彼の秘密
細心の注意が必要だ。

決して誰にも見られないように。決して誰にも気付かれないように…

二駅先の待ち合わせの場所に、俺は30分前に到着した。彼女の携帯に電話すると、スリーコールで可愛らしい声が聞こえてくる。俺は思わず緊張を忘れ、ニヤついてしまった。いかんいかん、ぼうっとしていると、大変な事になってしまうぞ。

交差点の向こうに彼女を見つけると、嬉しくて勢いよく手を振った。彼女もこっちに気付いて手を振り返してくる。信号が青になるのをもどかしい思いで待ちながら、俺は彼女を見ていた。

黒いタイトなワンピースのシックな装いにもかかわらず、見ているこっちが身もだえしてしまいそうになるほど可愛らしい。実際、誰もいなければその場でごろごろ転がってしまいたいほど、俺はむちゃくちゃに嬉しかった。尻尾があれば、確実に千切れるほど振っていただろう。喉が鳴るなら、ごろごろ鳴らしていたろう。

青信号と同時に彼女のもとに駆けつけると、俺は彼女の前に立つ。デートのルートは決まっていた。俺は彼女の手を握ると、少々早足で歩き出す。この際、焦っていると思われようと構うものか。実際、焦っているんだし。

俺は周りの目を気にしながら、下調べをしておいた店に彼女を連れてゆく。感じがよく良心的な店で、結構本格的なフランス料理を出すのに、値段の方は手ごろ。その上ソムリエが親切で、料理にあわせた美味しいワインを、俺の乏しい財布の中身まで考慮して選んでくれるのだ。

何よりこの店は小さくて目立たない。表から店内も伺えないし、観葉植物を上手に配置してあるので、テーブル同士のプライバシーも、かなり上手に守ってくれる。ここでようやく安心した俺は、心の底から彼女との食事や会話を楽しんだ。

だが、身についた習性というのは恐ろしいものだ。

自分でも気付かぬうちに、俺は店に入ってくる客をいちいちチェックしていたようで、ついに彼女が声をあげた。

「どうしたの?誰か来るの?なんだか落ち着かないみたい」

「い、いや、そんな事ないよ?」

「怪しいな。明日のバレンタインは仕事だって言うのも、ウソなんじゃない?誰か他の人と合う約束してたりして」

「そ、そんな訳ないじゃないか」

しどろもどろになりながら、どうにか彼女に許してもらい、それからは意識して入り口のほうを見ないようにしていた。それがまずかった。

ふと気付くと、俺の周りの席三つほどが、男だけになっている。フランス料理店では珍しい光景と言っていいだろう。そのうちのひとりと目があったとき、俺は自分の甘さを思い知った。

奴らだ……

ここまで包囲されては、逃げる事は出来ない。いや、彼女の存在を知られた時点で、どこへ逃げても同じことだ。

彼女はそんな俺の様子を、いぶかしそうに眺めている。もう、誤魔化すのは無理だ。どちらにしてもすべて終わりだ。俺はため息をつくと、彼女に向かって話し始めた。

「すまない。君の存在を奴らに知られてしまった。君を恐ろしい目に合わせたくない。俺と会うのはこれが最後だ」

彼女は驚愕に目を見開いた後、食って掛かる。

「どういうことよ?きちんと説明して」

「俺はある組織に所属している。非合法な集団だ。そこでいろいろと、悪辣な事をやってきた。しかし君と出会ってから、俺は何とか組織を抜けようと試みた。君と幸せに暮らしたかったんだ。しかし、それはどうやら無理な夢だったようだ」

俺は自嘲気味にため息をつくと、周りの男達をあごで示す。彼女は周りを見回した後、不思議そうに俺の顔を見返した。まあ、一般人なら彼らの持つ悪の臭いを嗅ぎ取れなくても仕方ない。俺は説明を続けた。

「周りの席すべてが男達ばかりだろう?みんな組織の工作員だ。奴らに嗅ぎつけられては、もう、君と一緒にいることは出来ない。君がつらい思いをするのは、俺には耐えられないんだ」

彼女は俺の言葉を聞き終わると、グラスのワインを俺の顔にぶっかけて叫んだ。

「バカじゃないの?そんなわけのわからない嘘をつかないで、私と別れたいならはっきりそういえばいいじゃない!男らしくないわね。そんな卑怯な男はこっちから願い下げよ。馬鹿にしないでっ!」

彼女はバッグを引っつかむと、席を蹴って出て行った。

 俺は涙がこぼれないように、しばらく上を見たまま放心していた。

やがて、絶望と諦めが俺の心を満たしてゆく。

涙が乾いたときには、俺はいつもの冷酷な笑いを取り戻していた。

ゆっくりと立ち上がると、男達が俺の周りに集まってくる。ひとりひとりの無表情な、プロフェッショナルらしい顔を見ながら俺はゆっくりとうなずいた。

「これでよかったのさ」

と、心の中でつぶやいてみる。空しくて悲しい言葉だけれど、でもこれは真実だ。たとえあのまま彼女と付き合っていても、どうせいずれは別れる事になるのだ。それは確実だ。

なぜなら、彼女は俺と付き合った瞬間から、中途半端なイタズラによって、微妙な凹みを与えつづけられるのだから。

例えば、

トイレットペーパーを使おうとすると、中三分の一にだけスポイトで水が注入されていた。

飲み会が終わって帰ろうとすると、靴が店の右の隅と左の隅に、ひっくり返されて分けられていた。

買い物に行ってカートを使うと、いつのまにかカートの中にグラム1000円の国産黒毛和牛が入れられていた。

焼肉屋で着いた席のタレの蓋が取り替えられていて、甘口と辛口を間違ってしまった。

そんな微妙な凹みを絶えず与えつづけられ、その中途半端なイタズラは徐々に彼女の精神を蝕み、ついには俺との別れを決意させるだろう。

彼らの仕事は繊細にして完璧だ。それは誰よりも俺が知っている。なぜなら彼らを率いるリーダーは俺自身なのだから。

仲間を差し置いて俺だけが幸せになろうとしたのが間違っていた。俺はいっそうの固い決心をすると、仲間に向かって激励の言葉を吐く。

「明日はバレンタイン。大事な日だからな。いつも以上に気合を入れて、嫌がらせのイタズラを、いや、正義の鉄槌を下してくれ」

男達が、力強くうなずく。俺はそれを頼もしく見つめながら、リーダーとしての責任と自覚に襟を正す思いだった。

さあ、おまえら、ついて来い。

ラヴ狩り団、出動だ!

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