みなのだ。

廊下に出て入り口の方を見ると、ぼけっとしたままの姉を支えて出てゆく小早川の横顔が見えた。その存外優しい顔を見て、高弘は苦笑する。

「おいおい、私はマインドハッカーの義兄なんて要らないぞ? 勘弁してくれよな」

それからもう一度ふたりをよく見る。

小早川は、やはり優しく微笑んで姉を見ている。

「へえ、あの男、あんなふうに笑えるのか。意外だな」

高弘は小さくつぶやいて、それから顔を引き締め、今度こそ後ろを見ずに歩き出した。


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