のらいぬ
のらいぬは、死にかけていた。

薄汚い灰色の雨に打たれて、道端で死にかけていた。

学校からの帰り道、新品の真っ赤な傘を差してスキップしながら歩いてきたさなえは、のらいぬに気付いて足を止める。

あまりに哀れなその姿は、さなえの小さな胸を刺す。急いでのらいぬのそばに駆けてゆくと、傍らにしゃがみこんだ。

かといって小学生のさなえに、何が出来るだろう?さなえはその場に立ち尽くしたまま、おろおろとするばかり。

く〜ん

のらいぬが鳴いた。

「どうしよう。ねえ、君。いったい何をしてあげたらいい?」

聞いてみたって、のらいぬが答えられるわけはない。さなえは一生懸命考える。

「そうだ!」

給食のパンがランドセルに入っている。なんとなく食べたくなくて、先生の目を盗んでランドセルに放り込んだんだけど、きっとこれは神様がこうなることを予想していたんじゃないかな?

そんなふうに考えると、ちょっと嬉しくなる。さなえは急いでランドセルを開けると、中からパンを取り出した。

「ほら、食べなよ。おいしいよ?」

しかし、せっかくあげたのにもかかわらず、ちょっと匂いを嗅いだだけで、のらいぬは見向きもしない。さなえは悔しくなって言った。

「毒なんか入ってないよ?どうして食べないの?」

倒れたのらいぬの口元にパンを持ってゆくのだが、のらいぬは頑なに食べることを拒否する。

病気だから、食べられないのかな?そう思ったさなえは、のらいぬを抱き上げて連れて帰ろうと思い立った。お母さんは優しいから、きっと病院に連れて行ってくれるはず。

しかし、さなえが手を伸ばすと、のらいぬは唸り声をあげて近寄らせない。断固たる拒否の構えだ。怖がっているのかもしれないな、と思ったさなえは、出来るだけ優しい声でささやく。

「大丈夫、病院に連れて行ってあげるから。そしたらきっと元気になるよ」

のらいぬは賢そうな瞳をむけて、小首をかしげた。どうやらわかってくれたのだろうか?そう思ってさなえが手を伸ばすと、今度は唸ることはしなくなったけれど、身体をよじってさなえの手から逃れようとする。

さなえはあせった。

これ以上放っておいたら、本当に死んでしまう。無理やり抱き上げるしかないのだろうか?しかしのらいぬは死にかけているにもかかわらず、とても強い力で身体をよじり、どうしても抱かせようとはしない。

ああ、どうしよう。

さなえは困ってしまって、天を仰いだ。

「神様!どうかこの犬に、私のいうことを聞くように言ってください」

さなえは雨の中、傘をさすことも忘れて祈った。道端で死にかけているのらいぬを助けるために、ひたすら祈った。

すると。

真摯な祈りが天に通じたのだろうか?

さなえの頭の中に、のらいぬの声が聞こえてきた。

「お嬢さん、ありがとう」

祈りが天に通じたのだ!

さなえはここぞとばかりに、一生懸命のらいぬを説得にかかる。

「ねえ、このままだとあなたは死んじゃうのよ?わかる?今から私が病院に連れて行ってあげるから、おとなしくしてて」

のらいぬは慈愛に満ちた優しいひとみで、さなえの顔を見つめた。それから、ゆっくりと首を動かす。しかしそれはさなえの期待していた縦の動きではなく、横に向かって振られたのだった。

「ありがとう。あなたの優しさは嬉しいよ。でも、だめなんだ。私は病院に行くわけにはゆかないのだよ」

「どうして?このままだと死んでしまうのよ?わかる?死んでしまうってわからないかな?今の苦しいのから、助けてあげるのよ?」

のらいぬは、よろよろする身体をおこし、足を踏ん張って胸を張った。それから、優しいが誇りに満ちた力強い調子で、さなえを諭す。

「私はもう老犬だ。死ぬことは怖くないよ。でもね、私はこれまで誰にも媚びず、誰にも頼らず、自分の力だけで生き抜いてきたんだ。だから、最後までそれを貫きたいんだよ」

犬だと思って低学年の子達に話すようなつもりでいたさなえは、ビックリしてしまった。しかし、それでもぶるぶると頭を振って叫ぶ。半分パニックに近い。

「でも、死んじゃうんだよ?死んじゃあダメなんだよ?」

のらいぬはやさしい顔でさなえを見つめていた。

「お嬢さん、時には死ぬことよりも恐ろしく、死ぬことよりも嫌なことがあるんだ。それはね、自分自身を貫けないことなんだよ。あなたにはまだ難しいかもしれないけれど」

それを聞いてさなえは完全に切れてしまう。

「いやだよ!いやだよ!お父さんだってお母さんだって、いつもそうやってさなえにはわからないって言うんだ!さなえだって知ってるんだよ!お父さんのお仕事が上手く行ってないこととか、それでお父さんとお母さんの仲が悪いこととか!」

爆発して叫ぶさなえの言葉を、のらいぬは辛抱強く聞いている。

「さなえだって何でもわかるんだもん!あなたは死んじゃあいけないんだもん!お父さんとお母さんは、仲良くしなくちゃいけないんだもん!」

大声をあげて泣き出したさなえのそばで、のらいぬはだまって座っていた。ぜいぜいと苦しそうな息で座っていた。

やがて泣き止んださなえの頭の中に、のらいぬの声が響く。

「もう、充分大人なんだね。子ども扱いしてごめんね?」

さなえは小さくうなずいた。

「お父さんとお母さんには、一生懸命話すといいよ。今みたいに、思ったことをはっきりと、自分の言葉で伝えれば、お父さんとお母さんはきっと聞いてくれるから」

「聞いてくれるかな?」

「ああ、もちろんだとも。お父さんもお母さんも、君が大好きなんだから。でもね、私のことは別だよ?確かに君の言う通り、何かから逃げ出したり、全てを投げ出すために死ぬのはよくないことだ。だけど、私は違うんだ」

「どう違うの?」

「私はね、一生懸命生きたんだ。自分がこうありたいと思う姿に、一歩でも近づくために、全力で戦いつづけたんだ。しかし残念ながら、それは叶わなかった。私は結局、ただの野良犬のままで終わってしまう」

のらいぬは「わかるか?」と言うような顔で、さなえを見た。さなえは、幼い頭で、それでも一生懸命理解しようとしていた。

「でもね、それでも後悔はしてないんだ。自分の一生に、私は自信と責任を持っているんだよ。最後の最後で誰かに頼って生き長らえるより、自分の生き方を最後まで貫いて死にたいんだ。それが正しいとか間違ってるとかじゃなく」

のらいぬの言葉は難しかったけれど、彼の言いたいことの本質は理解できる。言葉にすればそんなふうに、さなえはのらいぬを理解した。

「わかった。じゃあ、最後までここにいるね?それはいいでしょう?」

「ああ、それは嬉しいな。私が死ぬまで、こうして話してくれるのか。君に看取られて逝けるのなら、これほど嬉しいことはない」

それからふたりは、たくさんの話をした。

 

やがて、その時がやってくる。

のらいぬは最後の力を振り絞り、立ち上がった。神々しいまでに誇り高いその姿に、さなえは息を飲む。

のらいぬは首を高く持ち上げると、天に向かって吼えた。

おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ

求める姿に届かなかった悔しさも、雨の仲でのたれ死んでゆくつらさも、微塵も感じられない。そこにあるのは、たださなえに対する感謝と、己の生き様を全うした喜びだけだ。

泣きながら、少女は立ち尽くす。

しかし、その涙は、ただの悲しみではなく、ただの諦めではない。言葉に出来ないその思いは、これから彼女が人生いっぱいをかけて答えを出すべきものだ。

そんなさなえに慈しみのまなざしを送った後、のらいぬは天に向かって己の命をひしりあげた。

透きとおるようなその遠吠えは、雨の中を空に向かってのぼってゆく。

いつまでも。

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