| ケチャップ・ジーク |
| ウイスキーボトルを抱きしめて、転がる路地裏。 女の肌も、暖かい寝床も、俺の腕の中にあった全ては、ことごとく消えていった。残っているのはポケットに残った数枚の紙幣と、このボトル。 ああ、もうひとつだけ。ケチャップジークってあだ名も残ってら。 ケチャップが好きなのかって?まあ、別に嫌いじゃあないが、俺のあだ名のケチャップは、血を意味してるんだよ。うるせえな、細かいことはどうでもいいだろう? 肩が触れた、目が気に入らない。ケンカの原因なんて何でもいいんだ。とにかく、誰かをめちゃくちゃにして、大量の血を流させれば、それで満足だったんだ。 その頃の俺は、とにかくキレていた。 自分から強引に絡んで、相手が少しでも突っかかって来ようものなら、徹底的に叩きのめすんだ。目を突く、金的を蹴る、何でもやった。 武器を使わなかったのも、別に素手にこだわっていたからじゃない。単純に、警察が絡んで来た時の用心のためさ。 俺は、ひとりの女と暮らしていた。 正確に言うと、その女の家に転がり込んでいた。俺には済むところがなかったから、ランの家が俺の家でもある。 そう、女の名はラン。 コイツがまた、異常に男にモテる。美人っちゃ美人なんだが、そんなことはランの本質の何割でもない。ランがモテるのは、淫猥だからだ。 それも、やらせてくれそうとか、そんな受け身なスケベさじゃない。狙った男を獲り殺すかのような、背筋が寒くなるほど攻撃的な淫猥さだ。 ランは、俺が誰かをぶちのめした後抱いてやると、これ以上ないくらい燃える。根っからそう言うのが好きなんだろうな。 そう言うときのランは、もう、魔性の毒蛇といっていいだろう。いま思い出しただけで、俺の男は痛いくらいに固くなっている。 まともな女が聞いたら、羞恥で真っ赤になってしまうような、いや、むしろ下品すぎてしらけてしまうような隠語を、行為の最中、ずっと叫びつづける。興奮してくれば、そこがどこだろうが、お構いなしに要求してくる。 自分の快感の為なら、なんだってやる、そんな女だ。 誰かを殴りつけた拳や、誰かに殴られた部分の熱がまだ冷めないうちに、俺はその数倍の熱に溶かされながら、ランと交わった。 ランは血を見ないと興奮できない。そのために俺は、だれかれ構わず殴りつづけ、ランを抱きつづけた。 血を見ないとヤれない女を抱く、血まみれの男。 それが俺、ケチャップ・ジークなんだ。
でかい男だった。 胸の厚みが、普通の男の肩幅くらいあるのだ。その大きな身体で、どっかりと座ったまま握り飯を喰らっている、その絵面がまたいい。 「塊感」と言えばよいのだろうか?とにかくそこに、とてつもなく大きな岩か鉄の塊がある、そんな圧倒的な存在感が男のいる周りの空気を満たしている。 そして、そんな強烈な存在感を持ちながら、それでも男が感じさせるのは「安心感」だった。優しい瞳と穏やかな眉宇は、大樹のそばに寄り添うよう時のような安らぎを人々に与える。 フドウ。 それが男の名前だった。 自分から因縁をつけておいて、俺はその塊感にヤられてしまった。怖いかと聞かれれば、そりゃあこれだけの男だ。怖いに決まってる。しかし、その怖さは「恐怖」とは違う。 なんていうか、神々しい山を眺める時のような、なんともいえない怖さだ。う〜ん、なんと言えばいいだろう……ああ、そう。「畏れ」だ。俺は、フドウを畏れていたのだ。 そして同時に、この桁外れにでかくて、そのくせ優しい目をした男に、何ともいえない好意を抱いたことも間違いない。ああ、間違いなく俺は、見た瞬間からフドウが好きだった。 しかし、そんなあいまいな好意よりも、ランが発する妖艶な誘惑の方が、俺にとっては何倍も大事だったってだけだ。 道端で握り飯を喰っているこのでかい男に、俺はいつものように強引な因縁を吹っかけた。歩くのに邪魔だとか、目障りだとか、そんな感じのどうしようもない因縁さ。 フドウは立ち上がる。俺は思わず後ずさりした。ところがこの大男は、そのままひょいと脇へのくと、俺に向かってなんともいえない爽やかな笑みを浮かべて見せたのだった。 「これでいい?」 俺が完全に呑まれて答えずにいると、フドウは困ったような顔でその場に立ち尽くしていた。俺はビビってあとずさった自分に、猛烈な怒りを感じてくる。 傍らのランの目が、妖しく光りだした。 明らかに、目の前のでかい男に欲情しているのだ。いつもなら俺に向けられるはずの、ランの瞳の妖しい輝きを見たところで、俺の理性は完全にはじけた。 先ほど抱いたはかない好意など、微塵に消し飛ぶ。 何のモーションもなく、俺は、いきなり男の股間を蹴り上げた。 と。 まるで車のタイヤを蹴飛ばしたかのような、恐ろしいほどの柔軟さを秘めた、しかし文句なく硬い手ごたえに弾き返される。 フドウは、ひょいと股を閉めただけだ。それだけで、急所を砕いて悶絶させるはずだった俺の渾身の前蹴りは、ぶっとい内腿の筋肉に弾き返されてしまったのだ。 完全に沸騰してしまった俺は、フドウに向かって飛び掛かる。しかし次の瞬間には、岩に張り付くロッククライマーの気持ちを味合わされる羽目になった。 ゲンコツだろうが、タックルだろうが、投げ技だろうが、岩の壁を相手に、いったいどう仕掛けろというのだ? いきなり、目の前が真っ暗になった。 顔の前にざらざらしたモノを押し当てられる感触がして、俺はようやく目を覚ます。目の焦点が合わず、何がどうなっているのか、さっぱり見当がつかない。 むやみに手足をばたばたさせているうちに、だんだんと身体の感覚が戻ってきた。そこで、自分がざらついたアスファルトの上に、うつぶせに倒れていることに気付く。 のっそりと起き上がって初めて、自分の身体がとんでもないダメージを抱えていることがわかった。まっすぐ立つことさえ、容易じゃない。 口から流れる自分の血と、フドウの右手のひらについた血を見て、やつのグローブみたいに分厚い手のひらで張り飛ばされたのだと、遅まきながら見当がつく。 「このやろう」 「これで、あいこですよ?それじゃ、僕は行きます」 とぼけたセリフを吐くフドウの顔が、そしてそれよりも、奴の周りにまとわりついているランの様子が、俺の怒りに油を注ぐ。 ランがそう言う女なのはわかっている。それを怒っているんじゃない。このまま二人を行かせれば、ランはこの大男の前で、俺の前で見せたような痴態を演じるだろう。それだけが、絶対に許せなかったのだ。 「人の女を奪っておいて、それで済ませるつもりか?」 フドウは困ったような顔で、俺とランを交互に見た。 もちろん俺だって、この大男がランを連れて行こうとしているなんて思ってない。ランが勝手にまとわりついているのだ。そしてその原因は、俺がこの男に負けたからなのだ。 こいつに勝たなくては、俺はランと、それ以上に俺を支えていた何かを失ってしまうだろう。このまま済ますわけには行かない。 俺は靴の先でアスファルトの上にあった小石を跳ね上げると同時に、フドウに飛び掛った。顔に向かって飛ぶ石に注意をひきつけておいて、野球のスライディングをするような格好で、フドウの膝を真正面から蹴りつける。 がつっ 鉄パイプを蹴飛ばした感触とともに、俺はその場に転がった。 なんと言うことだ。関節と言うものは、決して鍛えられるものじゃない。それなのにこの男の膝は、俺の全体重をかけた蹴りを弾き返したのだ。 太ももの筋肉がとてつもなく強いのと、当たる寸前に軽く膝を曲げて、俺の蹴りを膝蹴りで迎え撃つような格好になったのが原因だろう。この身体に、これだけのテクニックを身に付けているのか? 無様に地面に転がった俺のハラに、フドウのけりが飛んできた。 ぼひゅっ! 奇妙な音がした。俺の口から空気が吐き出された音だ。俺はクルマにはねられたみたいに、ごろごろと吹っ飛びながら、道端の電柱にぶつかった。 立ち上がろうとした瞬間、ものすごい不快感が下腹から突き上げてくる。 俺はその場に四つん這いになると、胃の内容物といっしょに血液を吐き出した。涙を流しながら、げえげえと吐きつづける。悔しさと情けなさ、ランを失う喪失感、いろんな思いがごちゃ混ぜになる。 破れた胃袋と、折れた肋骨の痛みで、立ち上がるどころか息をするのもやっとだった。悔しくて、情けなくて、何とか飛び掛っていきたいのに、身体が言うことを聞かない。 俺はいつのまにか、自分の吐き出した血にまみれた真っ赤な吐寫物の中に顔を突っ込んで、あたり構わず号泣していた。 「行きましょうよ」 ランがフドウを促す声を後頭部に聞きながら、俺は血と吐寫物の中でいつまでも泣いていた。真っ赤な汚物の中で泣く男。これから俺のケチャップと言うあだ名は、そんな意味になるだろう。 もうなんでもいい、もうどうにでもなれ。 俺はいつまでもいつまでも、泣きつづけた。 集まっていた野次馬の気配がなくなっても、俺の涙は止まらなかった。悔しさも、情けなさもいつの間にか薄れ、俺はただ純粋に「泣いて」いた。 散々泣き尽くして、冷静になったのか。 さすがに汚物の匂いが気になってきて、俺はゆっくりと顔を上げた。 「はい、これ」 見上げた先には、フドウが微笑んで手ぬぐいを差し出している。 「おまえ……なんで?ランと一緒に行ったんじゃないのか?」 「ああ、あの人なら帰りました。僕、田舎に婚約者がいるんで、他の女の人と一緒にいるわけには行かない、って言ったら、なんだか凄く怒っちゃって」 一瞬あっけに取られてから、俺は吐寫物まみれの顔をくしゃくしゃにして大笑いした。 「そりゃ、怒るだろうな。たぶんあいつ、今までそんな断られ方をしたことないだろうから」 それから二人で近くの公園に行った。薄汚い公衆便所の手洗い水で顔を洗った後、フドウの差し出した手ぬぐいで顔をぬぐうと、なんだかヤケにさっぱりした気分になった。 「大丈夫ですか?」 「ああ、おまえ、あれでも手加減してくれたんだろう?ちぇ、まるっきり相手にならなかったんじゃないか。おまえ、強いなぁ」 はにかみながら、フドウは首をかしげた。 その爽やかな微笑を見ているうちに、俺の心まで晴れやかな、爽やかな気持ちになってくる。 「じゃあ、僕、行きます」 フドウはぺこりと頭を下げると、夜の街に消えていった。 俺はしばらくその場所で立ち尽くしていたが、やがていつもの酒場に向かった。
路地裏でボトルを抱きながら、俺は転がっている。 俺の手の中にあったモノは全て失われた。それでもなぜか、不思議と悔しさや悲しさはない。女も住むところも失った、ただのチンピラだけど、俺の心の中には、なんともいえない気持ちのいい風が吹いている。 明日からどうするかは、もう、決まっていた。 俺はフドウに勝ちたい。そのために出来ることをすべてやるのだ。これまで他人の血で染まっていた俺の身体は、これからは自分の血で染まることになるだろう。 本当のケチャップ・ジークの誕生だ。 いつか必ず、あの男に勝つ。 そしたら、あいつと友達になって、旨い酒を飲むんだ。 それが俺の、今の夢なのさ。 |