| 決戦前夜(マーマレードスプーンシリーズ) |
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「ああ、俺はまた余計なことを考えているな」 低く長いその単車は、真っ暗な高速道路を矢のように駆けてゆく。シートの上でバッカス・バックは大きく頭を振った。 そうして今日、何度目かの雑念……と言うよりむしろ混乱を振り払ったのだけれど、きっといくらもたたないうちに、また同じことを考えるだろうなと言うことも、充分わかっていた。 風は時速200キロ+アルファで正面から叩きつけてくる。海沿いのハイウエイは、いつにも増して風が強い。 走ることに逃げているわけではない。単車に乗るのが好きなだけだ。そう言い聞かせながらも、その走りは、いつもの爽快なものとは明らかに違っていた。 もう何回も、心の奥に沈めようとして失敗している「想い」。隙を見せると、その想いがいつの間にか、またもバッカスの心に浸出してくる。 こんな痛みにいちいち苦悩するほど、俺は若くないはずだ。もう30も半ばなんだぞ? 理性でそう言い聞かせても、何の解決ももたらさない。彼の悩みは、もともと理性でどうなるとか、そういう類の話ではないのだ。 ありていに言ってしまえば、バッカスは失恋し、その痛みに耐えかねていた。 笑わすじゃないか。この俺が、バッカス・バックが失恋に傷ついている? 強がってみても、笑い飛ばしてみても、胸にぽっかりと口を開けた穴は、依然としてそこにある。自分自身をごまかすというのは、なかなかに難しく、しんどい作業であるようだ。 きちんと状況を受け入れ、痛みと向き合う。 それはつらいことだけれど、それ以外に失恋の痛みをきちんと消す方法はない。時はすべてを解決などしてくれないのだ。あいまいに残したままの傷は、あとで必ず痛みをぶり返す。 30年も生きていれば、もちろん、そのくらいのことは充分すぎるほどわかっている。だが、頭でそうわかっていても心の痛みと向き合うことは、非常に難しい。 まず、その痛みそのものが、底知れぬ絶望や、どうしてよいのかわからない苛立ちを伴う。その上厄介なことに、身体の痛みを受け入れるのとは違い、つまらない自尊心や自己憐憫が邪魔をするのだ。 こんなことで悩んでいると知ったら、彼女は笑うだろう。 いや、あきれるだろうか。 何しろバッカスが彼女を失ったのは、もう1年も前のことなのだ。1年も前の恋が、いまだに心に引っかかっている。引っかかっている自分が腹立たしく、自尊心を傷つけられる。 それでも今、彼女が目の前にあわられて両手を広げたら、バッカスは何のためらいもなくその身体を抱きしめるだろう。それが判るから、また余計にいらだたしい。自分の心とは、こうも制御できないものだったのか。 逢いたい……逢いたくない……恋しい……憎い……苦しい…… 思考は堂々めぐり、結局、同じところへ帰ってくる。 と。 はるか先に、ぽつんと赤い灯がともる。 ちいさなテールランプがひとつ。単車だ。あいつも「参加者」だろうか? バッカスは少しだけアクセルをひねった。エンジンが爆音のトーンを上げ、そのぶんだけ速く、テールランプが近づいてくる。 深夜、それも田舎のハイウエイだ。街灯もなく、頼りは自分のライトだけ。相手は間違いなく自分の接近に気づいているはずだが、取り立ててあわてた様子は感じられない。 もっとも、200キロ近い速度だから、あれ以上スピードを上げられないのかもしれないが。 やがてバッカスは前の単車に追いついた。 「へぇ、珍しいな」 バッカスは驚いて声を上げる。それもそのはず、追いついた単車はバッカスのものと同じだったのだ。ヴィ・ツイン・エクストリーム。つまり「究極のV型ツインシリンダエンジン」の名を冠した、HONDAのマシン。 VTX1800。 それが彼らの単車の名前だった。 しかしこの2台は微妙なところで同じとは言い切れない。 ストリートドラッガーに近いバッカスのVTX1800Cに対し、前をゆくVTX1800RS・Retroは深いフェンダー、ぐっと後ろに引かれたハンドル、二本出しのエグゾーストを持った、比較的おとなしめのモデルだ。 とは言え、違うのはスタイルくらいのもので、基本的な性能はそう大差ない。 高速走行では、より上体の起きた乗車姿勢であるRSの方が、一見、不利に思われるかもしれない。 しかしそれは120〜130キロくらいまでの話で、この速度域になってしまえば、どちらも単車に張り付いているのが精一杯。どんぐりの背比べである。 もともと、そういう風に走るための単車ではないのだから、当然と言えば当然の話だ。 と、RSのライダーが、ちらりとバッカスに目を向けた。 バッカスは左手を離し(カウルのないバイクで200キロ近くで片手を離すのは、なかなか恐ろしいものなのだが)クイクイと飲み物を飲む動作をし、その後、前を指差した。 休憩しないか? と言う意味のハンドサインである。 相手は小さくうなずく。 二台は並んで、サービスエリアに入った。 バイク用のパーキングスペースに入れると、お互いにヘルメットを脱ぐ。その瞬間、バッカスは驚いて言葉を失った。 「女だとは思わなかった、って顔だね?」 いたずらっぽく微笑んだ相手は、右手を差し出した。この手でこんな大きな単車を操れるのか? と不思議に思えるほど、その手は細くしなやかであった。 あわてて右手を出しかけて、それが汗で湿っていることに気づくと、バッカスはレザーベストにこすり付けてから、改めて差し出す。しかし、長いこと風雨にさらされたベストは、タオルの代わりと言うわけにはゆかないようだ。 「かえって汚れたみたいだね?」 女は面白そうに微笑みながらそう言い、それでもバッカスの薄汚れた手を握った。 「ニナ・ハルトヴィック」 名乗ったあと小首を傾げた彼女に見とれていたバッカスは、あわてて言い返す。 「バッカス・バックだ」 「ふふふ、その名前で下戸(げこ)じゃないよね?」 ニナの言葉に、バッカスはムダに胸を張って大きくうなずく。 「酒は俺のガソリンだ」 「そう。それじゃ、向こうで呑(や)りながら話しましょうか」 もう一度大きくうなずくバッカスを見て、ニナは満足そうに微笑むと、さっさと歩き出した。 パーキングに併設されたスタンドバーの止まり木に腰掛けて、出てきたエールで乾杯をしたあと、バッカスはようやく主導権を握る。 「やっぱし、「参加者」なのかい?」 ニナはこくんとうなずくと、エールをごくりと干して、空のグラスをバーテンダーに掲げて見せた。間髪いれずにおかわりがやってくる。 「女じゃいけない?」 「いや、そんなことはないさ。誰だって事情ってものがあるだろう。詳しくは聞かないが」 「まあ、失恋して自棄(やけ)になったとか、そんなかわいい理由じゃないことだけは確かよ」 思わず呑んでいたエールを吹きだしそうになりながら、バッカスはあわてて取り繕う。まさか自分がそうだなどとは言えないではないか。 「ま、理由なんかなんでもいいさ。こんなイベントに参加しようなんてヤツは、どっちにしろ頭のねじがニ三本飛んじまってるに決まってんだから」 「あらま、ずいぶんな言われようだこと」 そう言いながらも、決して気分を害したと言うわけでないらしく、ニナは肩をすくめて苦笑いした。 「どっちにしろ、明日の朝までは仲良くやれるってことだな」 「ま、ね」 どちらからともなく杯を掲げ、軽くぶつけたあと、二人とも一気に飲み干した。 「お楽しみのところ申し訳ありません。もしかして、あなた方は「レース」の参加者でいらっしゃいますか?」 二人そろっておかわりを注文したところで、突然後ろから声がかかる。振り返ると、分厚い生地のワーキングスーツを着た男が、めがねの奥からニコニコした瞳を見せて立っていた。 「そう言うあんたも、ご同様だ」 バッカスにうなずくと、男はバーテンに向かって自分のエールを注文した。それから二人に微笑むと、バッカスの隣に席を取る。 「私もご一緒させていただいて?」 バッカスとニナはうなずいた。 「ありがとう。私はオーギュスト・エアハルトと言います。おふたりは、表のVTXですか?」 「ああ、そうだ。それで、あんたはアレかい? あそこに停まってるごっついブルーのスティングレイかい?」 「アレは俺のマシンだよ、兄さん」 今度は反対側のボックス席から声がかかる。 身体をねじってそちらを見ると、脇に金髪の美女を抱えた大男が、ニヤニヤしながら手を振っていた。 「ちょいと取り込み中なんで、ここから失礼させてもらうよ」 そういって大口をあけて笑うと、それきりバッカスたちに興味を失ったのか、大男は美女の耳元に口を寄せて、何事かささやき始めた。 「私はその向こうに止めてある、911GT2です」 ワークスーツの男、オーギュストの言葉に、バッカスとニナは一瞬声を失った。 「げ、GT2? 最速のポルシェじゃないか。キタネエなぁ」 「そう言いながら、絶対負けないぜ? って顔をしていらっしゃいますね」 男がそういって笑うと、ニナが唇をゆがめて言い返す。 「そりゃ、「レース」に出ようなんてやつらは、みんなそうじゃないの?」 「違いねえ、がははははは」 バッカスの豪快な笑いにつられて、ニナとオーギュストも笑う。そこへ先ほどのスティングレイの大男がやってきた。 「ちぇ、こっちのほうが楽しそうだ。俺も混ぜてくれ」 言い終わる前に、ニナの横に陣取った。ニナは苦笑すると、無言のまま二人に確認を取る。二人がうなずいたのを見ると、大男はにやりと笑ってグラスを掲げた。 「ブルーノ・アデナウア。明日、世界最速になる男だ」 「け、太っちょのアメ車が、言ってらぁ。ハイウエイ上の超高速ハイラインバトルってんじゃねえんだぜ?」 まぜっかえしながら、バッカスも杯を掲げる。 実に気分がいい。 あれほど悩まされていた失恋のことも、もはやどうでもよくなってきた。もっとも、彼らと別れて一人になったあとも同じ気持ちでいられるかは、保証の限りではなかったが。 「金髪のお姉さんはいいの?」 ニナがからかうと、ブルーノは大真面目な顔で胸を張った。 「あたりまえだ。俺が行くまで何時間でも待つさ」 「おお、すごい自信だ。さすが暫定世界最速」 「ち、まじめそうな顔して、あんたもなかなか言うじゃねえか……えっと」 「オーギュスト・エアハルトです」 「俺はバッカス・バック。そっちが」 「ニナ・ハルトヴィック」 「ニナか。いい名前だ」 「おいおい、俺たちゃ無視か?」 「当たり前だ。男なんざ十羽ひとからげで充分」 「ものすごくわかりやすい、対人評価基準をお持ちなんですね」 また一通り、げらげらと笑い声が上がる。 と、不意に奇妙な顔をしたブルーノが、大きな身体をねじってニナのほうを向き、その大きくて美しいブラウンの瞳を覗き込みながら言った。 「でよ、なんでクルーザなんだ? 同じHONDAにしたって、もっと早い単車があるだろうに」 その言葉にニナはにっこり笑うと、バッカスを見た。バッカスもうなずいて、二人で同時に大きく息を吸う。 せーの。 「大きなお世話だ!」 同時にオーギュストが吹きだした。ブルーノは照れくさそうにぼりぼりと頭をかきながら、肩をすくめる。 「ま、そりゃそうなんだけどよ。後学のために、聞かせてくれよ」 「バッカスのほうは知らないけど、私は単純。三年前の、つまり単車としては前回の優勝者がVTXだったからよ」 「あ? そうだっけ?」 首をかしげたブルーノに、オーギュストがうなずいてみせる。 「俺はもっと単純だ」 バッカスの言葉にピンときたのか、ブルーノはにやりと唇を吊り上げた。そして今度は、このふたりが同時に叫ぶ。 「それしか持ってないからだ!」 ニナとオーギュストは目を丸くして、それから笑い出した。 すっかり意気投合した四人は、かなりの勢いで杯を干してゆく。 たとえばこれがただの町の酒場で出会ったのなら、ニナはブルーノのような女たらしとはクチも聞かなかっただろうし、ブルーノはオーギュストのようなまじめそうな男とは、同じ酒場で飲むのも嫌がっただろう。 オーギュストはバッカスの行くような酒場には、決して顔を出さないだろうし、バッカスもニナのような女なら、いや、これは喜んで声をかけるに違いないか。 とにかく明日になれば、命をかけた「レース」に参加すると言う、仲間意識、いや、共犯者意識に近いものが、彼らの間を取り持ったと言ってよかっただろう。 「しかし、なんでみんなレースなんかに出る気になったんです?」 茹で上がったように真っ赤な顔をしたオーギュストが、思いついたように口を開いた。 その一言で、それまで漂っていたまったりした雰囲気の中に、ピンと緊張が走る。気づいたオーギュストは、あわてて両手を振った。 「いや、ごめんなさい。くだらないことを聞きました。理由なんかそれぞれですよね。詮索する気はなかったんです。勘弁してください。まいったな。ちょっと呑みすぎたみたいだ」 ふっと緊張が緩んで、それぞれの口元がほころぶ。 バッカスはエールのグラスを干し、バーテンダーに掲げて見せてから、オーギュストに向かって自嘲気味に言った。 「いいさ。俺なんかたいした理由じゃないし。惚れて惚れて惚れ狂った女に、スパっと振られちまったんだ。そんなもん慣れっこになってると思っていたのに、今度ばかりは参ったよ。もう、一年も忘れられないんだ」 「それで、ヤケクソになって、ってこと?」 そういわれて、バッカスははたと考え込む。 果たしてそうだろうか? いや、そうじゃないような気がする。 それじゃあ、いったいどうして俺はレースに出るのだ? みなはバッカスが答えを考えている間、根気よく待ち続けた。 やがて、答えが出たような気がしたバッカスは、ニナに向かってにっこりと微笑むと、ゆっくりと首を横に振った。 「いや、そうじゃない……と思う。ははは。自分でもよくわからないけど、そう言う感じじゃないんだよ。なんて言うか……そう、自分を哀れみたくなかったんだ」 「自分を哀れむ……?」 「ああ、そうだ。彼女を失ったことは悲しいし、つらいんだけど、でも、その状況に酔っ払いたくなかったんだ。本当に惨めなのは振られたことじゃなくて、きっと、そんな自分を哀れむことなんだと思うんだよ。つーか、だいたい悲劇の主人公って柄じゃないしな。ははは」 と笑いながら、不意に。 ( ああ、胸のつかえが取れた) 突然にバッカスはそう感じた。この一年、もやもやと胸の中でしこっていたものが、いっぺんに霧散した感じだ。 ああは言いながらも、ついさっきまでの自分は、自分自身を哀れんで、行き場のない堂々めぐりの想いに押しつぶされかけていたのだ。ニナのヤケクソと言う言葉も、ある意味的を射ていた。 しかし、話しているうちに気づいたのだ。 今までは、自分の内面と向き合っているようで、実は瞳をそらして逃げていただけだったと言うことに。こうしてつかえが取れてしまった今になって、それをはっきりと感じる。 みなに自分の気持ちを正確に伝えたくて、真剣に考えて言葉を選んでいるうちに、知らず知らず回答を見つけ出していたのだ。 これだけでも、レースに出場することを決めた甲斐はあったな、と、バッカスは吹っ切れた頭で考えた。 「ま、俺に比べりゃ、充分たいした理由だぜ、バッカス」 ブルーノは苦笑いをしながら、もう何十本目になるかわからないエールを空ける。その様子をみなが見つめているのに気づくと、ブルーノは肩をすくめて話し出した。 「金さ。俺の妹が……まあ、詳細はいいや。俺の目的は、つまり金なんだ」 「でも、このレースに賞金なんて出ませんよ? 得られるのは名誉だけです。しかも社会的には何の価値もない、非合法の名誉。知ってるでしょう?」 不思議そうな顔をしたオーギュストに、ニナがエールのおかわりを差し出しながら言う。 「バカね。その名誉がお金を生むんでしょ? レースの優勝者なら、それこそ引く手数多(あまた)だもの。たとえ表立って称えることはできなくても」 「ああ、なるほど。でも、それって極めて普通の動機ですよ。別にそう卑下することもないでしょう?」 穏やかに発せられたオーギュストの言葉に、ブルーノは一瞬、救われたような顔をする。それからあわてて思い返し、ふんと鼻を鳴らした。 「バ〜カ。俺ぁ別に卑下なんてしてねえよ。そう言うお前はどうなんだ? 気の弱そうなお前が、なんでレースに?」 オーギュストは手に持ったエールを一息で飲み干すと、にやりと笑って言った。 「もちろん、ポルシェ911GT2最強の証明ですよ。当たり前じゃないですか」 一同、ぽかんとしたあと、大爆笑。 バッカスが腹を抱えて笑いながら、ブルーノに意地悪な視線を向ける。 「けけけ、オーギュストが一番、このレースの出場者らしい理由じゃねえか。よう、ブルーノ。キャラ的には、お前のセリフだぜ、これ?」 「へへ、違ぇねえ」 流れ的にはニナの番だったが、しかし、誰もそれを言い出すことはなかった。そのままあえてバカ話に興じる。 すると、突然ニナが手を上げた。 「ねえ、あたしの話は聞いてくれないの?」 「ニナ、別に無理に話さなくても……」 言いかけたバッカスに微笑むと、ニナは首を振った。 「ううん。聞いてもらいたいのよ。今しか言う機会はないでしょう? 明日になれば、お互い敵同士なんだから」 その言葉に、みなはニナの話を聞く態勢に入った。 「ちょっと重たいかもしれないけど、聞いてもらいたいの。あんたたちにはね」 三人がうなずくのを待って、ニナは続ける。 「あたしはね、父を殺した相手に、復讐するために出るのよ」 唖然。 誰ひとり口を開くものはいない中、ニナは淡々と語る。 「犯人はね、わかっているのよ。日本人とドイツ人のハーフでね、ドイツ人の父親のほうは、私の父と同じ人間なの」 「…………?」 「つまり、私の父親を殺したのは、腹違いの兄なのよ」 ニナは、おそらく意識的にだろうが、感情を殺した声で話し続けた。 「もっとも、直接殺したというわけではないのよ? 兄が家を飛び出したことで、両親はひどく悲しんだの。母は自分が義母だからじゃないかと自分を責め、父は自分が兄の母を忘れたと思われたのではないかと悩み続けたわ」 「しかし、そんな……」 思わず声を上げたブルーノは、あわてて黙り込む。 その顔に微笑むニナ。 「ある意味では、私も兄と共犯かもしれない。あまりに落ち込んでいる両親を見て、私は気晴らしの旅行を勧めた。だけど、その途中、二人を乗せた列車は……」 不意に言葉が途切れると、ニナは肩を震わせた。 三人は黙ったまま、彼女を見つめていた。 哀れむ必要はない。慰める必要もない。彼女はそれを自分で克服する力を持っている。でなければ、どうして女一人、こんな過酷なレースに出場しようとするだろう? やがて落ち着いたニナは、涙をぬぐって微笑んだ。 その顔は、ひどく美しい。 三人は思わず息を呑んだ。 「私はずっと自分を責めたの。でもね、最近ようやく思えるようになって来たのよ。こんな風に悲しんでも、両親はきっと喜ばないだろうなってね」 「ああ、そうだな」 声を出したのはバッカスだったが、その脇でブルーノとオーギュストも激しくうなずいた。同じくうなずいたニナは、急に明るい顔になると、いたずらっぽい口調でしゃべりだした。 「だけどさ、私だけそんな想いをするなんて癪じゃない? だから、兄にも同じ思いをしてもらおうと思ってるんだよね。だけどあのバカ、どこにいるのか見当もつかないのよ。それで、レースに出ることに決めたわけ」 ニナの明るい様子に、男三人は救われたようにため息を漏らした。 そしてこんどこそ心底楽しんで、三人は飲んだくれる。 しばらくして、バッカスが思いついたように言った。 「でもよ、ニナくらいいい女なら、こんなレースじゃなくても、モデルとか芸能人になれば有名になれるんじゃねえの? アニキが連絡とって来るのを待つなら、そのほうが手っ取り早くねえか?」 「ありがと。話半分でもうれしいわ。でもね、それじゃあ駄目なのよ。私がただ有名になっても、兄は連絡なんかしてこないはず。もともとそれほど仲がよかったわけじゃないから」 「じゃあ、レースでも一緒じゃないんですか?」 「ううん。このレースなら別。だって、兄は……三年前の優勝者なんだもん」 散々驚かされてお腹いっぱいなはずの三人は、しかし、また驚愕に言葉を失う。 「なるほどな。それでVTXなのか」 「そゆこと」 人差し指を立ててコケティッシュに笑うニナをまぶしそうに見ながら、ブルーノが大声を上げた。 「さてと、夜も更けたことだし、そろそろ駐車場にテントを張って寝ようぜ。明日になれば、お互い敵同士。今晩の話は聞かなかったことにするんだ」 「ああ、そうだな」 「そうですね」 「ま、勝つのは私だけどね」 口々にそう言って立ち上がったところで、カウンターの奥から声がかかる。 「私も楽しい時間を過ごさせていただきました。奥の部屋に設備がありますから、よかったらベッドでゆっくり眠ってください」 バーテンダーが穏やかに微笑みながらこちらを見ていた。 「へえ、いいのかい?」 「ええ、皆さんには万全な体調でレースに臨んでいただきたいんですよ。じつは私、今度のレースを非常に楽しみにしているんです」 この粋な計らいに、四人は両手を挙げて喝采を送った。
スタート地点に、二輪、四輪あわせて数十台のマシンが集まっている。そしてそれらを操る どの顔にも、厳しい決心が垣間見えた。 と。 メタリックブルーのコルベットスティングレイのそばに、真っ白なポルシェ911GT2がすいと寄せてくる。 ウインドウが開いて、中からオーギュストがブルーノに向かって何事か叫んだ。ブルーノはいったん無視しかけたが、思い直してウインドウを空けると怒鳴った。 「うるせえぞ、オーギュスト。昨日のことは忘れろって言っただろうが! 今日はお前ら全員敵なんだ!」 「わかってますよ。ただね、ひとつ考えがあるんです。ニナのお兄さんなんですけど、おそらく勝った人間がニナの名前なり何かサインを送れば、接触してくると思うんですよ」 ブルーノはその言葉を聞いてしばらく考えたあと、合点がいったようだ。強くうなずいて、オーギュストに怒鳴り返した。 「わかった。優勝インタヴューの時にそう言ってやるよ」 するとオーギュストは首を横に振る。 「違いますよ。僕がそう言いますから、そしたらあなたも協力してくださいって言いたかったんです」 それだけ言うと呆れ顔のブルーノにピースサインを出して、オーギュストは車群の中へ姿を消した。ブルーノは苦笑してつぶやく。 「いまどきピースサインはねえだろうが」
一方、こちらは参加車両のひしめく中に並んだVTX二台。 「ねえ、バッカス」 「OKだ。俺はかまわねえぞ」 「え? 何言ってるの?」 「だからアレだろ? このレースが終わったら、俺とつきあいたいってんだろ?」 「バカ! 違うわよ。あのね、優勝したらお金が入ってくるじゃない?」 「ブルーノの妹だろう? わかってるよ。俺の目的は、もう達成されてるし、金に興味はねえよ」 にやりと笑って親指を立てたバッカスは、アクセルをひねった。 ばるるん! と爆音を響かせて、VTXーCが走り出す。 その後ろ姿を眺めながら、ニナはいままでで一番やさしく微笑んだ。 「あんたの後ろ姿、バカ兄貴に似てるよ」 「そうかい? そういや、兄貴の名前、なんていうんだ? 俺が優勝インタヴューで思いっきり悪態ついてやるよ」 「ノブナガ。ノブナガ・ムラタって言うの」 「はん。ムラね。OK、わかったよ」 「まあ、わかってもしょうがないけどね。勝つのは私だから」 「ぬかせ」 ブザーがスタート準備の合図を告げ、全車いっせいに爆音を轟かせる。
そして。
スターティングフラッグが、ぬけるような青空にひるがえった。 |