| 救世主 |
|
その女は、唸るほどの金をもてあましていた。 世界的に有名なミュージシャンである夫が死んだ時、彼女の下に残されたのは、税金を差し引いても、普通のサラリーマンと同じ暮らしをすれば、五千年は暮らせると言われるほど莫大な財産だったのである。 それだけ持てば、大抵のことはやり尽くしてしまう。 そんな彼女が心の底から求めたのは、彼女の背後にある金を見ないで、彼女を愛してくれる人間だった。しかし、当然のことながら、そんな者はこの世に見出すべくもない。 普通ならそこで、刹那的な快楽や、より財産を増やす方向に走るところだろう。しかし、彼女は違った。彼女は一番欲しい者を作り出すことにしたのだ。 冷凍された夫の精子を使って、彼女は自分の子供を持った。その事実は、マスコミを筆頭とする世間の好奇の目から完全に隠された。それだけの力が、彼女にはあったのである。 彼女は息子を、まったく人と会わせなかった。 完全に整えられた環境の中で、息子は彼女以外の人間を知らずに育った。いや、知らないと言うのは正しくない。彼女は彼女以外の人間が、どれだけ醜い生物かと言うことを、ひたすら息子に教え刷り込んだのだ。 息子にとって彼女以外の人間は、まったく、恐怖の対象でしかなかった。 息子は薄汚れた世間の垢とはまったく無縁に、純粋培養されていった。 息子は母だけを愛し、母は息子だけを愛した。 彼女は世界中の誰もが持ち得ない、まったく完全に愛と信頼を持ちえる存在を得たのである。彼女は有頂天だったが、しかし、その時間はさほど長くは続かなかった。 息子が彼女と哲学について語り合えるほどになったとき、彼女は自然の摂理……老衰によって、天に召されてしまう。 後に残されたのは、人間の素晴らしい部分のみを濃縮した、純粋培養の集大成であった。 多くの時間をくだらない娯楽に費やすと言うことを、彼は知らなかった。競うことを知らず、己を高めることのみを教わってきた人間は、世のありとあらゆるゲームというものに、まったく興味を持つことがない。 彼には優越感や達成感は存在しないのだ。彼は母から受け継いだ莫大な遺産を持って、争いと裏切りが待つ世間に飛び出さざるを得なかった。 もっとも、中途半端な資産ではないから、それを掠め取ろうとするヤカラも、悪党同士お互いに潰しあってしまい、彼がいきなり無一文になるということもなかった。
彼は莫大な資産と、純粋培養された美しい心、娯楽に費やされるはずの時間を学ぶことに費やしたがための博覧強記を持って、政財界に踊り出た。 彼の生い立ちを知った人々の反応は様々だったが、少なくとも彼を陥れることは非常に難しかった。なぜなら彼はその生い立ちがゆえに、世界中全ての人の心配の的となったのである。 あの素晴らしいミュージシャンの隠し子であり、世間をまったく知らない大金持ちのお坊ちゃん。そんな境遇でありながら、賢く、心美しく、人を騙したり、卑怯なところがまったくない。 人々が、高貴なる者はこうあるべしと思う通りの、まさに、完璧な貴族だったのだ。彼に比べれば、世界中のどの王族さえかすむ。 彼を騙したり陥れようと画策するものは、世界中の人間に袋叩きにされるだろう。彼はあまりに極端な潔癖さと資産とによって、まさに不可侵の存在となったのである。 恐ろしいはずの世間が、圧倒的に自分の味方であるという事実は、彼に自信と行動力を与えた。彼は純粋培養された人間らしい、子供のような無邪気さで、世界の矛盾を指摘し始めた。 今まで恐怖の対象であった人類は、彼にとって最も愛すべき存在になったのである。だからこそ彼は、世界に蔓延する、矛盾や不幸が納得できなかったのだ。 今まで世界中の人間が言っていたことであり、特別目新しくもないこと。 富の偏在と、それに伴う貧困、飢餓、そして死。終わらない戦争、宗教的、イデオロギー的、経済的対立。 これらの解決が、彼の打ち立てたスローガンだった。あまりに大風呂敷なスローガンであるが、しかし、彼だけにはそれを言うことが許される。 彼には莫大な金と、純粋な思いと、圧倒的な民衆の支持があるのだから。 どれも一朝一夕に語れる問題ではないし、人類史上、一度たりとも解決されることのなかった問題である。 彼はしかし、純粋に疑問を持ち、純粋にそれが正しいと信じて、これらの問題の解決に乗り出した。 彼は古今東西のどの聖人よりも、金と力を持っていた。 彼は古今東西のどの政治家よりも、裏表がなかった。 彼は古今東西のどの金持ちよりも、潔癖で純粋だった。 人々は、震えるほどの期待をもつ。彼こそまさに、救世主なのだ。世界中の人間から、彼は圧倒的な支持を得て、世直しに奔走した。 もちろん、いくら彼が賢いとはいえ、政治手腕が高いわけではない。しかし、彼には他の誰もが持ち得ない、強力な武器があるのだ。 純粋である、と言う武器が。 彼の言葉には、私利私欲がない。彼には唸る程の財産があるのだから、私利私欲に走る必要がないのだ。そして世界中の誰よりも、卑怯なことをしない。と言うより出来ないのだ。 キリストが「この中で一度も罪を犯したことのないものは、この女に石を投げなさい」と言うとき、彼だけは石を投げることができるのである。 貧しい者は彼の後を歩き、富める者は彼のを邪魔することが出来ない。彼以上に子供のような純粋さを持つものはいなく、彼以上に富を持つものもいないのだから。 後に熱狂の10年といわれる時は、彼を世界の王にのし上げた。そして、世界は初めての完全な平和を手に入れたのである。
世界中のほとんどの人が、みな等しく穏やかで富んだ生活を送れるようになった。 しかし、世の中にはひねくれ者と言うものが存在する。彼らは地下に潜り、彼の世界へあくまで抵抗を続けた。 イデオロギーや、高い理想、飽くなき信念に裏打ちされた抵抗ではない。単にみんなと同じ生活が嫌だと言う、ひねくれもののわがままだ。 そのために、わずか10年で世界に平和と秩序をもたらした彼の政府は、このひねくれ者たちを説得することに、さらに5年を費やした。完全なる世界を求めて。 だが、もともと論理的に反論している連中ではない。彼らを説得するのは、まったく不可能なことである。それでも、全体から見れば高々1%にも満たない連中だ。彼の世界は、完成したといってもいいだろう。 事実、誰もが、そのことを信じて疑わなかった。
あるときから、彼は巨大な建築物を作り始めた。 その巨大さは想像を超える。 万里の長城に次いで彼の建築物もまた、宇宙から確認できる人工物となった。その建物の中だけで、1億人以上の人間が暮らせるのだ。まさに世界統一の偉業を成し遂げた、彼が作るにふさわしい建築物だ。 人々はその建築物がナンなのか、色々とうわさし合う。その中でも、彼の墓だという意見が、もっとも有力であった。もしくは、彼の母親の墓標ではないか? どちらにしても偉大なる彼、もしくは彼の母親の墓標であるなら、みなが納得できたのである。 そして、建物はついに完成した。そのお披露目の席で彼は穏やかな笑みを浮かべながら、これは私や母の墓標ではないと、うわさを否定する。驚きに、世界中の視線が彼に集まった。 もちろん世界から注目されることになれている彼には、なんと言うこともない。相変わらず静謐な水面(みなも)のごとき態度で、彼は穏やかに宣言した。 「これは新しい人類の子宮です」 驚愕の中、ひとりが彼に問う。 「どう言う意味ですか?」 「言葉そのままの意味ですよ。もはや新しい人類を生み出すことだけが、私にできる最後のことですから」 「我々が滅ぶと言うのですか?」 「正確には、私が滅ぼすのです。このスイッチを押して、ね」 彼の手には、世界統一の過程で集められた、膨大な核爆弾の点火スウィッチが握られていた。どんなシステムよりも、彼に預けておくのが一番安全だと、その時の世界の人々は信じていたのだ。 「なぜです? なぜ、あなたがそのようなことを?」 彼は当然でしょう? といった面持ちで、質問者に答える。 「私は世界の統一のためにがんばってきました。しかし、最後の1%がどうしても統一できない。それではこの世界は、永遠に未完成です。それならばいっそ全てを破壊して、一からやり直すのがいいと思うのですよ」 「そんなバカな! あなたほど純粋で素晴らしい人が」 「それですよ。みなを殺して、世界中の人が私の様に育てられれば、みながその「純粋で素晴らしい」人になれるでしょう?」 「しかし、我々は……」 「あなた方は、失敗作ですから」 強烈な。あまりにも強烈な彼の言葉だった。 愛していた人類は、彼の思うような結果を出さなかったがゆえに、彼の愛と興味を失ったのだ。彼の愛と興味は、すでに次の対象へと映っていたのだ。 彼の創造する、新しい人類へと。 「私はこのドームの中で、新しい人類を作り出します。そのために必要な手はずは、全て整いました。邪魔をするのは勝手ですが、私の手中にはこのボタンがある事をお忘れなく」 「しかし、ドームに入る前にそのボタンをしたら、あなたも死んでしまうのですよ?」 「それならそれで構いませんよ。新人類の誕生計画は、すでに始まってます。完全自動で管理されていますから、私がいなくても計画は続行されるでしょう」 「しかし、あなたは死ぬ」 「私には、あなた方のような欲望はないのです。新しい人類が健やかに生まれ育つこと、それが私の唯一の希望ですから」 「失敗作」たちは恐慌に陥る。しかし、彼の決意は固かった。そして、しかしまた、いまさら残りの1%が反省するとも思えない。もともと、世界など滅びればいいなどと、薬や酒や自分の言葉に酔っ払っている連中だ。 どれだけ脅そうが追い詰めようが、中にひとりやふたりは、自暴自棄で反発するバカもいるだろう。もはや人類の命運は風前の灯。 と、その瞬間。 ばしゅっ! 炸裂音と共に、彼の頭部が吹き飛んだ。 みなが唖然とする中、犯人が歩み出てくる。犯人は、彼を護衛するはずの、ボディガードのひとりだった。誰も動けない中で、彼はポツリと言った。 「来週、俺の子供が生まれるんだ」 説明はそれで充分だった。熱狂的な歓声が上がることはなかったが、しかし、彼が罰せられることもなかった。 世界はこうして救われたのである。
それから数年で、世界は失ったものを取り戻した。活気にあふれているが、同時に暴力にもあふれる世界に逆戻りしたのである。 世界は争乱と混沌に包まれた。しかも、今度はタテマエを言うものさえいない。力の強いものが、弱いものを支配し、搾取する、弱肉強食の掟(おきて)に従うことになった。 だが、だれひとりとして、そのことに文句を言うものはいない。弱いものは喰われ、強いものだけが生き残る、暴力の支配する世界で、彼らは生きてゆくしかないのだ。 世界の誰もが、暴力を否定することが出来ない。 それはそうだろう?
世界は暴力によって救われたのだから。 |