アイエル
深夜バスから降りた男は、ステーションの出入り口に立ってあたりをくるりと見渡す。かつてはにぎやかであっただろうバスステーションの周りも、今は寂れて灯かりのついている所はほとんどない。

「これならむしろ、何もないほうがいいな」

とつぶやきながら、それでも男は明かりのほうへ歩いていった。

トパーズタウンで一番下品な酒場、ニックズカフェの寂れたカウンターに陣取ってテキーラを。出てきた岩塩を齧ってテキーラをあおると、ようやくひと心地ついたのか男の眉間が緩んだ。

店の隅に置かれたピアノに気づくと、グラスを持ってその前に座る。と、女がそばに寄ってきた。大分酔っ払っているのか、足元がふらふらと定まらない。

「ねえ、アレを弾いてよ」

「まさか、アズタイムゴーズバイなんて言うんじゃねえだろうな?」

女は一瞬、驚いた顔をして固まった。次の瞬間、ふたりは顔を見合わせて笑い合う。それから、長いこと調律されてない弦の切れまくったピアノで、男は器用にデキシーミュージックを演奏し、陽気な音楽に誘われて女は踊った。

静かな音楽よりよっぽど、このしたたかで乱暴で下品な店にはぴったりだったようだ。酔いつぶれて店の隅で寝ていた何人かの男たちも起き出して、店の中はひと時の狂騒に包まれる。

やがて男達が本格的に沈没してしまうと、女と男は、壊れかけのグランドピアノにグラスを置いて、ゆっくりと呑みはじめた。

「この町ははじめて?」

「ああ。シケた町だと思っていたが、なかなか楽しかった」

「それはあなたのおかげよ。普段はいつも死んだように静かだもの」

男はにやりと笑って、テキーラをあおる。

「踊りがうまいんだな」

女は自嘲気味に、微笑みと泣き顔の中間のような表情でつぶやく。

「これでもね、昔は少しは名の知れた踊り子だったの」

「今は?踊らないのか?」

男の質問に、悲しげな微笑みを浮かべながら女は答えた。

「この町に、踊りを楽しめるような余裕のある人間はいないよ。みんな疲れ切ってるんだ」

店の中を沈黙が支配する。やがて男がポツリと口を開いた。

「ひとが疲れているのは、どこも同じさ。寂れているのは、なにもココだけの話じゃない」

「そうなの?」

「ああ。だから俺は、住み慣れた町を見限ってここへ来たんだ」

男は自嘲気味に唇をゆがめる。

「ふうん、新天地を求めてってわけ?でも、おあいにくさま。ここも見た通りよ。とてもじゃないけど、新天地なんて気の利いたところじゃないわ……ミスターアイエル」

女の言葉に、男の表情が固まる。

「どこかで見たような気がしてたの。あなた、「第7銀河」のアイエルでしょう?」

男は無表情のまま答えない。

「どうして伝説のジャズバンド「第7銀河」のピアニストが、一人でこんな田舎町に来たのかは聞かないわ。でも、この町はあなたみたいな成功者の来るところじゃない」

「成功者……ね。まあ、昔の話だ。実を言うと、故郷から逃げてきたのさ。ステキなことを探しにね」

女は寂しそうな顔で答える。

「言った出しょう?この町には、あなたにとって刺激的なものなど、何一つないのよ」

男はグラスのテキーラをゆっくりと呑み干すと、酔いつぶれているマスターをまたいでカウンターの中に入り、新しいボトルを持ってくる。そしてその中身を女のグラスに注ぎながら、にっこりと笑った。

「そうでもないさ。君に会えた」

女は一瞬、これ以上なく美しい恥じらいの表情を浮かべた。それからふいに我に返ると、はじけるように笑いだす。

「危ない、危ない。その手で何人落としてきたの?ミスタープレイボーイ」

「100人から先は覚えてない」

いたずらっぽくそう言って笑う男に、女が突然襲い掛かる。女に荒荒しく唇をふさがれると、男は黙って女の背中を抱いた。

長い長いキスのあと、甘いため息を漏らしながら、女は上目遣いに男を見る。この上なく可愛らしい表情だ。それを受けて、男は優しく微笑んだが、しかし、ゆっくりと首を横に振る。

穏やかな拒否に、色っぽく唇を尖らせた女は、突然立ちあがって腕を組み、上から見下すように笑った。しかし、その笑いには何の邪気もない。

「ちぇ、引っかからなかった」

「くっくっく。下から見上げる、すがるような目つき、か。そういうのに弱い男は多いな。しかし残念ながら、俺はそこまで素直に生きてこなかったんだ。惹かれるより先に警戒しちまうんだよ。ヤボな話だがね」

「ふふん。ヤリたい一心で心にもない甘いセリフを並べられるより、よっぽど気持ちいいね。警戒するってコトは、少なくともナメてないってコトでしょう?」

「さぁな。それも手かもしれないぜ?」

「抱きたいって言ってくれるなら、抱かれてもいいよ。寝入ったところで、財布持って逃げるかもしれないけれど」

男は声をあげて笑い出す。

「それも悪くない。どっちにしろ、俺にはもう先がないんだ」

不思議そうに小首をかしげて、女は無言のまま先を促す。しかし、男はそのまま黙り込んでしまった。

と。

ガタン!

突然店の扉が開き、大男が入ってくる。

「この売女が。また男あさりか!」

警官の制服を着たその大男は、女に向かってそう怒鳴ると、くるりと男に振り向いた。アイエルと呼ばれた男は、グラスを傾けたまま警官のほうを見ようともしない。

「アイエルだな?ちょっと来てもらおうか」

警官の言葉に振り向いたアイエルは、ゆっくりと首を横に振った。

「断る。あんたと遊んでるひまはないんだ」

「じゃあ、こうするしかない」

警官は、腰から抜いた拳銃をアイエルに突き付ける。横から女が嫌悪感たっぷりの声音で叫んだ。

「あっちにいけよ、このインポ野郎!アタシは「男」にしか用はないんだ」

「俺も淫売には用はない。用があるのはこっちの人殺しだけだ」

激昂していた女は、警官の一言で言葉を失う。確かめるようにアイエルを見るが、彼は無言のままピアノの前に座っていた。

「コノヤロウはな、ライヴハウスのオーナーを殺してバンドのギャラを奪い、てめえの女まで殺して逃げてきたんだ。ここら一帯の警官が血眼になって探してる、すごぶる付きのお尋ね者なんだよ。てめえも刻まれちまうところだったんだぞ?この淫売が」

そう言われて、女は急に笑い出した。

「人殺しならそれでもいい。あたしを殺すってんならそれでもいいさ。あんたみたいな弱虫にそんな口を利かれるくらいなら、いっそアタシも人殺しになって一緒に逃げるよ」

バシン!

言い終わる前に女は、警官の平手打ちを食った。

しかし女はキッと警官をにらみつけると、突然スカートをたくし上げて、内もものホルスターから拳銃を取り出して警官に向ける。男のほうに行こうとしていた警官は、それを見て固まる。

「動かないで!そのまま銃を下におろしな!」

あっけに取られた警官は、女の瞳の中に本気を感じ取ると、素直に従った。警官の銃を店の隅まで蹴り飛ばすと、女は大声で叫ぶ。

「出ていけ!」

「すぐに応援の警官隊が来るんだ。どうせその男は逃げられない。バカな真似はよすんだ、ジェイミー」

「あたしの名前を呼ぶなって、何回言ったらわかるんだ。いいから早く出ていけ。本当に撃ち殺すよ?」

警官はうなだれたまま、店を出てゆく。

しばらくの間、痛いほどの静寂が店の中を包んでいた。やがて、アイエルがぼそりとつぶやく。

「おまえまで、お尋ね者になることはなかったろうに。あの警官はおまえのことを心配していた。彼はおまえの恋人じゃないのか?」

女は拳銃を下ろしてため息をつくと、ピアノの上にあったグラスをつかんで、一息にあおる。

「恋人「だった」んだ。シティでいちばん勇敢な刑事と、シティでいちばん売れっ子のダンサー。それがあたし達だったのさ」

女……ジェイミーは誰もいない壁に向かって、顔に皮肉な笑いを貼り付けたまましゃべる。

「キッド……彼の銃の腕は最高だった。早撃ちキッドなんて言われて、ちょっとした有名人さ。そしてアタシも、遠からずハリウッドからお誘いが来るだろうと言われていた、有名人。みんなのあこがれのベストカップルって奴さ。笑っちゃうよね」

軽い笑い声を上げるジェイミーを、しかし、アイエルは無表情で見返すだけだ。肩をすくめたジェイミーは、グラスをとって唇を湿らせると話を続けた。

「ところが、ある強盗犯を追っているとき、やけくそ気味に放たれた一発の銃弾が、彼の股間を直撃したんだ。幸い命に別状はなかったけれど、その日、キッドの「男」は死んだ」

「だが、それは彼のせいではないだろう?少なくとも……」

「あたりまえだよ!私はそんなことで彼を見捨てるほど、半端な惚れ方をしてたわけじゃない。ずっといっしょにいるつもりだった。でも……」

そこで言葉を切ったジェイミーは、言葉を探してしばらく考え込んでいたが、結局うまい言葉が見つからなかったのか、絞り出すような声でつぶやいた。

「私が彼を捨てたんじゃなくて、彼が私を捨てたんだ」

「……そうか」

「そうだよ。私を抱けなくなった彼は、すべての自信を失っちまった。酒におぼれ、私が仕事に行くのさえ、ののしるようになった。ほかの男と寝てるんじゃないのか?声に出しては言わなかったけれど、彼はそんな猜疑心に蝕まれていった。結局、私のことなんてカケラも信用していなかったんだよね」

ジェイミーのうつろな笑い声にかぶせるように、アイエルが言う。

「それでも、許してやるべきだった」

「冗談じゃない!私はずっと彼を見捨てなかった。ずっと愛してがんばったのに、その報酬は疑いの目なんだ。それでも私は耐えた。別れを切り出したのは、彼のほうなんだ」

「がんばる必要も、耐える必要もなかったんだ。彼のことを支えるとか、彼を見捨てないとか、そんな気持ちは必要なかったんだよ。ただ、黙ってそばに居ればよかったんだ。なにもしないで」

一瞬、怒りに刈られて爆発しそうに見えたジェイミーは、しばらく考えてから、あきらめたようなため息をつく。

「だろうね。それが彼の自尊心を傷つけずに立ち直らせることのできる、一番の方法だったんだろうね……でもアタシはそれができなかった。傷をナメあいながら彼が立ち直るのを待つなんて、私にはできなかった」

「ああ、お前はそれに気づいていた。だから彼が気に入らないんだろう。自分の負い目を…本当は負い目なんかじゃないけれど…彼を見るたびに思い出してしまうから」

「うるさいっ!」

ジェイミーは吼えた。アイエルはそれっきり黙る。

また、長い沈黙が訪れる。しばらくしてジェイミーが口を開いた。

「ごめん。図星だったから、カッとなったみたい」

「いや、俺がしゃべりすぎた。てめえのコトを棚に上げて、偉そうにな」

「人を……殺したの?」

「ああ」

「彼女も殺したって……」

「ああ、殺した。ライヴハウスのオーナーとデキてやがったんだ」

「ふうん。でも、なんとなく貴方らしくないみたい。なんて言えるほど、あなたの事を知ってるわけじゃないけれど」

「そうかい?」

「うん。貴方なら男にイッパツ入れた後、クールな嘲笑を浴びせる方が似合ってると思うな」

「それは、ステージで演奏している俺のイメージだろう?実際の俺は、そんなクールな男じゃない。オーナーは俺の友達だった。女は俺のことを相談しに行っているうちに、つい、なんて言っていたがね。最後まで聞かないうちに、引き金を引いちまった」

「ふうん、意外ね」

ジェイミーの言葉に薄く笑いかけたアイエルは、突然、背中を折ると、ゴホゴホと咳き込んだ。

あまりに長く咳き込んでいるため、心配になったジェイミーが背中に手をやろうとすると、ようやく落ち着いた顔を上げる。

その口元はどす黒い血にまみれていた。伸ばしかけたジェイミーの手が、そのまま固まる。凄惨なその顔をしばらく見つめてから、ジェイミーは苦しそうな声で言った。

「その血……黒い血。あたしのオヤジといっしょだ……」

真っ青な顔に脂汗を浮かべながら、アイエルは微笑んだ。はかない、透き通るような微笑だった。

「もう、だめなんだ。全身に転移しちまって、手のつけようがないんだよ。くくく……死ぬなら絶対、肝硬変だと思っていたんだけどな」

「が、癌……?」

ジェイミーの問いには答えずに、アイエルは夢見るような顔でつぶやいた。

「アイ・エルってのはさ、アイアン・リバーの略なんだ。鋼鉄の肝臓さ。バカみたいに飲んだくれている頃、そう呼ばれてたんだ。その鉄の肝臓も今じゃ、テキーラ二、三杯でこの始末さ」

表が騒がしくなる。どうやら警官隊が到着したようだ。

「引き金を引いたのは、ふたりが俺を裏切ったからじゃないんだ。多分、俺は探していたんだよ」

「探していた?なにを?」

「ヤツラを殺す理由を、さ」

「それほど前から憎んでいたの?」

ジェイミーの言葉に、アイエルは一瞬ぽかんとした後、慌てて首を振った。苦笑するその口元は、黒ずんだ血で汚れている。

「ちがう、ちがう。憎んでなんかいないよ。俺は死んじまうのに、二人が生き残っていたら、可哀想じゃないか。二人を連れてゆくための理由だよ」

「可哀想?ふたりが?あなたが?」

「両方さ。俺たちはずっと一緒だったんだ。おっと、勝手だなんて怒らないでくれよ?引き金を引く瞬間、ふたりとも確かに微笑んでいたんだ。あいつらも俺と同じ気持ちだったのさ。間違いない」

「でも、それなら何で、そのときいっしょに死ななかったの?」

アイエルは嬉しそうに微笑んだ。しかし、その瞳はすでに焦点を失っている。

「もうすぐ死ぬよ。でも、その前に一度だけ見ておきたかったんだ。俺の愛した女の生まれた町を。俺が世界でただひとり、本当の名前で呼ぶことを許した女の故郷を」

それからもう一度狂ったように咳き込んだ後、突然、静寂が訪れる。

「アイエル?」

アイエルは静かに目を閉じた。

ジェイミーは優しくそのほほに触れると、ささやく。

「ねえ、あなたの本当の名前はなんていうの?」

その言葉に薄く目を開けたアイエルは、弱々しく微笑みながら右手を持ち上げる。そして立てた人差し指を唇の前に持ってくると、片目をつぶった。

「ふふふ、ケチんぼね」

ふたりでもう一度笑った後、アイエルは静かに、眠るように逝った。

ジェイミーは優しくその髪をなでつづける。

 

扉が開いて、警官隊が入ってきた。ジェイミーは彼らに向かって先ほどのアイエルと同じゼスチャーをすると、小さな声でつぶやいた。

「もう、逝ってしまったわ」

救急車が到着して、アイエルの遺体とともに警官隊も立ち去ってゆく。最後に残ったのは、キッドだけだった。キッドは、ジェイミーに向かって何か言いたそうにしていたが、結局一言も発しないまま店を出てゆく。

その後ろ姿に向かって、ジェイミーが声をかけた。

「ねえ、キッド」

雷に打たれたように立ち止まり、キッドは恐る恐る振り返った。ジェイミーはイタズラっぽい笑顔で、小首をかしげると言った。

「アタシたち、まだチャンスはあると思うんだけど?」

それは今までキッドが見た中で、最高に素敵な笑顔だった。

参考:Take E train by 矢作俊彦・大友克洋

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