姫の憂鬱
巨大な屋敷の高い高い塔の窓辺に、人影がある。

この屋敷で「姫」と呼ばれている女、リタのものだ。

リタはこのところ、ずっと窓の外を眺めたまま、ある人物を待っていた。誰かが聞いたら、ひっくり返って笑うだろう、その待っている人物とは、「王子様」である。

本当の王子ではなく、彼女をこの鳥かごから救い出しにやってくるはずの、「白馬の王子様」だ。

具体的にあてがあるわけではないが、リタは確信していた。

王子様は必ずやって来る。

救いに現れたそのたくましい胸に抱かれて、私は冒険の人生を歩みだすのだ。

彼女はもう、夢を見るような年齢ではなかったが、しかし、心の底からそれを願っていた。退屈で夢のない現実と日々戦いながら、いつか来るはずのその日を待ち続けていた。

「姫様、お食事の用意ができました」

「いらないわ」

執事に向かってそっけなく応えると、リタは窓の外を見たまま夜風に長い髪をそよがせている。執事は手のつけられていない豪華な昼食を片付け、さらに豪華な夕食を並べると、一礼して部屋を出る。

リタは贅沢な暮らしをしていた。

しかし、その心は決して満たされることはない。

どれだけ豪華ですばらしい生活が出来ても、最も欲しいただひとつのものが手に入らないのだ。

彼女が求め、心待ちにしているのは、自由の象徴であり彼女を救い出す者。王子様だけなのである。

リタは大きなため息をついて、窓の外を見るのをやめた。少しくらいは食べておかないと、もしも、王子様が来たときに、みっともない姿になってしまう。そんな心配をしながら、機械的にスープを口に運んでいた。

と。

カラン。

小さな音に振り返ると、ベランダの手すりに金属製のフックがかかっている。

これは! もしや!

あわてて駆け寄った彼女の前に、大きな影がひらりと舞い降りた。

高い背。たくましい胸板。その上にはなんとも魅力的な優しい顔が乗っている。突然現れたその男は、微笑みながら、恭(うやうや)しく跪(ひざまず)いた。

どくん。

リタの心臓が、思い出したように早鐘を打つ。

「あなたは……王子様?」

男はやさしくうなずいた。

リタの全身に、電気が走る。次の瞬間、彼女は我を忘れて叫んだ。

「王子様! 私の王子様!」

男は指を立てて口元に持ってくると、小さく「シィ」と言った。リタがあわてて口を押さえると、またもにっこりと微笑んで、低い、穏やかな声で話す。

「姫様、あなたをお迎えに上がりました」

リタはうんうんと強くうなずくと、あふれる喜びを抑えきれず、男に飛びつく。男は両手を広げてリタを迎えると、強く、リタが今までされたことがないほど力強く抱きしめた。

少し苦しいけれど、その数倍の喜びに包まれて、リタは涙を流した。厚くたくましい胸の中で、歓喜の涙を流した。

「それでは参りましょう、姫様」

階下が騒がしくなってきたのに気づき、リタの手を強く握った男は、そのままぐいと引き寄せて、軽々と抱き上げる。

ああ、夢にまで見た瞬間だ。

リタは気を失わんばかりの幸せとともに、男の首筋にぎゅうと抱きつく。

リタを抱いた男はひらりとベランダへ出ると、今度は彼女を背中に負ぶい、鋼のような両腕でがっしりと縄をつかむ。次の瞬間には、するするとロープを伝い降りてゆき、ものの数秒で階下に達した。

背中のリタをくるりと前に回し、またお姫様抱っこをすると、まるで何も抱いていないかのごとく、風をまいて走り出す。刺激的な経験に、リタは顔を真っ赤にして、ただ、彼にしがみつくばかり。

これなのだ。

人生とは、こうでなくていけないのだ。

リタを抱いた男は、あっという間に暗闇に消えた。

 

しばらくして、もたもたと集まってきた家の者たちは、口々に怒りの叫びを上げる。とはいえ、内心ではみな、完全にあきらめていた。

彼女を誘拐して捕まれば極刑は免れないのだから、向こうも相当の準備をしてきているのだろう。このわずかな人数では、彼らを追ったり、対抗したりできるはずもない。

だいたい、もはや追っても追いつけないであろう。

男たちは、不安そうな顔で話し合った。

「どうする? このままじゃあ、俺達……」

「どうもこうもないさ。だいたい今どき、この人数で姫を守れって言うのが間違ってるんだ。警備費をケチった王様がいけないのさ」

絶滅の危機に瀕している、保護生物「女」。

世界の人口の数%しかいない彼女らは、どこでもおおむね「姫」と呼ばれる。そして、たいていの国の人間は、その保護者、つまり「姫」の持ち主を皮肉って「王様」と呼ぶ。

保護対象となった「姫」たちは、まるで大昔の王侯貴族のように扱われるのだが、しかし、自由恋愛は出来ない。自由に恋愛させるには、彼女達は貴重すぎるのだ。

完璧な管理の下で飼われる「姫」たちの卵子は、慎重かつ厳密な計画で世界中に分配される。

人類存続のため、という美名の下に。

その生ける宝石である「姫」たちをねらう不心得な者どもも、当然ながら存在する。彼らは「姫」をさらってはそれを莫大な金に換えることを生業としていた。

女の大切さを理解しないその愚か者どもは、人々に侮蔑をこめてこう呼ばれる。

「密猟者」と。

男たちは「姫」と「密猟者」の消えた暗闇に向かって視線を泳がせながら、不安そうに話している。

「でも、やっぱりどこも同じなんだな。どうしてどこでも「姫」たちは、贅沢な生活を捨ててまで、「密猟者」と逃げるのだろう?」

「ふん、俺達にわかるわけがない。女って言うのは、不思議な生き物なのさ」

「そうかな? 俺はわかるような気がするよ。どれだけ贅沢な暮らしだって、かごの鳥じゃやってられないのじゃないか?」

「そんなことあるもんか。女って言うのは、男とちがって、ひとっところで暮らすことに、幸せや喜びを見出すって聞いたぞ?」

いくら言っても答えが出るわけではなく、彼らはやがて黙り込む。

 

そう、彼らは知らないのだ。

女というのは「恋」をしないと生きられないのだと言うことを。

 

暗闇に、幸せそうな姫の笑顔が見えたような気がして、男たちはなんとなく去りがたいまま、いつまでも闇を見つめていた。


index