くもの糸

神さまは、ほんの気まぐれを起こして、下界にくもの糸をおたらしになりました。糸がくだってゆく先にはもちろん、地獄の釜があります。糸はするすると降りてゆき、男の目の前にたれました。

「これを昇ってゆけば、天界に行けるのだろうか?」

男はつぶやくと、くもの糸を伝って昇り始めます。しかし、釜の中から人が宙に昇りだせば、誰だって気づきます。周りにいた連中も、我先にと糸を昇り始めました。

神さまは興味深げな面持ちで、事の成り行きを見守っておられます。

男が下の連中に気づいて、蹴落とそうとするのを待っておられるのでしょうか?  しかし、男は下から昇ってくる連中などには見向きもせず、一心不乱に昇ります。

男の次に昇ってきた者が、下を見て思わず叫びました。

「うわぁ、こんなにたくさん昇ってきたら、糸が切れてしまわないだろうか?」

男はその言葉にちらりと下を見ますが、ふん、とひとつだけ鼻を鳴らすと、またもや上を見て昇りだしました。叫んだ者も一番上の男が何も言わないので、そのまま黙って昇り始めます。

神さまは、意外そうなお顔でその様子を見ておられましたが、やがてにっこりと微笑まれます。どうやら男の行動がお気に召したようです。

男は慈悲深い人間だったのでしょうか?

いいえ、そうではありません。考えても御覧なさい。目に見えるか見えないか、そんな細い細いくもの糸を伝って、天空はるか天界へ昇ろうというのですよ?

手の皮は切り傷だらけ、全身血まみれの汗まみれで、命からがら昇らなくてはならないのですから、他の事などに構っている余裕はないのです。

そのうち、疲れ切った者がバラバラと落ち始めました。釜の中に落っこちて、無念そうに上を見上げる者。もう一度昇ろうと、再挑戦する者。一番上を行く男を、大きな声で応援する者。

人それぞれ反応は違いますが、みな、こころ熱い者たちであることだけは間違いないようです。

一番上の男が落ちそうになると、下から昇ってきた男たちが、大きな声で励まします。逆に誰かが落ちそうになると、上から男が大きな声で応援します。 そうしてみな、一丸となってくもの糸を昇りました。

やがて。

ついに男は、天界まで昇りつきました。

気の遠くなるような重労働に悲鳴を上げる全身を引きずって、男がすっくと立ち上がると、後ろから昇ってくるものたちから、地鳴りのような喝采が沸き起こります。

そして、その姿に勇気付けられ、みなも次々と天界に到達します。

神さまはうれしそうなお顔で、彼らにお声をかけられました。

「良くがんばりましたね? あなたたちは誰一人蹴落とそうともせず、みなで協力し合って、困難な事態に立ち向かいました。この気持ちを、これからも忘れてはいけませんよ?」

みなの表情に、喜びが満ちています。

「さあ、それでは地獄から救って、人間界に戻してあげましょう。今度は楽に天界に来られるように、精進を怠ってはいけませんよ?」

おや?

どうしたことでしょう?

だれひとり、神さまの言葉にうなずく者がいないではないですか。いぶかしげな顔をする神さまに、一番最初に昇ってきた男が、血だらけの顔をぬぐいながら言いました。

「冗談でしょう? どうして元の世界に戻らなくてはならないのです? 我々は、下が気に入っているんですよ?」

「地獄を気に入っている?」

驚く神さまに向かって、みな同時に首を縦に振ります。

「人間界はあなたが仕切っているから、帰りたくありません。あなたは不公平だし、気まぐれだし、わがままですから」

失礼な言葉に、神さまは鼻白みます。

しかし、男たちはそんなことちっとも気にする様子もなく天界を駆け回り、あちこちにひらひらと干されたり畳まれたりしている天界の丈夫な布を、勝手に持ってきてしまいました。

天女や天使が身体に巻いている、あの薄くて丈夫な布です。それらを集めながら、彼らの一人が言いました。

「俺たちはね、地獄が気に入っているんですよ。地獄は厳しくてつらいところだけれど、決まりをきちんと守っていれば、あんたの気まぐれに振り回されるよりは、よほど気楽に生きてゆけるんです」

別の男が言います。

「だいたい、次は楽してこられるように精進を怠るな、なんてひどい言い草じゃありませんか? それじゃあ、まるで生きている間はここに来るための下準備期間みたいじゃないですか」

「そうだ。それに精進って言うのは、自分を高めるためにするんじゃないんですか? そんな交換条件みたいなつもりで精進して、挙句の果てに来られるのがこんなつまらないところじゃ、詐欺もいいところだ」

みんな大声で笑いました。汗にまみれ、血だらけになってますが、なぜかその顔は、誇りに満ちています。

神さまはあきれてしまって、声も出ません。

そんな神さまには構わずに、男は持ってきた布の四隅をまとめると、そばにあったくもの糸で縛りました。どうやらパラシュートを作ったようですね。

準備が終わると、 男は神さまに向かって片目をつむって見せます。

「地獄はとにかく、公平なんだ。悪魔にしろ、閻魔にしろ、やつらは荒っぽいけど、気まぐれに罰したり、気まぐれに助けたりしない。基本的にフェアですからね。俺たちゃ、そこが気に入ってるんですよ」

「それじゃあ、なんでここまで昇ってきたのですか?」

その言葉に、みな同時に答えました。

「退屈しのぎに決まってるじゃないか!」

ああ、かわいそうな神さまは、もはや卒倒しそうです。

「それにね、この布が欲しかったんですよ。地獄の釜ってのは、なかなかにすごいものでして、普通の手ぬぐいじゃあ、すぐにぼろぼろになっちまうんです」

言い放った男は雲の切れ間に立ち、下を覗き込んで、満足げにうなずきました。そして神さまを振り返ると、いたずらっぽく笑って見せます。

「一度これをやってみたかったんだ。それじゃ、みんな、行こうか?」

言うが早いか、回りの男たちはいっせいに雲の切れ間から、大空へ飛び出してゆきました。はるか下のほうで、天界の布で作ったパラシュートが、次々と大輪の花を咲かせます。

最後に残った男は、上のほうを指差して、神さまに言いました。

「俺たちの上に立っていると思うのは勝手ですけどね、あなたも、俺たちをからかって遊んでいる場合じゃないですよ? どうやら、あなたがいるところも、本当の天界じゃないようだし」

その言葉にいぶかしみながら神さまが上を見上げると、宇宙の彼方からたらされた、一本の細い糸。

「ね? 下を見て優越感を満足させている暇に、もう少し上を見たほうがいい。 こんなものをたらされるなんて、上のほうじゃ、ここを地獄か何かと思って、哀れんでいるのかもしれないんですからね。それじゃ、神さま。元気で」

男はそう言うと、大空へ向かって思いっきり飛び出してゆきました。あとに残った神さまは、複雑そうなお顔で、宇宙からたらされた糸を眺めておられます。

昨日まで不満のない世界だったのに、哀れまれていると思ったら、なんだか天界がひどくつまらない場所に思えてきた、と言ったところでしょうか。

神さまは、哀れむことは得意でも、哀れまれることには慣れていないのです。これが自分の生きる場所、生き方に自信を持っているあの男だったら、ふん、と鼻で笑い飛ばしたでしょうに。

しばらくそうしてぽかんとしておられた神さまは、やがて苦虫を噛み潰したようなお顔をなさると、小さく舌打ちして寝所にお戻りになられました。

どうやら、糸のことは無視なさることに決められたようです。

くもの糸は、天界の優しい風に吹かれて、いつまでもゆらゆらと揺れておりました。


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