| 愛しのレイラ |
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レイラは恋に落ちた。 あの、アイスドールのレイラがだ。 話を聞いたやつらは一様に首をかしげ、それから鼻で笑って信じない。さらに、その相手がビルだと聞けば、もう、完全に自分を担ぐ冗談だと決めにかかってしまう。 やがて話し手の真剣さに気づき、冗談じゃないのかと何度も念を押した後、驚きと嘆きで、思い切り天を仰ぐのだ。 よりによって、ビルかよ。 まあ、要約すればそう言うことだ。けれど、当のビルとレイラが幸せそうに仲むつまじくしている姿を見れば、これはもう信じざるをえない。なんたって、あのアイスドールが笑っているんだから。 この事態が、この街の今年一番のニュースであることだけは疑いなかった。
レイラがアイスドールと呼ばれているのは、笑わないからだ。 数年前まで超売れっ子のモデルだった彼女は、スーパーモデル契約の話に有頂天になった。体重を10キロ近く落とすことがその条件だったが、これはスーパーモデルとしては当たり前のこと。 誰も普通のモデルからスーパーモデルになるためには、そのくらいのダイエットを要求されるのだし、一線級のスーパーモデルは、みなそうして今の地位を築いてきたのである。 レイラももちろん、嬉々としてダイエットに励んだ。ただし、彼女のとった方法が問題だったのである。 覚せい剤。 そのころのレイラの彼氏というのが、裏の世界では相当に顔の広い人間だったのだが、しかし、決していい人間だったわけではなかった。 もちろん彼氏はレイラをダメにする意図などなく、ある意味純粋に親切心からそれを勧めたのだった。要は、善悪の意識の違い、常識の個人差というヤツだったのだろう。 期限までに痩せなくてはと焦っていたレイラは、心を許した彼のすすめでもあったので、軽い気持ちでそのクスリに手を出したのである。 ダイエットは成功し、レイラはスーパーモデルの仲間入りを果たした。 が、神様が微笑んだのはそこまでだった。 普通のモデルの世界でさえ、精神的な負担というものはすごく大きい。野心、虚栄心、そのほか色んな人間の思惑が入り混じる、厳しい、いわば弱肉強食の世界である。 ましてトップブランドであるスーパーモデルの世界だ。 絶え間なく与えられるストレスに、レイラはクスリの世界へ逃げた。知らなければ、歯を食いしばってがんばったかもしれない。しかし、レイラは知っていたのだ。簡単に逃げ込める世界があることを。 マネージャが気づくのとほぼ同時に、スーパーモデル専門のスクープ屋が嗅ぎつけた。正確にはそのころすでに例の彼氏と別れていたレイラに、甘言を弄して近づいてきた男が、そのネタをスクープ屋に売ったのである。 新しい彼氏が、自分を売って大金を手にしたという事実は、スーパーモデルをやめさせられたことよりもレイラを傷つけた。 レイラは更生施設送りになり、数ヶ月して出てきたときには、すべてを失っていた。 そして、そのときから、笑顔も失った。
ビルは少々頭が弱い。少なくとも、生き馬の目を抜くこの大都会で生きてゆくには、少々人が良すぎる帰来がある。 更生施設を出てきて夜の街の女王になったレイラに、ビルが初めて言った言葉からも、それは理解できるだろう。 「薬をやめるために、たくさん苦労したんだね? それで、すべてを失ってしまったんだね? でも、大丈夫。神様は見ているから。きっとやり直せるよ」 全部言い終わる前に、レイラのグラスの中身が、ビルの顔に引っ掛けられた。当たり前だ。誰も触れずにいた話なのだから。 「あんたみたいなウスノロが、判ったような口を利くんじゃないよ。それとも、それで口説いているつもりなのかい? 笑わせないでくれ。あたしが抱きたきゃ、あんたの薄汚い長靴いっぱいの金貨でも持ってきな」 周りの人間が嘲笑を浴びせる中、ビルはにっこりと微笑んだ。 「なんだ、元気じゃないか。よかった。もし困ったことがあったら、僕に遠慮なく言ってくれ。君みたいにきれいな人は初めて見たから、僕は君の言うことならナンデモ聞いてあげるよ。もっとも、僕にできることなら、だけどね」 そう言って、驚くことに、ビルは心の底からほっとした様子で、うれしそうに笑ったのだ。レイラ以下、周りの人間は、しらけてしまって、それ以上何もいえなかったコトは言うまでもない。 「なんなの? あの男」 ビルが出て行ってから、そばにいた人間にそう聞くと、一様に同じ答えが返ってくる。 「あんたが言ったとおり、ただのウスノロさ。表の噴水があるだろう? あそこに捨てられていたのを、この店の先代に拾われて、それ以来ずっと、先代が死んだあともずっと、この店で安月給でこき使われているんだ」 「義理ってコト?」 「なのかね? 二代目も、まあ、気のいい人だから、仕方なく置いてやってるみたいだけど、まあ、ロクに気の利いた仕事もできない、ウスノロなのは間違いない。それよりレイラ、今夜、もし良かったら……」 あとに続く口説き文句は聞き流しながら、レイラは店の表の隅で、野良猫にえさをやっているビルの背中を眺め、ふん、と鼻を鳴らした。
アイスドールのレイラに懸想した男は数知れないが、もっともタチの悪いのは誰かと聞かれれば、みんな口をそろえて言うのが、ジェームズ・ガイルだろう。 暴力団の下請けみたいな仕事をしている、まあ、チンピラに毛の生えたような男なのだが、カッとなると警察のことなど忘れて、むちゃくちゃなことを当たり前のようにやるので、荒っぽい仕事に関しては本職が重宝して使いたがる。 鉄砲玉みたいな消耗品として考えれば、これほど使いでのいい男もいないというわけだ。 そのジェームズが、粉をかけてもなかなか首を縦に振らないレイラに業を煮やし、あろうことか薬を使ってレイラを襲おうとしたのだ。 強引に拉致され、車に監禁されてクスリを打たれそうになったとき、レイラはアイスドールと呼ばれるようになってから初めて、心の底から大声で叫んだ。 心の隅に押し込めていた、嫌な思い出、嫌な気持ち、嫌な何かがいっぺんに吹き出してきて、この絶望に苛(さいな)まれて生きるくらいなら、いっそ死んでしまいたいとさえ思った。 だが、神様は見ていた。 クスリを打たれる寸前、車の扉が乱暴に開けられる。 「てめえ! ビル! なにしやがる? 邪魔すると、ぶっ殺すぞ!」 ジェームズの吼える声をまったく無視して、ビルはレイラを抱えあげた。 180センチ近いレイラを160センチに満たない小男のビルが抱き上げたので、その様子はずいぶんと滑稽になっていたが、もちろん笑うものは誰もいない。 「ビル、待てよ!」 ジェームズが銃を構えてビルを脅すが、ビルにはまったく聞こえていないかのようだ。 ばん! 威嚇の弾丸が、ビルの足元、アスファルトを削る。担がれているレイラが、ビルの代わりに悲鳴を上げた。 と。 ビルはレイラを抱えたまま、すごい勢いで走り出す。両手を挙げて止まると思っていたジェームズは一瞬呆気にとられた後、怒りの咆哮と共に拳銃を連射する。 ばん、ばん、ばん! 乾いた銃声が夜の繁華街にこだまして、周りから悲鳴が上がる。そして弾丸は、過(あやま)たずビルの背中を貫いた。 着弾と同時に、レイラが悲鳴を上げるが、ビルは構わずに走り続ける。その後ろを怒り心頭に達したジェームズが追いかけるが、やがてやってきた警官によって捕らえられた。 一方、走り続けて店まで逃げてきたビルは、ようやくレイラをおろす。 「背中は? あんた、銃で撃たれて……」 悲鳴に近い叫びを上げるレイラに、ビルはにっこりと笑って見せた。 「大丈夫、ほら」 ビルは背中から取り出した中華なべをレイラの目の前にかざす。中華なべには3発の弾丸がつけた凹みがあった。いや、一箇所だけ、穴が開いている。 「いいから、背中を見せな」 ビルを強引に後ろ向かせ、レイラはその背中を調べる。背の割に案外たくましいその背中には、一発の弾丸が突き刺さっていた。もっとも、中華なべに阻まれてアタマ数ミリが食い込んだ程度だったが。 「平気だよ。僕はいつも殴られたり蹴られたりしているから、すごく頑丈にできているんだ」 ニコニコ笑うビルの笑顔を見ているうちに、先ほどの悪夢から開放された安堵と、脱力感が入り混じって、レイラはいつの間にか涙を流していた。 「どうして?」 「ボクはバカだから、みんな大事なことでも、僕の前で話したりするんだよ。ジェームズが君を襲うって話を聞いて、昨日、なべを買ってきたんだ。本当はもっと厚いなべを買えばよかったんだろうけど、ボク、あんまりお金を持っていないから」 「どうして……あたしを助けたの? ひどいことをしたのに」 「なにを言っているんだ。君はもっとひどい目にあってきたんだろう? それにボクはバカだけど身体は丈夫だから、殴られたり蹴られたり銃で撃たれたりってのは、君が思うほどたいしたことじゃあないんだよ」 悪びれず笑うその顔には、一片の曇りも翳りもない。 ああ、この人なら信じられる。 恋とか、愛とか、そんなことじゃなく、心の底から信じても、裏切られることがないという思いが、レイラにとてつもない安心と、安寧を与えた。 ああ、そうなんだ。守ってくれる人じゃなく、愛してくれる人じゃなく、私が欲しかったのは、信じられる人だったんだ。 アイスドールの心は、完全に溶け出してしまっていた。 その裸の心のまま、レイラはあれ以来はじめて、心から安心して、無邪気な笑いを浮かべる。 「ビル……あんた……バカだね」 「うん、そうらしいね」 バカなビルは、天使の笑顔で微笑んだ。
ビルの笑顔は、レイラの心にどんなクスリより、そんな言葉より、圧倒的な安寧と癒しを与えた。 レイラが「あなたが好きだ」と言うと、ビルは心底うれしそうに微笑んだ。そこには、疑いもなければ、卑屈さも、逆に傲慢さもない。 ただ、レイラの言葉をまっすぐ信じ、素直に喜ぶ純粋な心があるだけだ。 何も飾らず、何も含まず、心に思ったことをそのまま言える。相手の言うことを、何の疑いもなくそのまま素直に聞けるというのは、これほどすばらしい事だったのか。 レイラははじめて得た心からの幸せに、有頂天になった。 だが、神様がいるということは、悪魔もいるということである。 ジェームズは大金を積んで出てくると、危険なごろつきを集め始めた。そのうわさは、すぐにレイラの耳に入る。 「ビル、逃げなくちゃ」 レイラがそう言う横で、店の二代目も心配そうにうなずく。幼いころからビルと一緒に育ってきた彼は、レイラ以外では唯一、ビルのことを心配してくれる人間だ。 「仕事なら、ビル、君はもうずいぶんとウチの店のために働いてくれた。少ないけれど退職金だ。これをもってレイラとこの街を出なさい。北の山を越えれば、ジェームズの手も及ばない」 義理堅いビルは、しばらく難色を示していたが、やがてうなずいた。 二人は二代目の呼んでくれたタクシーに乗って、駅へ向かった。 しかし、その途中で不意に、ビルが車を止めろという。どうしたのだと聞くレイラに、ビルは自分のアパートに戻ると言った。 「先に行って、駅で待っててくれないか? ちょっと持ってくるものがあるんだ」 「ダメよ。もう、ジェームズの雇ったごろつきが、そこいらじゅうを探しているんだから」 「大丈夫、すぐに行くよ。大切なものなんだ」 結局押し切られた形で、レイラは一人、駅へ向かった。
列車の出発する時間が来ても、ビルは戻らなかった。 裏切られたのか? そんな思いが一瞬レイラの頭を掠めたが、彼女はあわてて頭を振った。 そんなわけはない。 ビルだけは、決して私を裏切らない。 しかし、時間がたつにつれ、やはり不安は募ってゆく。 と。 一台の車が、彼女の前に停まった。店の二代目の車だ。 ほっと胸をなでおろしたレイラは、しかし、次の瞬間、どくんと心臓が鳴るのを感じる。 車から降りて来たのは、二代目一人だけだったのだ。 不安に押し殺されそうになりながら、レイラは消え入りそうな声で聞いた。 聞きたくなかったけれど、聞かなければならない。 「彼は?」 どうして来ないのか? わかってはいるけれど、わかりたくはない。 そんな思いを裏切って、二代目は答えた。 「死んだ」 短いいらえだが、それで充分だった。 レイラの時間が止まる。 二代目は気の毒そうに、彼の最後を告げた。 「アパートから出てくるところを、ジェームズの雇ったごろつきに蜂の巣にされちまった」 二代目は、血を吐くような面持ちで、レイラに語る。 「どうして……」 レイラは、自分でも言葉を発した意識はなかっただろう。ただ、機械的にそう聞いた。 「これだ」 二代目は、血まみれの紙切れを差し出した。 モデルの書類選考の合格通知だった。 「ビルはいつも、君が本当に元気になるには、やっぱりやりたい仕事をするべきだって言っていたんだ。それで、君に内緒でいろいろな所に書類を送っていたんだよ」 「バカな……薬をやっていたことは、業界の人間ならみんな知っている。私を使う事務所があるわけない」 「君はビルにもそういったろう? でも、君があきらめても、ビルだけはあきらめなかったんだ。彼は事務所まで実際に何度も足を運んで、君は完全にクスリを断ったこと、今は完全にクリーンだってコトをしつこく訴えたんだ」 「な……」 「ヤツはね、君が輝いていると言ったよ。そして、モデルだったころを知らないと、すごく残念がっていたんだ。あんなにきれいに生まれたんだから、もっときれいにならなくちゃ、神様に申し訳ない。なんて言ってた」 「そんなことを気にして……」 「違うよ。彼は自分がいるから君の負担になるなんて、微塵も考えていなかった。君が彼を愛しているという言葉を、心の底から信じていたからね。自分がどうのじゃなくて、単純に、君にもっと輝いて欲しかったんだろう。あいつは、そう言う男だったじゃないか。君が一番わかっているだろう?」 ここでついに、張り詰めていたものが切れた。 レイラはもう、ボロボロと流れ出す涙を止められない。 そのままその場に崩れ落ちると、顔を覆って嗚咽した。 ああ、ああ、ああぁぁぁぁぁ…… 魂が消え入るような、それでいてはちきれそうな思いを含んだ、とてつもなく悲しい泣き声だ。 やっと素直になれたのに。 やっと出会えたのに。 すべては手のひらをすり抜けて、滑り落ちてしまった。 こんなに苦しいなら、こんなに悲しいなら…… 出会わなければよかった。 心の底からそう思った。 誰も信じられなくても、誰にも心を開けなくても、こんな思いをするよりはずっとマシだっただろうに。 砕けて散らばった心。 拾い集める気にもなれない。 もう、どうにでもなってしまえばいい。 結局、世界は変わらず、あの人は約束を守れなかったじゃないか。 もういいよ。 もう、心を凍らせて生きてゆくよ。 レイラはまるで子供のように、声を上げて泣き続けた。 すべてが理不尽だった。 と。 黙って立っていた二代目の優しい声が、レイラの後ろから聞こえてきた。 「彼を愛したことを、後悔しているのか?」 当たり前じゃないかと吼えようとしたが、怒りに任せて叫び返すには、その声はあまりにも慈愛に満ちていた。 レイラはうずくまって背中を向けたまま、小さく泣き声をもらしながら、しかし、心のどこか隅の方で、言われたことを反芻していた。 二代目はもう一度繰り返す。 「後悔しているのかい?」 穏やかな声は、震える背中に溶けてゆく。 レイラの嗚咽がやんだ。 そして…… ゆっくりと上げた顔は、涙にぬれて化粧もはげてしまっていたけれど、まぶたも腫れてしまっていたけれど……美しかった。 ビルの愛した、美しいレイラだった。 涙をぬぐいもせず、レイラは遠くを見る。 心の中には……あの人の笑顔。 後悔……? 振り返ったレイラは、泣き笑いをしながら首を横に振った。 「いいえ、後悔はしていない」 言ってから、自分の言葉に勇気付けられたのか。 レイラはすっくと立ち上がる。二代目の手から、血まみれの合格通知を受け取ると、事務所の場所を確認する。 あの人のくれたものだ。 あの人の想いの詰まったものだ。 わたしは、やれる。 わたしは、やる。 くるりときびすを返し、レイラは駅の入り口へ向かって歩き出した。 それから、思い出したように二代目に向かって、一度だけ振り向く。 そして、今度は、はっきりと微笑んだ。 「後悔なんてしない。絶対に」 その笑顔は、誇りに満ちていた。 |