蛇口
「金がねえなぁ……」

不景気なセリフをつぶやいた俺は、パイプベッドの上にごろりと横になった。やることもなく、金もない。腹も減っているんだが、冷蔵庫は空。我ながら情けなくて、ため息しか出てこない。

金がなきゃ働けだって? 残念ながら仕事もないんだ。もちろんこんな男だから、使ってくれる職場もない。と言うよりその前に、就職情報誌を買う金さえないのだ。

持っていた服も、売れるものは全部古着屋に売ってしまったし、家賃も限界まで溜め続けている。来週には、このアパートを追い出されるのは、もはや決定事項。

衣食住と、ナイナイ尽くし三冠王だ。いや、笑い事じゃないんだけどね。

とにかくまずは、ぐうぐうと鳴る腹をどうにかしなくては。と言ってもこの状況では、水でも飲んでごまかすしかない。かろうじて水道と電気は止められていないので、水かお湯ならまだ手に入るのだ。

4畳半ひと間のおんぼろアパートだから、ベッドから流しは見えるのだが、部屋中にあふれたいろいろな物のために、そこまで一直線に行くことができない。ま、独身の男なら、見慣れた光景だろう?

俺はベッドから降りると、雑誌やゴミにあふれた畳4枚半分のジャングルの中を、俺だけにわかる獣道を通って流しの前まで行った。

ぐう、ぐう、

ああ、わかったよ、うるさいなぁ。今、とりあえず膨らますだけは膨らましてやるから、黙ってろ。水だけどな。

と、聞き分けのない胃袋を叱りつけながら水道の蛇口をひねる。

ちゃりん!

水道から出てくるには、明らかにおかしいサウンドが響いた。

なんだ? と思って流しを見ると、100円玉が転がっている。

あれ? なんで? 思いながら手を伸ばすと、その手の甲に何かがぶつかった。反射的に手を引っ込めると、それは流しに転がって、ちゃりん! と音を立てる。

俺は固まったまま、水道の蛇口を眺めた。今度は見逃さない。蛇口から銀色の物体が、にゅーんと出てきて膨らむと、100円玉の形になって、ちゃりん、と落っこちてくる一部始終を、俺は唖然としながら目撃した。

いったいどうなっているんだ?

などと考えても仕方ないことを考えてる暇はない。

とにかくこの状態をキープすることが先決だ。俺は細心の注意を払って蛇口に触れないようにしながら、台所の周りを片付けた。

ちゃりん、ちゃりん、ちゃりん。

心を洗われるような、美しい調(しらべ)が、4畳半に響き渡ってゆく。俺はあまりの幸運に、まるでクラシック音楽を聴くかのように陶然としながら、流しが100円玉に埋まってゆく夢のような光景に見入っていた。

と、とんでもないことに思い当たる。

ありゃ、ヤバいんじゃねえか? うん、確か今日だったような気がするぞ?

あわててゴミのジャングルを探ると、何とか目的の葉書を引っ張り出した。

「水道停止のお知らせ」

ジーザス! やっぱり。こりゃまずいぞ。今日の午後には水道を止められてしまうじゃないか!

俺は流しの100円玉を引っつかみ、水道料を支払いに走った。俺の人生で、ここまで全力疾走したのは、生まれて初めてだったろう。心臓が早鐘を打ち、胸が焼け付くように痛かったが、それでも俺は走った。

郵便局に滑り込み、延滞料を含めた水道料金を払うと、心の底から安堵のため息が漏れる。九死に一生を得る、と言うのは、こんな気持ちを言うのだろう。

それでも不安をぬぐいきれないまま、やっぱり走ってアパートまで帰る。陸上選手並みのストライドで階段を駆け上ると、鍵を開けるのももどかしく、部屋の中に飛び込んだ。

ちゃりん、ちゃりん。

大丈夫だ。

俺はすっかりご機嫌で、部屋の中を飛び回り、勝利のダンスを踊りまくる。

それからまた百円玉を山盛りつかんで、近所のホームセンターに走った。そこで雨どいと丈夫なバッグを買ってくる。買ってきた雨どいを蛇口の下にセットして、その先にバッグを置く。100円玉は雨樋を滑り落ち、バッグにたまっていった。

くっくっく。

震えるような喜びが湧き上がってくるのを、とめることができない。

さてと、今夜は祝杯と、豪華な晩餐だ。今度は余裕を持ってゆっくりと、俺は近所のスーパーへ向かう。酒や食い物を大量に買い込むと、迷惑そうな店員の顔などものともせず、すべてを100円玉で払う。

しかしまあ、いつまでも100円玉で買い物をしているわけには行かないな。いずれ銀行に行って両替してもらわなくてはならないだろう。まあ、それくらいの事はなんてことないさ。

なんたって、これからは蛇口をひねるだけで大金持ちになれるんだから。

 

たまった家賃もすべて払い、冷蔵庫には大量の高級食材。俺はあの日から、まさにこの世の栄華をほしいままにしている。

しかし人間、何事にも慣れるものだ。大量の100円玉を抱えて銀行に行くことが、だんだん億劫になってきた。かといって銀行に取りに来てもらうのは、ちょっとためらわれる。

万が一にも、俺の秘密を見られるわけには行かないからだ。こればかりは仕方ないとあきらめるしかないようだ。

もっとも、あれから蛇口は開けっ放しになっているから、すでに俺の預金高は、たいそうな額になっている。万が一ここで蛇口が壊れても、もう、生活に困ることはない。

俺は金の卵を産むガチョウの腹を裂く愚を犯さないよう、今まで蛇口には指一本触れなかった。しかし、そろそろいい時期だ。もう、最低限必要な金は手に入れた。蛇口をもう少しひねってみよう。

恐る恐る、蛇口に手を伸ばす。これで万が一金が出てこなくなったら、やっぱりあとで後悔するんだろうなぁとも思ったが、好奇心には勝てない。

それにもしかしたら、もっとハイペースで100円玉が出てくるかもしれないのだ。

ぐり。

ついにひねった。

と、一瞬、100円が出てこなくなる。くそ、やっぱりだめだったか! なんともいえない汗が噴出すとともに、全身の力が抜ける。あ〜あ、と言う落胆の声は、しかし、次の瞬間、歓喜の叫び声に変わった。

ちゃりん!

なんと! 蛇口からは500円玉が出てきたのだ!

いぃぃぃぃぃぃヤッホーゥ!

俺は賭けに勝った!

勇気を得た俺は、さらに蛇口を開ける。もはや確信に近い予想通り、蛇口からは千円札が出てきた。何で今までビビって開けられなかったんだろう。今までの100円玉が、全部お札だったら……

損したなぁとつぶやきながら、しかし、喜色満面で、蛇口をさらにひねる。やはりと言うか、当然と言うか、今度は一万円札が出てきた。蛇口から次々と吐き出される一万円札は、俺の4畳半を埋め尽くしてゆく。

俺は一万円札のじゅうたんの上で、奇声を上げながらごろごろと転がった。いや、誰だってこんな状況なったら、同じようにするに決まっているさ。

ひとしきり喜びに浸った後、俺はまた蛇口の前に立った。そう、ここまでくればやることはひとつ。俺は意気揚々と蛇口を全開にした。今度は札束が出てくるのだろうか? さすがにこの先は予想がつかない。

と、今度はかなりの時間がたってから(と言ってもものの数分のことだったろうが)札束ではなく、紙切れが一枚吐き出された。

小切手か?! そうきたか!

俺はひったくるようにして、紙切れをつかむ。

そこには天文学的な数字とともに「請求書」の文字が書かれていた。

 

一瞬、頭が真っ白になり、俺は呆然と立ち尽くしていた。

だがしかし、こんなオチでびびるような俺ではない。なあに、今あるだけの金を持って、とっとと逃げてしまえばいいのだ。俺は札束をかき集めると、慌てて銀行に向かった。

いまやかなりの額にのぼっている預金を、全て引き出す。一瞬、差し押さえられているかとも思ったが、さすがにそんなこともないようで、無事、可愛い預金たちをバッグに収めることが出来た。

後はひたすら逃げるだけだ。

安心した俺は、喉の渇きを覚えてコンビニに入った。

ジュースを二、三本買ってコンビニの駐車場で開けると、ぐいっと……

ガサゴソする感触に、俺は思わず飲んだものを吐き出した。駐車場のコンクリートの上に吐き出されたのは、一枚の紙切れだった。

慌てて他のボトルやカンを開けてみる。どれもこれも、俺が開けた瞬間、中身はなくなって一枚の請求書に化けやがる。コンビニのバイトの子に頼んで、俺の代わりにジュースを開けてもらったが、結果は同じ。

俺がつかんだ瞬間に、中身は全て紙切れ一枚に早変わりだ。コンビニのバイトの子は、手品だと思って喜んでいる。普段なら口説くいいチャンスなのだが、さすがにそんな余裕はない。

コンビニの外に出て、駐車場にあった水道の蛇口をひねってみる。

結果はいっしょだった。

なるほど。

金を返すまでは、一滴の水も飲ませないと言うことか。

長いこと悩んだ後、俺は請求書をつかんでコンビニに入った。

さっきの女の子に紙を渡して、支払いを済ます。もちろん使った分があるから、全額とは行かなかったが、それでもあるだけ支払った。

金額の大きさにビックリしながら、「毎度ありがとうございました」と叫ぶ女の子の声を背中に、俺はコンビニを後にした。

おもてで試しに蛇口をひねってみると、どうやら今度は水が出てくる。

ごくごくと水を飲んでから、急にイマイマしくなって、俺は蛇口を思いっきり蹴飛ばした。

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