| ガンダーラ |
| そこにゆけばどんな夢も叶う、愛の国ガンダーラ。 わたしはその入り口に立っています。 はるかな旅路を経て、ようやくここまでたどり着いた私の胸の中に、深い感慨が広がります。しかし、いつまでもそうしているわけにはゆきません。 私はついに、ガンダーラの入り口をくぐりました。私の夢、「真の仏」に少しでも近づくために。 そう、ガンダーラから帰ってきた僧は、みな、高潔で無私無欲なすばらしい僧侶になるのです。私の師もガンダーラから帰ってきたとき、この上なく穏やかで無私無欲な、まさに生き仏となっていました。 私は期待に胸を膨らませて、中へ踏み出しました。 ああ、しかし、なんと言うことでしょう。 入り口をくぐった私の眼の前に広がっていたのは、まさに地獄のような光景でした。 ある者は、泣きわめきながら己の首に短剣を突き立て、自らの命を絶っています。ある者は、恐怖の叫びをあげながら、周りの人間に向かって剣を振りまわしています。またある者は、その周りで恍惚の表情を浮かべてよだれをたらしています。 いったいここは、本当に私の目指した愛の国ガンダーラなのでしょうか? 私はあまりの事に目の前の惨劇から目をそむけ、もときた道を引き返そうとしました。ところが、振り返った先にあるはずの、今くぐってきたガンダーラの門が、跡形もなく消えていたのです。私は恐慌に陥(おちい)りそうな自分を押さえ、冷静さを保とうと努力しました。 「アナタの願いはなあに?」 突然かけられたその言葉に振り向きますと、そこには奇跡のように美しい女性が一人、ほとんど全裸に近い格好で立っています。 私は僧ですから、淫らな欲望を押さえる修行をいたしております。しかし、その私でさえ思わず立ちくらみがしてしまうほど、その女性は美貌にして妖艶でした。 彼女は立ちつくす私に近づいてくると、細くしなやかな両腕を首へ回し、息がかかりそうなほど近くまで顔を寄せてきます。 「お嬢さん、私は修行中の僧です。どうかその腕を解いて、もう少し距離をとっていただけませんか?」 「なぜ?お坊さんなら、淫らなことはなさらないのでしょう?それとも私に欲情していらっしゃるのかしら?」 私は返す言葉もなく、気まずさをごまかし、この国について質問しました。 「ここはガンダーラではないのですか?どんな夢も叶うといわれている」 すると彼女は、うふふと淫猥な笑みを浮かべます。 「ここはガンダーラよ。アナタの言う通り、どんな夢も叶う、愛の国だわ」 「私には、地獄にしか見えません。愛の国だなんて、とても」 「愛ってなあに?」 予想外のせりふに、一瞬言葉が詰まります。しばらく考えてから、私は言葉を選びながら話しました。 「慈しみの心です。自分を、他人を、すべてを慈しむ心ではないでしょうか?」 「ええ、そうね。では、愛を表現するときは、一体どうすればいいと思う?」 「………」 「お坊さんは否定するかもしれないけれど、ふつう人は誰かに愛を伝えるとき、肉体的な接触や相手の望みをかなえるの。いえ、単純な望みだけではなく、相手のために良かれと思ってなにかをするのよ。たとえば子供のためを思う親は、間違ったことをしたら叱るでしょう?たとえ、そのとき子供に憎まれても」 「肉体的な話はともかく、親が子供を叱るのが愛情だと言うのはうなずけます」 「ふふふ、あくまで肉欲は否定するのね?お坊さんは不便だこと。まあいいわ。つまりね、とにかくこの国は、ここを訪れた全ての者に、惜しみなく愛を与えるのよ」 「しかし、それではこの惨状は……」 「あれはね、彼らが望んだことなの。人の心の奥には、自分に対する嫌悪や、他人を恐れたり害する気持ち、快楽を求める心が必ず潜んでいるわ。その中でもっとも強い感情を、この国が叶えてくれるの。死にたいものは殺してあげる。恐れるものはもっと恐れさせてあげる。快楽を求めるものは、強い快楽を与えてあげる。全て愛ゆえの結果よ」 「愛ゆえの……」 それは違うと否定したかったのですが、彼女の強い調子と、人とも思えない強烈な存在感、オーラのようなものが、私の口をつぐませました。 「アナタも、心の奥底を開放しなさいな。あなたの望みは何でも叶えてあげる」 ああ、このとき私は遅まきながら、ようやく悟ったのです。 ガンダーラを包む不思議な空間、人々に「愛」を与えるもの、そのすべてが彼女なのだと言うことを。 ガンダーラは、この不思議な女によって作り出された、幻想の空間なのだと言うことを。 と同時に、心の奥底を冷たい濡れた手でつかまれたような感覚に気付き、私は慄然としました。 このままでは、今まで必死になって修行し、押さえつけてきた欲望や、もっと昏(くら)く汚いどろどろとしたなにかを開放してしまいそうです。 「私を帰してください」 必死になって哀願すると、女はほとんど優しいと言ってもいいような美しい微笑みを浮かべて、首を横に振りました。 絶望感にとらわれた私の心が、暴走しそうになります。私の目の前に、恐ろしいなにかが、姿をあらわそうとしています。 私は歯を食いしばって恐怖に耐えながら、両手を合わせて経を唱えました。一心不乱になってお経を唱えているうちに、やがて、恐怖の心は去ってゆきます。 しかし、ほっとしたのもつかの間、緩んだ私の心に、今度は淫らな妄想が膨らんできました。目の前では、わずかな布で身体を隠したあの女が、挑発するように淫猥な踊りを踊っています。 私は目を瞑って、またも一心不乱に経を唱えます。 どれだけの時間が過ぎたかは見当もつきませんが、ようやくその欲望の魔の手からも逃れることが出来ました。 私は穏やかな気持ちに包まれて、悟りました。私の師も、こうやって高潔な僧となったのでしょう。そう思うと、むしろ女のいろいろな誘惑を、逆に受けて立つような気持ちになりました。この試練に打ち勝ってこそ、私は…… とめどなくそんなことを考えているうちに、私はまたも突然悟ります。 違う!いけない!この穏やかで幸せな気持ちとて、私の望むもの、すなわち欲望ではないか。 私は戦慄しながら、改めて心を平静に保ちます。そうやっていくたびも、形を変え、姿を変え、襲ってくる欲望と戦いました。
本当にどれほどの月日がたったのでしょうか?今や私はどんな欲望も跳ね除け、どんな事態にも動揺しない、完全な平常心を身につけました。 ここしばらく姿を見せなかった例の女が、突然姿をあらわしたときも、私の心はさざ波ほどにもゆれません。 「まったく、強情な人だね。私の負けだよ。出口を開けてあげるから帰りなさい。アナタにここにいられると、他の者までよくない影響を受ける」 「私はここにとどまりますよ。そして、欲望に負けて命を失うものが出ないように、みなを救います」 「それが困るのさ。さよなら、お坊さん」 彼女の言葉と同時に、ガンダーラは姿を消し、気が付くと私は、朽ち果てた太古の王宮の中庭に、ひとりぽつんと立っていました。 しばらくあたりを眺めていましたが、もはやガンダーラへ入ることが不可能だと悟ると、私は生まれた国を目指して帰路につきました。
帰りの道中に立ち寄った宿屋で、他の人の話から、実は私がガンダーラを訪れてから、一日しかたってないことがわかりました。もっとも私の心は、そんなことでは驚いたりしないのですが。 いいえ、私はもはや、どのようなことに対しても、驚いたり感情を揺るがせることはないでしょう。ガンダーラでの長い戦いの日々が、私から感情を奪いました。 私は生きて呼吸しているだけで、心はすでに死んでいるのです。死んだ人間を仏と言うのなら、私はもう仏になったのです。 それがすばらしいことなのか、忌むべきことなのかは、感情をなくした私には判断しようがありません。 しかし、時々あの女の顔を思い浮かべると、もしかして、あのまま欲望に身をゆだねていた方が幸せだったのかな?と思わないでもありません。 そんなときは少し寂しいような気もするのですが、私に感情は残っていませんから、きっと気のせいなのでしょう。 |