| ラヴ・ストーリ |
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埠頭に隣接する公園。 海を臨む最高にステキなロケーション。 あちらこちらで、恋人たちの語り合う風景が見える。真っ暗な海に街頭の明かりが映り、波の音が優しく聞こえてくる。 公園の海側は特に人気のある場所。 手すりにもたれた恋人たちが、一定の間隔を置いて並んでいる。愛を語るうれしそうな声も、別れを切り出す悲しい声も、それぞれの相手にしか聞こえない、恋する者が作りだす不可侵のエリアだ。 もちろん、中にはひとりきりでいる男もいるが、居心地は悪そうだ。タバコを吸いながら海を見ていたが、やがて肩をすくめるとどこかへ歩き去ってしまう。 修一(しゅういち)と美子(みこ)は、そんな中で、穏やかに話していた。夜風がほほをなでるのが心地よい。 「ねえ、美子。ぼく、君が好きだよ」 「うん、何回も聞いた」 そう、美子のいうとおり、何度も繰り返された会話だ。 初めて言ったときには、彼女のあまりにそっけないリアクションにがっかりしたものだ。だが、それでもあきらめず、修一は何度も告白し続けた。 鬱陶しがられるかな? とも思ったのだが、それでも好きなものは仕方ない。なるべく鬱陶しくならないように、おどけたり軽く言ったりしながら、修一は美子に愛をささやき続けた。 そのたびに気のない返事を返され、心の中では深く傷つきながらも、決して表面には出さず、修一は美子のそばに居続けた。それが修一の愛し方だった。 「ああ、何回も言ったね。でもさ、何回でも言うよ。好きなんだ」 「困ったな……」 「困らせてるの?」 好きな女を「好きだという事で困らせている」切ない事実に、修一の心は、今日も少し傷口をひろげる。 それでもこうして呼び出せば来てくれるのだから、まるっきりぼくのことを嫌いってわけでもないんだろう。今はそれでいい。昨日今日惚れたんじゃない。ずっと好きだったんだ。じっくり時間をかけて…… そんな想いを心に仕舞って、修一はにっこりといつもの優しい微笑を浮かべる。全然、傷ついてなんかいないよ、という顔を作って。 ところが。 「そうじゃなくて」 美子は肩をすくめると、海を見ていた顔を修一に向けて、にっこりと微笑んで見せた。その笑顔が可愛らしくて、修一の胸がどきんと高鳴る。 「だんだん、あなたのことを好きになってくるのが、困ったの」 思いもかけない言葉に、修一はそのまましばらく、言葉を失って美子を見る。美子は小首をかしげて、小鳥のようなしぐさをした。ようやく仕事を思い出した心臓が、一生懸命働き始める。 どくん、どくん 「本当に?」 どくん、どくん、どくん 「うん。最初は正直、なんとも思ってなかったけど、こうしてそばにいてくれて、好きだって言い続けてくれるのって、やっぱりうれしいよ」 「……そう?」 どくんどくん、どくんどくん 「ねえ……」 「ん?」 どきどきどきどきどきどきどき 「付き合おうか?」 どきん! 心臓が止まるかと思った。 よかった。あきらめないで。ずっと好きだと言い続けて。 「ねえ?」 黙ったままの修一に、美子が不審な表情で話しかける。 と。 「へへへ、情けないなぁ……」 ぽろぽろ、ぽろぽろ 修一の瞳からは、うれしさが、もう、自分の意志ではどうしようもないほど次々にあふれ、流れ出していた。 「ありがと。うれしいよ」 「それって、答えになってるの?」 「へへ、そうだね。きちんと言うよ」 修一と美子はお互いに居住まいを正し、まじめくさった顔をする。それからお互いのまじめな表情に、思わず吹き出してしまった。ひとしきり笑い転げてから、修一は改めてまじめな顔をすると。 「付き合うよ。よろこんで」 「うん!」 元気にうなずいた美子が愛しくて、修一はまた心臓の音が大きくなるのを感じていた。
「はぁっ……」 大きなため息をひとつ。 残念ながら吐き出せたのは呼気だけで、胸の中にもやもやと渦を巻くモノまでは吐き出すことは出来ない。いや、そのぶん、生気を吐き出してしまうのだろうか。 ため息をつく前より、身体中の力が抜けてしまったようでもある。 美子と付き合い始めてからこっち、修一は格段にため息の数が増えた。それも、ただ美子に恋していたころの、切ないけれどまっすぐなため息じゃない。 美子にだけじゃなく、美子と遊びにゆく彼女の男友達や、嫉妬する自分に、いや、嫉妬していること、不愉快であることを美子にはっきりと言えない自分に対する不愉快さ。 そういった色んなもやもやしたものが合わさって、またひとつ、大きなため息。 「自分がこんなにヤキモチ焼きだったなんて、知らなかったなぁ……」 小さくつぶやいたとたん。 「きゃははははっ!」 後ろからけたたましい笑い声が聞こえて、驚いた修一はあわてて後ろを振り返る。そこには、愛子がいた。 「あ、愛子ちゃん」 「修ちゃん、やきもち焼きなんだ?」 「あ、いや……まいったなぁ、聞いてたんだ」 愛子はくすくす笑いながら、可愛らしい瞳で修一の顔をのぞきこむ。 「お姉ちゃんは? また、修ちゃん置いて遊びに行っちゃったの?」 「まあね。なんか、中学のときの友達と会うとかで、ぼくはお留守番さ」 悲しそうに微笑んだ修一に、愛子はほほをふくらませて怒った。 「修ちゃん! だめだよ、なんで何も言わないの? お姉ちゃんのこと、好きなんでしょう?」 「好きだよ。好きだから言えないんだ」 「そんなのおかしいよ。好きなヒトが他のヒトと遊びにいくなんて、イヤでしょう? だったら行かないでってちゃんと言わないと」 「でもね、美子に嫌われたくないんだ」 「違うよ、修ちゃん。黙ってるのって、本当に好きじゃないからだって思うよ、普通。美子姉ちゃんはね、修ちゃんが止めてくれるのを待ってるんだよ、きっと」 厳しい指摘だ。 もしかしたら、そうなのかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。自分と美子は対等でないのだ。修一はずっと好きだといい続け、根負けしたような形で、美子は自分を受け入れてくれた。 そのときに、自分たちの位置関係は決まってしまったのだ。 「修ちゃん……」 愛子は自信なさそうにそう語る修一を、悲しそうに見つめた。 「ふふ、愛子ちゃん、そんな怖い顔しないでよ。いいんだ。僕はね、ハタから見たら情けないかも知れないし、不幸に見えるかもしれないけど、これで充分、幸せなんだよ?」 「嘘だよ。好きなヒトが他のヒトと遊びに行ったりしたら、イヤに決まってるもん。修ちゃん、お姉ちゃんのこと、本当は好きじゃないんだよ」 修一は困ったような顔で頭をかきながら、苦笑した。 「どう言ったら、わかってもらえるかなぁ。あのね、愛子ちゃん。ヒトを好きになるって、とてつもなく怖いのと、幸せなのが、常に一緒になってるんだ」 「……」 「そんな中で、お互いの関係、相手に求めるもの、自分の居る意味なんかを確認したり、変えていったりするんだと思う。でもね……」 修一は自嘲気味に笑った。 「僕はね、意気地がないんだ。好きだって言い続けているだけの時は、もっと勇気を持っていられたんだけどね。今はもうだめさ。ほんの少しでも、美子を失う可能性があることなら、僕にはもう、それは絶対に出来ないんだよ」 「でも、そんなの平等じゃないよ」 「そうだよ。でも、恋愛に平等なんて、きっとないんだ。誰に何て言われても、僕は美子と居られるのなら、平気だよ。失うくらいなら、なんだって我慢できる」 「修ちゃん……」 情けないと自嘲しながら、しかし、修一の瞳には、いつの間にか強い光が宿っていた。愛子に語るうちに、自分の心を確認できたのだろう。まるで迷いをふっ切ったかのように、修一は自信に満ちあふれた表情で、力強く笑った。 「心配してくれて、ありがとう。僕は大丈夫だよ。愛子ちゃんの気に入るような方法ではないかもしれないけれど、これが僕の愛し方なんだ」 「……」 「包容力なんていうとおこがましいけれど、お互いをぶつけ合うんじゃなくて、包み込むような愛し方もあると思うんだよ。激しくはないけれど、決して愛情が足りないわけじゃない。僕は美子が好きだから、そのすべてを愛する力を持ちたい」 「すべてを……」 「うん。今はまだ、やきもちを焼いてしまったり、不安になってしまうけれど、いつか絶対に揺るがない強さで、美子のすべてを包み込む、そんな男になりたいと思ってる」 呆気に取られたように修一の顔を見つめた愛子は、それから急に表情を曇らせると、つぶやいた。 「修ちゃん……すごいね。私、ほんとうに子供だね。なんか余計なことばっかり言ってごめんね? 修ちゃんがそんなにお姉ちゃんのことを思ってるなんて知らなかった」 今にも泣き出しそうな愛子の様子に、修一はうろたえてしまう。 「そんなことないよ。心配してくれてありがとう、愛子ちゃん。実はね、今の今まで、本当に不安で、苦しくて、仕方なかったんだ。でも、愛子ちゃんと話してるうちに、なんだか心の片付けが出来たよ」 「……そう? それなら、よかったのかな?」 少々潤んだ目で微笑む愛子に、修一は一瞬、どきんとしながらも、あわてて満面の笑みを浮かべた。 「うん、本当に助かったよ。ありがとう」 「ねぇ、修ちゃん」 「なに?」 「私も、修ちゃんみたいに強くなれるかな?」 「そんな、僕なんてちっとも強くないよ」 「ううん、強いよ」 「そう見えるだけさ。でも、いつか強くなるつもりだよ」 「そうだね……わたしも、がんばって強くなろう」 「おたがい、がんばろうね」 奇妙な励ましあいをしてから、顔を見合わせ、修一と愛子は声を上げて笑った。
なんども、なんども、厳しい現実に突き当たり、歯を食いしばってそれを乗り越え、あるいは乗り越えられず、ヒトは少しづつ変わる。 または、魂を振るわせるほどの感動、血を吐くほどの苦痛、闇の深遠に落ち込む絶望、そんな、日常から遠くかけ離れた強烈な体験によって、ヒトは劇的に変わる。 どちらにしても、現実が大きな引き金となるのだ。頭の中で理屈をこねくり回したところで、そうそう、簡単にヒトは変われない。 愛子と話したことで確固たる自分の考えを得られたような気なっていた修一だったが、一夜明けてみれば、現実に何の変化もない。 相変わらず嫉妬の蛇に飲み込まれそうになりながら、ただ、美子の連絡を待つ自分が居るだけだ。 昨日、愛子に、いや、自分自身に「すべてを包み込める強い男になる」などと宣言したことが逆に枷(かせ)となり、嫉妬に身を焼く自分の姿に、いつも以上の自己嫌悪を感じてしまう。 苦しい。 胃の辺りにうずくまる濃厚なカタマリが、間断なく、重たい鈍い痛みを送り出してくる。痛みは身体より精神(こころ)を攻め続け、吐き出すため息には疲れ果てた魂(たましい)が混じ る。 睡眠不足の顔には、ねっとりと脂が浮かんでいる。 それでも、美子に連絡を取ることは出来ない。鬱陶しがられるわけには行かないのだ。彼女の気が向いたときに、受け入れられた恋だから。悲しいけれど、それが現実だ。 でも、苦しい。 ひとりで過ごした夜は、苦しみを強めこそすれ、決して弱めることはなかった。もう、限界だ。このままでは、おかしくなってしまう。 修一は、決心する。 とは言え、連絡を取るという選択肢はない。それが出来るような性格なら、こんなに苦しまなくてすむだろう。耐えかねた彼は、美子の様子を見に行くことにした。 一歩間違えばストーカみたいだ、何て考えも浮かんだりしたが、あわてて打ち消す。何を言う、美子は僕の彼女じゃないか。何をはばかることがある。 そう言い聞かせながら、修一は残暑の厳しい中、美子の願いでローンを組んだステーションワゴンに乗って彼女のマンションに向かった。 この角を曲がれば美子のマンションだというところで車を停めると、修一は歩いて角を曲がる。そして、そのまま凍りついた。 呆然。 たっぷり一分間、決して見たくなかった光景に、瞳を釘付けにされたまま、修一はその場に立ち尽くす。ひざが笑い出し、全身に力が入らなくなる。 修一が見た、ちょうどそのタイミングで、美子はキスをした。 例の昔の友達というヤツだろう。もしかしたら、ちょっとした軽い気持ちだったのかもしれない。お互い彼氏も彼女も居る男女の、いたずらみたいなものだったのかもしれない。 けれど、修一を打ちのめすには充分な破壊力を、その光景は持っていた。 ようやく動けるようになった修一は、あわてて車に乗り込むと、すごい勢いでUターンした。いつもなら考えられないような荒っぽい運転で、一刻も早くマンションから離れようと必死だった。 どこをどう走ったのかは覚えていない。 気づけば彼は、あの公園にやって来ていた。 夕日が赤く染め上げる海の見える公園で、修一は海に向かって泣いていた。ちらほらと顔を出し始めた恋人たちが、薄気味悪そうに、その姿を遠巻きにしている。 ぽろぽろ、ぽろぽろ 涙はあとからあふれてきて、自分では止めようがない。 怒るべきなのだろうか? しかし、怒りは微塵もわいてこない。 ただ、悲しくて、悲しくて。 そして不思議なことに、悲しくて泣きながら、修一は胸の痛みやつかえが、すうっと消えてゆくような、奇妙な心地よさを感じていた。 ずっと苦しい思いをしていた身体が、不安や嫉妬から開放されて、楽になったのだろう。それが例え最悪の形であろうと、開放されたことには間違いない。 ぽろぽろ泣き続けたあと、圧倒的な脱力感と、不思議な開放感を抱きしめて、修一は帰路に着いた。 帰ってくると、アパートの玄関に、愛子がひとり、しゃがんでいた。 「どうしたの?」 荒涼とした寂しさと、あきらめの混じった穏やかさで、修一は透明な微笑を浮かべて聞いた。愛子はその反対に、こころの中にこみ上げる色々なものを、必死で抑えながら、オドオドとした様子で修一を伺(うかが)った。 「修ちゃん……大丈夫?」 その表情で、美子のしたことを愛子が知っていると判り、修一は寂しそうに微笑みながら、うなずいた。 「言っただろう? 僕は強くなるんだよ? まあ、とりあえず、中に入ったら。ここじゃ、表からまる見えだから」 素直にうなずく愛子と共に、修一はアパートに入った。彼の性格を現すかのごとく、部屋はこざっぱりと片付いている。座布団を出した修一は、冷蔵庫からジュースとビールを出した。 「修ちゃん、お酒飲むんだ?」 「いや、飲まないよ。これは前に美子が来たときに買ったやつ。でも、今日は少し飲みたくてね」 「そう…………だよね」 「ふふふ、愛子ちゃん。そんなに気を使わないでよ。僕なら平気だから。元気がないのは、愛子ちゃんらしくないよ?」 「でも……」 「大丈夫だって。そりゃ、うれしいとは言わないけれど、このくらいのことは覚悟してしたしね。まあ、仕方ないよ。美子はもてるから」 「仕方ない? 仕方ないなんて、おかしいよ! 修ちゃん、いくらなんでも、これは怒らなきゃダメだよ。お姉ちゃん、今朝帰ってきたんだよ?」 「ははは、愛子ちゃんが怒ってもしょうがないじゃないか。僕は本当に腹が立たないんだもん、怒りようがないよ」 「腹が立たない?」 「うん……なんでだか、自分でもわからないんだけれど。腹が立つより、悲しくなっちゃってね。みっともない話だけど、実は、さっきまで海の見える公園で、泣いてたんだ」 愛子は憮然としたまま、修一を見る。修一は肩をすくめて、自嘲気味に笑った。 「僕はどうにも、攻撃的に出来てないようだ。別に美子があんなことをしたのが、僕のせいだなんて思ってるわけじゃないよ? そこまで卑屈なわけじゃない。だけど、どうしても怒りがわいてこないんだよ」 「好きだから?」 「そう……なのかなぁ? よくわからないや。でもね、面白いんだ。悲しくて仕方ないのに、気持ちのほうはすごく楽になったんだよ。どうしてだろうね」 「苦しかったの?」 「うん、カッコつけて強い男になるなんて言ったけれど、正直、苦しかった。つらかった。だからきっと、最悪の悲しい結果だけれど、結果が出たから、楽になったんだろうね」 「最悪の結果、か。じゃあ、もう、お姉ちゃんとは別れるんだね?」 「う〜ん、どうなんだろう? 怒りがないから、許すってのもヘンだし、このまま何事もなかったように……」 「ダメだよ!」 愛子は、修一がびっくりするほど強い調子で叫んだ。 「愛子ちゃん?」 「ダメだよ、修ちゃん。そんな苦しい思いをして、それでもお姉ちゃんと一緒に居たら、修ちゃん、おかしくなっちゃうよ?」 「ああ……そう……かもしれないね。でも、だからって……おかしくなりそうだからって、ハイやめたって言えるなら、多分、こんなに苦しんだりしなかったよ?」 「じゃあ、このまま、お姉ちゃんと付き合うの?」 「わかない……本当に、どうしよう」 「……」 「愛子ちゃん」 「なに?」 「好きになるって、苦しいことだねぇ。すべてを包んで、なんて言ったのに、僕はやっぱり苦しいよ。好きなヒトがこっちを向いてくれなくても、愛し続けるって言うのは、今考えると、案外、楽なことなのかもしれない」 「そんなわけないよ。片思いって、苦しいじゃない?」 「うん、苦しい。でも、片思いって、全力で思っていられるだろう? そのほうがまだ、楽だよ」 「全力で……」 「うん。迷いなく、って言えばいいかな? 美子に付き合おうって言われてからのほうが、苦しいことが多かった。うれしいんだけど、でも、何の保障ももらえないからね」 「保障か。そうだね、恋に保障とか、おかしいよね?」 「うん、おかしい。でも、欲しいよね? たぶん、僕が弱い人間だからだと思うんだけど、僕は恋してるわくわくより、穏やかに安心したいんだ、きっと」 「安心?」 「そう。でも、美子といっしょにいて、安心なんて出来ないだろう? だから、すべてを包み込むなんて考えるようになったんだろうね。彼女と対峙して、恋の駆け引きをする自信がなかったから、最初から戦いを放棄したんだ」 言いながら、穏やかだった修一の顔が、だんだんゆがんでくる。愛子に話しながら、実は自分に話しているのだ。そう自覚しながら、それでも修一は自分のこころを解剖してゆく。 自虐、なのかもしれない。 「弱い人間には、恋をする資格がないんだろうか」 「そんなことない!」 またも、愛子が悲鳴のように叫ぶ。 「そんなことないよ! どうして、お姉ちゃんみたいなヒトが幸せで、修ちゃんみたいなヒトが不幸にならなきゃいけないの? そんなの、おかしいよ!」 「ありがとう……でも、そう言うものなんだよ、きっと」 「いやだよ! そんなのダメだよ」 いやいやをするように、愛子は首を振る。修一は半分苦笑しながら、愛子が落ち着くのをまとうとしていた。すると、愛子が、消えそうな声でつぶやく。 「ねえ、修ちゃん……」 「ん?」 しばらく空けて、愛子はついに言った。 「私じゃダメなの?」 「え?」 驚愕。 しかし、心のどこかでは、気づいていたのかもしれない。 愛子が自分に好意を持っていることを、修一は無意識で感じていた。だからこそ、すべてを打ち明け、心をさらしたのだろう。 修一は気づいていないが、自分に好意を持っている愛子に、自分の一番みっともない、情けないところを見せて、それを許してもらおうとしたのだ。無意識に。 あるいは情けない自分の姿を受け入れてくれたなら、愛子のほうを愛せるかもしれないという、無意識の打算とでも言おうか。 卑怯である。 が、苦しい思いと戦い続け、つかれきっていた修一が、逃げ場所を探してしまったこと自体は、責められないだろう。それが、愛子の好意を結果的に利用しているところが、問題なのだが。 「愛子ちゃん?」 「修ちゃん、私じゃダメかな? 私なら、修ちゃんにそんな思いはさせないよ? 絶対、そんな苦しい思いはさせないよ?」 「……」 「ずっと好きだったの。でも、修ちゃんがお姉ちゃんのことを愛してて、すべてを包み込んで我慢するって言ってたから、私、何も言えなかったの」 愛子は、悲痛な表情で、必死に叫ぶ。ついに言ってしまった。自分の心を打ち明けてしまった。もう、後戻りは出来ない。 「でも、修ちゃん、もう疲れちゃったでしょう? もう、包んであげられないでしょう? お姉ちゃんは、変わらないよ? ずっとあのままだよ? そしたら修ちゃん、ずっと苦しいままだよ?」 「愛子ちゃん……」 「修ちゃん、好きなの」 「……」 「修ちゃん!」 愛子はもう、わき目も振らずに走り出した。修一の胸に、強引に飛び込む。受け止めた修一は、それでもまだ、戸惑っているようだったが、かまうものか、とそのまま身体を預けた。 中途半端に愛子を抱きとめたまま、事実、修一は戸惑っていた。 美子の妹であること、自分がまだ美子をあきらめていないかもしれないこと、愛子があまりに強引なこと。色んなものが、修一の行動を妨げる。 が。 「修ちゃん」 腕の中で自分を見あげる愛子の濡れた瞳は、しかし、確かに美しかった。そして彼女の言うように、自分を見てくれる愛子のほうが、幸せになれそうな気がする。 もう、疲れた。 そんな逡巡を見越してか知らずか、愛子は見上げていた瞳を閉じる。最後の数センチは、修一のほうから距離を詰めた。
ぴんぽーん 寝ぼけ眼(まなこ)で起き出した修一がドアを開けると、美子が立っていた。数ヶ月ぶりに見る彼女は、相変わらず美しかった。 ぱん! 問答無用で美子の平手打ちが修一のほほを鳴らす。修一はしかし、黙ったまま、悲しそうに彼女を見つめるだけ。美子は激しい口調で修一に迫った。 「あんた、なにやってんのよ!」 「……」 「愛子が泣いてたわ」 「……」 「私が好きだって言ったくせに、妹に手を出したのも許せないけど、でも、愛子が幸せならって黙ってた。だけど、あの子、泣いてたのよ! あんたが愛してくれないって、泣いてたの」 「……」 「聞いてるの? 何とか言いなさいよ」 「よく……」 「なに?」 「よく、そんな風に強く生きられる。君はすごいね」 「はぁ? なに言ってるのあんた。わけのわからないコト言って、ごまかそうとしたって、許さないからね?」 「そんなつもりはないよ。ただ、愛子ももっと言いたいことがあるだろうし、もちろん、僕にも言いたいことがある。お互いに、じゃない。君に、だよ? でも、僕らはそれを言えないんだ」 「何の話をしてるのよ!」 「君の話さ。君は、どうしてここにやってきたの? 妹を僕が泣かせたから? だけど、それが君に何の関係があるの? 愛子だって僕だって、もう子供じゃないんだよ?」 「なによ、イイワケするつもり?」 「君に言い訳する必要があるのかな? って聞いてるのさ。僕と愛子の問題は、どれだけ大変だろうと、時間がかかろうと、僕と愛子で解決するよ。君には関係ない」 「関係なくないわよ、私の妹なんだから」 「妹だからこそ、さ。彼女は泣きながら、君に僕のところへ行ってくれなんて頼んだかい? 頼まなかっただろう? 他の誰に頼むことはあっても、決して君には頼まないはずだ」 「何でそんなこと言えるのよ」 「君が原因だから」 その言葉に、美子は絶句する。 しかし、元来気が強いために、すぐに体勢を立て直した。 「なんで、私が原因なのよ! って言うかあたしが原因なら、私にも関係がある話じゃない」 「いや、関係ないね。正確には、「君に対する僕と愛子の思い」が原因だから。僕がもう、君のことを思っていないことを、愛子が信じられないのが原因だから」 「……」 「まあ、本当になんとも思っていないかどうかは、正直、僕にもわからない。もしかしたら、まだ、心のどこかで君のことが好きなのかもしれない」 そういって微笑む修一の透明な笑顔に、美子は少し気おされる。 「でも、君も僕とやり直す気はないだろうし、僕にもない。それだけが事実さ。ただ、愛子にはそれがなかなか判ってもらえないんだ」 「……」 「判ったら、帰ってもらえないかな? 君の顔を見てると、実はまだ、苦しいんだよ。たぶん、好きだとかじゃなくて、条件反射みたいなものなんだろうけれど」 美子は黙ったまま、修一のアパートをあとにした。 修一が別れを切り出したのも、もともとの原因が自分にあるとわかっていたし、別れると言われた時も、別段、なんとも思わなかった。 それでも、どこかで負い目みたいなものを感じているところも、確かにあったのだ。あまり強く突っ込むことは出来ない。 しかし、腹立たしい気持ちもある。 私が好きだって言い続けてたくせに。そりゃあ、ちょっと浮気心を出したのは、自分が悪かったかもしれない。でも、だからって妹に乗り換えるって言うのは…… 考えながら歩いていると、向こうからかけてくる人影があった。 愛子だ。 「お姉ちゃん! どこ行ってたのよ?」 「修一のところ」 「なんでよ!」 「あんたが泣いてたから」 「余計なことしないで!」 叩きつけるように叫ぶと、愛子はそれきり美子を置きざりに、修一のアパートに向かって駆け出した。 元来、美子は気が強い。そして、綺麗な容姿にも原因するのだが、あまり人から強く責められた経験がない。ゆえに彼女は、かなり面白くない気分になっていた。 「ふん、なによ。みんなして私を悪者にしてさ。だいたい、修一なんて私に好きだ好きだ言っておきながら、あっという間に愛子に乗り換えたような、いい加減な男なんだから」 口に出すうちに、自分の言葉に刺激され、より強く腹が立ってくる。 「そうよ。あんな男じゃ、愛子が不幸になるのは目に見えているわ。なのに、私には関係ないだなんて、冗談じゃない! 私は愛子のためを思って言ってるのに」 保護者が被保護者に対して陥りやすい、身勝手な論のすり替えに、美子もいつの間にか陥っている。 しかしもちろん、本人にその自覚はない。 「こうなったら、あの男の本性を暴いて、愛子の目を覚まさせてやらなくちゃ」 修一のアパートでふたりが仲直りをしているころ、美子は方向違いの義憤に燃えて、そんな企てをしていた。 そして、次の日から、美子は行動に移る。
ぴんぽーん 仕事から帰って一息ついていた修一の元に、美子がやってきた。昨日とは打って変わって、満面の笑みをたたえている。修一はいぶかしげに首をひねった。 「なんだい? 愛子となら、昨日、仲直りしたけれど?」 「うん、判ってる。昨日は悪かったなと思って、お詫びに来たの」 「なんだ、そんなことかまわないのに」 「それに、今までのことも謝らなくちゃと思って」 「謝ることなんてないさ。僕が勝手に君に恋して、勝手に苦しんで、勝手に耐えられなくなっただけだから」 「なんだか、ものすごい皮肉を言われているような気がするんだけど」 悲しそうな顔でそういわれ、修一はあわてる。 「そ、そんなつもりはないよ。ご、ごめん」 「とりあえず、入れてもらっていいかな?」 「あ、ごめん。どうぞ」 綺麗に片付けられた部屋に上がると、美子はソファに座って大きくため息をついた。 「ほんと、人間ってちょっとしたことで、ひどく誤解しちゃうしされちゃうモノなのね」 「何の話?」 「あのね、別にいまさら言い訳するつもりはないのよ? ただ、なんだか誤解されたままって言うのも、いやだから。愛子も落ち着いたみたいだし、話しておこうかと思って」 「何を?」 「私がどうしてあの人と浮気したかってコト」 いきなり核心をついた話に、修一は思わず言葉を失う。その反応を見て、美子はすかさず切り出した。 「あなたのせいにするつもりはないわ。だけどね、私だって、ただいたずらであんな事をしたわけじゃないのよ?」 「もう、いいよ」 「よくない。私、誤解されたままってイヤなのよ」 「……」 「あなたに好きだって言われてるうちに、私、あなたが好きになった。でもね、私、そんなにもてないほうじゃないでしょう?」 「それは認めるよ」 「ありがと。だからね、いろんな人に好きだって言われたの。でも、みんな嘘だった。嘘までは行かなくても、私だけ、って人はいなかった。男ってそう言うものだと思ってた」 「僕は……」 「うん、あなたは違うと思ってた。でも、そんなに簡単に、信用できなかったの。だから、様子を見てた。そしたらやっぱり、あなたも私を捨てて、愛子に走った」 「そんな……それは君が先に……」 「そうね。行動したのは私が先だったかもね。でも、あなたはどうだった? 愛子のこと、どう思ってた?」 「あのころは、そんな気はまったく……」 「嘘だよ。それじゃあ、私が浮気してるのを見て、急に愛子が好きになったの? あなた、そんなに簡単に心変わりするの?」 「それは……」 「ね? あなたの心の中にも、最初からそう言うところがあったのよ。あなただって、他の男と変わらないのよ。だから私、男の人に本当に心を許すことが出来ないの」 「……」 「あなたが……何があっても、私だけを見ていてくれたら……そうしたら私……きっと……」 美子は泣き出していた。 修一を責め立てているうちに、自分の吐いた言葉に酔っ払い、本当にそう思っていたような気になったのだ。 いや、もう彼女の中で過去は書き換えられ、信じていた男に裏切られた女というシナリオが定着してしまった。 「でも、しょうがないよね? あなただけが悪いんじゃないよね? 私があなたを信じられなかったのが原因なんだよね?」 言葉はしおらしいが、彼女が心からそれを言っているとは到底思えない。あなたが悪いんだ。あなたが私を裏切ったんだ。男を信じさせてくれると思っていたのに。白馬の王子様だと思っていたのに。 自己暗示のように、自分で信じ込んでしまっているために、彼女の言葉にはひどく説得力があった。少なくとも修一は、最後まで彼女を信じてやれなかったと、自分を責めた。 「すまない……いまさら言っても仕方ないことかもしれないけれど、本当にすまなかった。僕の弱さが招いたことなんだ。僕がもっと強ければ……」 「ねえ……」 濡れた瞳が修一を見る。彼の頭に、 あのときの愛子の姿が、オーバーラップする。しかし、彼にとって状況はまったく別だった。あの美子が、濡れた瞳で自分を見上げているのだ。 修一は、暴走する心臓の音を聞いていた。それは、彼自身の心臓だった。それでも、かろうじて冷静さを保っている。 逆に 美子は、状況に泥酔していた。 「私たち……もう、だめなのかな?」 「な、なに言ってるんだ? そんな、いまさら……」 明らかな動揺に、美子は力を得る。 「全然、ダメなの? もう、あなたの心には、私の居場所はないの? 私は、独りで生きていかなくてはダメ?」 「美子……美子……僕を苦しめないで」 「苦しめている? 私があなたを愛することは、あなたを苦しめるの?」 美子は今にも泣き出しそうだ。 そして、彼女の「自分が愛することが、あなたを苦しめるのか?」という言葉は、かつて修一が、何度も自問自答した言葉でもあった。そう、修一はその苦しさを知っていた。 「美子……」 「修一……」 ふたりの影が、近づいてゆき…… しかし、すんでのところで修一は思いとどまる。 「ダメだよ、美子。もう、遅すぎるんだ」 美子はがっくりとうなだれた。 やがて。 「そうだね。そうだよね? 愛子が可哀想だものね? うん、わかった」 やけにさっぱりした顔で、明るく微笑む。 「なんだか、どっと疲れが出ちゃった。ほんと、ワガママでごめんね? あ、そうだ。ワガママついでに、シャワー借りて良いかな?」 修一は苦笑しながらうなずく。 美子はシャワー室に入ると、携帯を取り出してメールを打った。 それから、シャワーを浴びる。 几帳面な修一は、いつもシャワー室の所に着替えを置いてある。美子はその中からTシャツを取り出すと、ブラジャーもつけずにそれを着た。下はパンティ一枚である。 シャワー室を出てくると、おどけながら、くるりと一回転。 「ねえ、セクシーでしょ?」 「まったく、目のやり場に困るね」 修一が笑う。そのままソファに座っている修一の横に、美子はどすんと座った。修一があせって立ち上がるのを、腕を取って引き止める。 「なによ、逃げることないでしょう? 別にとって喰いはしないわよ?」 「いや、そういうわけじゃないけど、やっぱりまずいよ。服を着てくれないか?」 「なんで? 襲っちゃう? 私は構わないよ?」 「ちぇ、からかうのはやめてくれよ」 苦笑する修一。 と。 ぴんぽーん! 突然のドアチャイムの音に、修一は固まった。 美子はにやりとほくそえむ。 鍵をかけていない扉が勢いよく開かれ、愛子が飛び込んできた。 しどけない姉の姿を目撃した彼女は、そのまま動きを止める。そう、先ほど美子がメールをした相手は、愛子だったのである。立ち尽くした愛子は、呆けたままつぶやいた。 「なんで……」 「愛子、どうしたんだ? 急に?」 修一の言葉が聞こえないのか、愛子は同じセリフを繰り返す。 「なんで……」 「愛子、違うんだよ。美子、ちゃんと説明してやってくれ」 あせった修一が美子に振り向く。 美子は、笑っていた。 妖艶、と言っていいだろう。 思ったようにコトが運び、彼女は満足感で今、匂い立つように、そして、理不尽なほど、光り輝いていた。決して太陽の強烈な輝きではなく、月の青白く優しい輝きでもなく、むしろネオンの 淫猥な輝きを思わせる、それは輝きだった。 「愛子、わかったでしょう? この人はね、手近にいる女なら誰でも良いのよ。私が思うようにならなければあなたを、あなたがへそを曲げれば私を。この人は簡単に抱くのよ」 「美子、おまえ、何言ってるんだ?」 「修ちゃん……」 「愛子、違うよ。僕は……」 「いや……いやだよ……」 ぞくり。 美子の背中を疾(はし)るものがある。 可愛い妹であったはずなのに、しかし、今の美子にとっては、同じ女でしかない。そして女であるということは、敵なのだ。少なくとも、今の美子に取っては。 実害のあるなしではない。女である、それだけで、美子にとっては敵になる。彼女は、そういう類(たぐい)の女なのだ。急速にそれを自覚し、美子は背徳の快感に酔いしれる。 可愛い妹と、自分に惚れていた男。そのふたりが、どうしようもなく、破局を迎えようとしてる。だれでもない、自分のせいで。 なんと言う背徳。そして、なんと言う泥沼。 しかし、だからこそ。 いま、この瞬間に、妹が破滅してゆくさまが、異常な快感と興奮を呼ぶのだ。 「愛子」 美子に呼ばれて、妹は錯乱寸前の顔を姉に向ける。 「バカだねぇ。この男がどれだけ私に惚れているか、知っていただろう? この男が私のためなら何でもするって、知っていただろう?」 「ひゃぁ……」 「美子! おまえ!」 愛子の様子がおかしくなってくるのも、修一が血相を変えて叫ぶのも、美子にとっては料理を彩る、調味料でしかない。自分のせいで、妹は壊れ、自分のせいで、男が不幸になる。 その、快感。 「愛子、あんた最初から遊ばれてたんだよ? 私が、この男にそう言ったんだ。私の妹を壊してくれってね。何でだかわかる? あんたがね、私の男を盗んだからだよ! あんたは、私を裏切って、私の男を盗んだんだ。この、淫売」 修一を取られたことを理由に、とられる前の修一にそれを頼むことは不可能だ。美子の言葉は、ひどく矛盾している。しかし、理論的な矛盾など、もはや何の意味もない。 最初から遊ばれていた。 姉が頼んだ。 姉の男を盗んだから。 裏切ったから。 キーワードの一つ一つが、愛子の心をえぐる。 「おまえ、言ってることがおかしいぞ?」 かろうじて矛盾を突くことが出来る修一の言葉は、もう、愛子には届かない。愛子は、精神的にがけっぷちにいるのだ。 美子は、最初の目的、「妹を修一の毒牙から守る」と言う欺瞞に満ちた目的さえ忘れて、愛するものの破滅するさまが与える、異常な、異様な快感に酔っている。 「愛子、あんた、気付きなよ。誰も、あんたなんか必要としてないんだ」 「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」 「愛子ぉ!」 愛子は部屋を飛び出した。 あわててそのあとを追いかけようとした修一は、一度だけ振り返り、恐ろしいほど怒りにみちた瞳で、美子を見た。 「美子……どうしてなんて、もう聞かない。ただ、愛子に何かあったら、僕は決して君を許さない」 それだけ吐き捨てると、修一は美子を追って駆け出した。
ひとりアパートに残った美子は、がくがくと震えてひざまずく。 恐ろしいほど、興奮していた。 自分の本性に、彼女自身が驚きながら、ビリビリするほどの興奮を感じている。 ああ、すごい。 愛されても、愛されても、得られなかった満足が、ここにある。 憎悪。 強烈な憎しみ。 あの、穏やかな修一が、アレほど激しく自分を想っている。 口先だけの、甘ったるい感情じゃない。 全身全霊を賭けて、自分を想っている。 全身で、自分を憎んでいる。 殺されるかもしれない。
ぞくん。
殺されるかも、と思った瞬間、美子の背中を、また疾る快感。 ああ、わかった。 私は異常なんだ。 いや、異常ではないのか。 わからないけれど、わかった。 表面を繕(つくろ)った感情、そんなものどうでもいい。 魂の底からの感情。 それを受け止める快感。 誰も与えてくれなかった、本当の充実を、あの二人なら与えてくれるだろう。たとえ愛子が壊れてしまったとしても、少なくとも修一なら、 自分を、心の底から憎んでくれるだろう。 それを想像しただけで、震える。 殺されるほど憎まれたら、信じられるかもしれない。 修一を、今度こそ心の底から信じられるかもしれない。 殺したいほど憎めるなら、殺したいほど愛してくれるだろう。 いや、そんなことでさえ、どうでもいい。 思われる。 全身全霊を賭けて思われる。 すごい。 なんて、すごいこと。 美子はめくるめく快感に身を震わせながら。 ふたりが帰ってくるのを、待ち続けた。 その瞳は濡れて、限りなく妖しく。 美しい。 |