地獄におちて
「あぁ……まあそうだろうなぁ」

かっちりとスーツを着込んだ、予想外な姿の番人に連れてこられた場所を見て、男はにやりと苦笑を浮かべる。善人とは程遠い生き方をしてきたのだ。まあ、地獄行きは順当なところだろう。

始めからそう達観していたので、ことさら悲嘆にくれることもなく、男はあっさりした表情で、番人に向かって質問した。

「それで?俺はどんな罰を受けるんだい?」

番人は黙って指差す。その向こうには、幾多の亡者が、天空に浮かぶ天国の扉を求めて醜い争いを繰り広げていた。

「ははぁ、なるほど。地獄の責め苦ってのは、鬼がやるわけじゃないんだな?亡者同士で争い、殺しあうわけか。まあ、考えてみりゃ、その方が効率的だもんなぁ」

それからスーツ姿の番人に向かって、片目を瞑(つむ)ってみせる。

「なあ、ここもなかなか合理的じゃないか。これなら、人件費はあんたの分だけで済むものな?もっとも、あんたが給料をもらってるかどうかは知らないけど」

男のふざけたセリフにまったく無反応のまま、番人は争いの繰り広げられている光景を指差す。「行け」と言う意思表示なのは、間違えようもない。

「あっちじゃ雇用が少なくて困ってるってのに、こっちじゃ人手不足かよ。なかなか、ままならないものだね」

番人に向かって肩をすくめると、男はそう軽口を叩きながら、のんびりと歩き出した。

しかし、そこはやはり地獄だった。

ぐずぐずに腐った薄気味悪い山を登りながら、頂上の扉に向かって手をのばし、亡者たちはお互いに殺しあっている。もっとも、もう死んでいるのだから、殺しあうと言っても肉体に傷害を加えるだけのことだ。

他人を蹴落とすために、文字通り蹴りつける。足を引っ張るために、文字通り足をひきちぎる。

最初その姿を静観していた男は、やがて彼らの登る山が何で出来ているかに気付いて、さすがに慄然とした。

その山は死体で出来ていたのだ。いや、ここでは死ぬことができないのだから、死体ではない。引きちぎられ、ばらばらになった人間が、死ぬことも出来ずにうめき声をあげながら踏みつけられているのである。

「こうなりたくなければ、戦え、と言うことか」

男は仕方なく戦いに参加する。

しかし、そこは新参者だ。コツをつかめないまま、あっという間に肉塊と化し、うめき声をあげることになる。痛くて、苦しくて、情けなくて、つらくて、そしてなにより、悔しくて悔しくて。

男は涙を流した。

するとどうだろう、男の身体が徐々に再生をはじめたではないか。しばらく驚いていた男は、やがてすっかり元通りに再生し、同時に全てを理解する。

「なるほどね。つまり「意志」があるうちは再生できるわけか。無限の戦いに疲れ、あきらめ、心が折れた時、この足元の死体の山となって永遠に苦しむわけだ」

得心した男は、再生したばかりの両腕を振り上げて、亡者どもの群れの中に飛び込んでいった。

 

戦って、戦って、戦い尽くす。

どれほどの時が流れたのだろう?

男はついに、天国の扉に手をかけた。飛び掛ってきた最後のひとりを蹴り落とすと、次の連中が上がってくる前にと、扉を思いっきり開けた。

刹那。

周りを包む光景が一変する。

せせらぐ小川。あたりに漂う優しい風と、それにのって運ばれてくる果物の甘い香り。鳥の声。目に染みる緑。そして……穏やかに微笑む人々がそこにいた。

「あぁ……やっと……」

男は感慨に胸を熱くしながら、人々のそばへおそるおそる近寄る。人々はそんな男の心配が馬鹿馬鹿しくなるほど、穏やかで親切だった。男は心からの安らぎを得る。

やがて近寄ってきた美しい女が、男にやさしく微笑みかけた。

「ふふふ、まさに天使の微笑ってヤツだな」

「ありがとう。今日いらっしゃったのね?」

「ああ、地獄からやってきた」

「それは大変だったわね。でも、そんな日々も、もう終わり。これからはここで、穏やかに暮らせるようになるわ。あなたさえ望むなら」

「もちろん望むとも。それじゃ、俺は今日からここの住人なんだね?」

「一週間ほどしたら、神様がいらっしゃるわ。その時、ここで暮らすことを望めばいいの」

「なるほど、そこで本契約ってことか。それじゃ、それまではおとなしくしてたほうがいいのかな?」

「ふふふ、ここでゆっくりすごしていれば、一週間なんてあっという間よ」

「違いない。それじゃ、まずはここを案内してくれるかい?」

返事の変わりに差し出された手を取り、男はその美しい女と、楽園をゆっくり散歩した。

あぁ、何という穏やかさ。なんと言うすがすがしさ。人々は笑い、鳥と戯れ、美酒に酔いしれる穏やかな日々。

これこそ求めていた、まさに天国……

そして、一週間が過ぎた。

「おまえはここにいることを望むか?」

優しい笑みを浮かべる皆の前で、しかし、男は神の問いにゆっくりと首を横に振る。あの美しい女が、驚愕に目を見開く。

それが、男が天国で見た最後の光景だった。

 

地獄の入り口に立つ男に、番人が近寄ってくる。

相変わらずきっちり決めたスーツ姿で、黙って亡者の群れを指差した。男も黙ったままうなずくと、自信に満ちた足取りで歩き出す。

その後ろ姿に、番人がぼそりと声をかけた。

「馬鹿な男だ」

男は振り返ると、無邪気とさえ言えるほどの、開けっぴろげな笑顔で微笑んだ。

「かもな」

「一週間で、飽きてしまったのか」

「くくく、あれほど長い一週間はなかったよ。穏やかで、優しくて、ただそれだけの世界が延々と続くんだぜ?」

「生前、ライバルや商売敵を蹴落として、自力で成功を収めてきたおまえだ。きっと、戻ってくると思っていたよ。おまえたち競争社会の世代は、みんなそうだ」

そこで初めて、番人は少しだけ笑みのようなものを浮かべる。そして、亡者どもを指差しながら言った。

「あいつらも、な」

それを聞いた男は、心の底から嬉しそうに笑った。しばらく笑った後、歩き出そうとした男を、またも番人が呼び止める。

「いくら戦いが好きだと言っても、報酬があれじゃ面白くないだろう?」

無言のまま、不思議そうにこちらを見つめる男に向かって、番人は、今度こそはっきりと笑顔を浮かべながら言った。

「今度神様に会えたら「次の地獄へ」って言うといい。もっと苛烈な競争が待ってる」

黙ったまま、しばらく番人の言葉の意味を噛み締める。

そして、男は大きくうなずいた。

「ありがとう」

その瞳はキラキラと輝いている。

それから男は子供のように歓声を上げながら、亡者のひしめく地獄に向かって駆け出した。

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