| 大切なもの |
| みすずはずっと待ちつづけていた。 芯から冷えてくる切れるような寒さの中、朝から暗くなるまで、取り壊し反対のプラカードを抱えたまま、中学校の前での座り込みをはじめてもう一週間になる。最初は大勢いた仲間も、賛成派の雇った地上げ屋の懐柔(かいじゅう)や脅迫に負けて、次々と脱落していった。 それでもみすずは頑として、そこを動かなかった。 もちろん鉄平が帰ってくるわけはない。鉄平は行ってしまったのだから。やさしい鉄平は必ず帰ってくると言っていたけれど、それは遥かずっと昔、ふたりがまだ幼かったころの約束だ。きっと鉄平は忘れてしまっている。 自分だって同じだ。出て行った鉄平と反対に、みすずはこの町に残り、愛する人を得て幸せな家庭も持てた。しかし、息子たちが独り立ちしてすぐ、夫は逝ってしまった。 そのころからひとりの寂しさを紛らわすかのように、ついつい、思い出の中学校の前に足を運んでしまうのだ。そして、恋に恋していた、あのころの甘酸っぱい思い出に浸る。それはいつしか、みすずの大切な日課となっていた。 そんなある日、中学校が取り壊しになるとの報がよせられる。みすずは居ても立ってもいられなくなり、校舎取り壊しの反対運動に参加するようになっていた。 「なあ、おばさん。お仲間は大体言うことを聞いてくれたぜ?後はあんたがうんと言ってくれりゃぁ、八方丸く収まるんだ。こっちは、勝手に壊してもいいんだぜ?それでも思い出の場所を失いたくない、と言う気持ちは解るから、金を払うって言ってるじゃないか」 「金なんか要らないよ。ここは大切な場所だから守りたいだけ」 いつものようにみすずが突っぱねると、地上げ屋は妙な顔をして笑った。 「聞いたぜ?行っちまった男を待ってるんだってな?おめでたい女だ。てめえの旦那が死んだからって、昔の男に鞍替えか?男の方だって、とっくの昔に幸せな家庭を築いてるだろうよ」 みすずは恥ずかしいやら悔しいやらで声が出ない。 わかっている。そんなことはわかっているんだ。亡くなった夫はやさしい人だった。ずっと愛していたし、幸せだった。その夫が逝ってぽっかりとあいてしまった心の穴を埋めたいだけだ。 子供たちはそれぞれに愛する人を得て、幸せな家庭を持っている。だのに私は夫の思い出がいっぱい詰まった家で、一人で暮らしているのだ。 さびしいわけじゃない。子供たちは孫を連れて、まめに遊びに来てくれる。文句なんか言ったら罰があたるかもしれない。それでも傍らに誰ひとりいない生活は、ときどき、やりきれない思いにさせられる。 もちろん、いまさら鉄平とどうこうと言うわけじゃない。あの人が逝ってしまった今、昔の甘酸っぱい思い出の象徴まで壊されてしまったら、自分はどうしていいのかわからなくなってしまうのだ。 校舎はみすずの淡い恋の象徴だった。 守っているのは思い出なのだ。 そう思いつつも、きっとこの男には理解できないだろうと、黙ったまま下を向くみすずに男は追い討ちをかける。 「旦那がいなくなって、ひとり寝はさびしいってか?助平なおばさんだ」 大切な思い出を、無残に打ち壊すかのような言葉。みすずは怒りに震えて男をにらみつける。それでもあいてはやくざのような男だ。飛び掛りたいのを必死にこらえて、みすずはこぶしを握っていた。 男はますます調子に乗って、みすずを馬鹿にする。怒ったみすずが飛び掛ってくれば、わざとその攻撃を受け、傷害事件だと騒ぎ立てるつもりなのだ。それがわかっているから、みすずは何を言われてもひたすら耐えつづけた。 そこようやく、みすずの息子たちがやってきた。彼らはみすずを助けるというより、逆に説得にきたのだ。このまま性質(たち)の悪い連中と敵対していては、みすずの身が危ないからである。 「母さん。もうあきらめよう」 「小学校は町の持ち物だ。母さんががんばっても、町が決めてしまえばどうしようもないんだよ?」 息子たちは本当に母親を心配していた。それがわかるだけに、みすずも意地を張りつづけることがつらくなっていた。しかし、夫を失った今、かつていちばん愛した鉄平との思い出まで失われてしまっては…… しかし体力的にも、精神的にもみすずは疲れきっていた。 もう、あきらめるしかないのだろう。 長い長い逡巡のあと、みすずはついに首を縦に振った。子供たちから、安堵のため息が漏れる。 しかし陰険な地上げ屋の男は、下卑た笑いを浮かべながら、車に乗り込む寸前に捨て台詞を残した。 「結局、示談金を吊り上げたかったんだろうが?意地汚いおばさんだよ。何が思い出だ。男に抱かれたいだけだろう?50に手が届くようなババアが、薄気味悪いこと言ってるんじゃねえよ」 男の乗った高級車は、静かに走り出す。 怒りの声を上げる息子たちのそばで、みすずはぶるぶると震えていた。 と。 みすずは突然走り出した。 驚いた息子たちは、慌ててみすずを追う。すぐそばの家まで帰ると、みすずはGパンとレザージャケットに着替える。どうしたんだと驚いている息子たちを尻目に、ガレージへ行くと中から単車を引っ張り出してきた。
YAMAHASR500。 かつてのみすずの愛車である。キックスターターしかついてないので、体力的に無理を感じるようになってからは、まったくエンジンをかけたことがない。 「母さん。どうしたって言うんだ。500ccのバイクのキックスタートなんて出来るわけないだろう?歳を考えろよ」 諭す長男に振り向いたみすずの顔には、怒りと涙があふれていた。そして胸の中にも同じものがあふれている。 「いくつになろうと、大切なものはあるんだよ」 しかし、言葉にしてはそれだけ言うと、みすずはSRにまたがった。 デコンプレバーを握り右足でキックペダルをゆっくりと動かすと、上死点を探る。ピストンが一番上まできたことを感じ取ると、そのまま思いっきり体全体でペダルを蹴った。 息子が止めに入ろうとした瞬間、眠っていたビックシングルエンジンが弾けるような雄叫びを上げる。驚いて一歩あとずさった息子たちに向かって、みすずは不敵な笑みを見せた。 「歳も力も関係ないんだ。要はタイミングとハートなんだよ」 言うと同時に、SRはみすずを乗せて駆け出した。 シングルエンジンの太いトルクで、蹴飛ばされたような加速をしながら、美鈴は先ほどの男の車を探して走る。街中を抜け、男が向かったであろう高速道路のインターを目指し、ひたすらにアクセルを開けた。 インター入り口付近で男の車を見つけたみすずは、怒りを込めてさらにアクセルを開けた。逃がすものか、とつぶやきながら怒りに燃えて単車を操る。 そのとき。 高速の出口からやってきた単車が、こちらに向かってパッシングライトを浴びせる。いぶかしげにそちらに目をやった瞬間、みすずの頭から、地上げ屋の男など一瞬にして消えてしまった。 みすずの乗っているのとまったく同じSRが、こちらに向かってやってくる。そして、その単車を操っているのは…… 「鉄平っ!」 叫びながらSRを路肩に停めると、反対車線で同じように停まったSRにむかって駆け出す。みすずの頭の中は真っ白になっていた。 その男、鉄平は白いものが混じり始めた頭髪を掻きながら、しわだらけの顔に満面の笑みを浮かべていた。そして、みすずが近づいてくると、やさしい顔のままで両手を広げる。 みすずはその腕の中に飛び込んだ。 「久しぶりだなぁ?」 穏やかな声を聞きながら、みすずは懐かしい胸の中で、少女のように泣きじゃくった。あとからあとから、止め処もなく涙があふれてくる。その間ずっと、鉄平はみすずを抱きしめていた。
やがて、ようやく落ち着いたみすずは、鉄平とともに近くの公園にゆく。 そこでお互い、今までの話や昔の話をたくさんした。やはり妻を失いひとりで暮らしていた鉄平は、中学校取り壊しのニュースを聞いて、とるものもとりあえず飛んできたらしい。みすずは延々と語りつづけ、ついに話は先ほどの地上げ屋のところまでたどり着いた。 「そうか、そりゃあ悔しかったろう?」 こくりとうなずいたみすずの顔は、少女のころのそれのように、あどけなく素直だった。同じく、いろいろな経験をしわに刻みながら、それでも鉄平のやさしい笑顔は昔のままである。 「だが、もういいんじゃないか?」 不思議そうに見返すみすずに、鉄平は続けて言った。 「もう、思い出を守らなくてもいいんじゃないかって言ってるのさ。よかったら、これから俺と新しい思い出を作らないか?」 たっぷり十数秒の間、みすずは固まった。 それからまた、ぽろぽろと涙があふれ出してくる。 あふれ出した想いが堰を切った瞬間、みすずは鉄平の胸に飛び込んだ。 二人を包むように、いつのまにか雪が降り出している。 「お互いの相手に、墓参りがてら報告に行かなくちゃな?」 鉄平の言葉に何度もうなずきながら、みすずはいつまでも泣き続ける。 公園の入り口に並んだ単車に、薄っすらと雪が積もり始めていた。 |