| 桜木 |
| どれだけの時代を生きてきたのだろう。 その桜の老木は、ずっとそこに立っていた。うねるような太い根を大地いっぱいに張り伸ばし、大人三人でようやく手が回るほどの太い幹を真っ直ぐに、悠然とその丘に立っていた。 そして俺は、その桜を殺すために、そこに立っていた。 しばらく丘の下からその雄姿を眺めていたが、いつまでもそうしているわけには行かない。万感の思いを込めて丘の上に上ってゆく。まだ花を咲かすには早いが、それでも小さな芽が顔を出して、精一杯生きようとしている。 俺はその姿を見ないようにしながら、桜の大木の前に立って大きく息を吸い込む。それからスコップを振り上げ、根元に一撃を加えた。地面を掘り返してみて初めて、スコップが、いや、俺自身がいかに小さいかを思い知らされる。 途方にくれながらも、俺は手を休めることなく地面を掘りつづけた。時々根っこにぶつかると、そこだけ新しい木肌が顔を出す。土の中に顔を出した真新しい傷は、まぶしいほどに美しく痛々しい。 根っこの見えている丸みから大体の太さの見当をつけて掘り進むのだが、根っこは「別に真円になっている必要はなかろう?」とばかりに下へ行くほど太くなる。俺は手を止めて老木を見上げた。 抜けるような青空の中に、桜はめいっぱい手を広げて清清しく立っている。これだけの巨体を支えているのだ。地面に張った根は、それこそ気が遠くなるくらい広がっているだろう。 作業の見通しは暗かったが、桜の大きさが嬉しくて、俺はにやりと笑った。袖口で汗をぬぐうと、スコップを握りなおして地面との格闘を続ける。かなり掘り進んで下の境界の見当がついたので、今度は横に向かって掘り広げてみる。 根っこの流れに沿って掘り進むが、進んでも進んでも端っこが見えてこない。やっと根の端にたどり着いたときには、老木の幹からだいぶん離れてしまっていた。まさか、ここまで広く根が張っているとは。 表面に近いたった一本の根っこの全貌を見るだけで、これだけの時間がかかったのだ。すべて掘り返して老木を倒すためには、いったい後どれだけ掘ればいいのだろう? だが、投げ出すわけには行かない。これは俺の義務であり、俺だけの仕事なのだ。タバコに火をつけると、ゆっくりと吸い込んで吐き出す。冬の冷たい風の中に、青い煙が踊った。 煙の中に妻の顔が浮かぶ。 彼女は俺を元気付けようと、身体を襲う痛みに耐えて最後まで笑いながら逝った。息子はその手を握り締めながら、涙ひとつこぼさずに彼女を看取った。そして、彼女の弔いが済むと何も言わずに消えていった。 息子の行き先はわかっている。だからこそ俺は悲鳴を上げる心臓をどやしつけ、老体を引きずってここまできたのだ。なんとしてもこの桜を倒してしまわなければならない。 俺のやる事も息子のやる事も、きっと何の意味もない事だろう。それでも俺と息子はやるのだ。 大戦後、敗北した日本には外国が大挙して押し寄せてきた。やつらは、前回生き残るためにプライドを投げ出した我々が、今回もそうするだろうと踏んだのだろう。 しかし、今回は生き残った数が少なすぎた。自分達の使う武器の強力さを甘く見ていたのか、それとも我々がここまで弱体化しているとは思ってみなかったのか?とにかく奴らはやりすぎたのだ。日本人はやつらの戦前の見通しを大きく下回る、十分の一しか生き残れなかった。 そして日本民族は地下に潜った。 国土を蹂躙され、好き放題に荒らされても、我々には戦う力が残っていなかったのだ。だが、もちろんそれは戦争をする力がないという事であり、ゲリラとなって抵抗する力がないという事ではない。ベトナム戦争が俺たちのいいお手本になった。 俺たちは地下に潜り、連合軍に対してゲリラ戦を挑んだ。民間人に対して攻撃する事が出来ないという国際法を逆手にとって、俺たちはひたすら隠れながら、連合軍の拠点をつぶして回った。 もともとすでに日本の人口の三割以上が日本人ではなかったのが、俺達に幸いした。俺たちは在日民間外国人の陰に隠れて、ひたすらにゲリラ戦を仕掛ける。ついに業を煮やした連合軍は、日本民族を国際指名手配した。 今も日本人は世界中で狩られている。 もともと黄色人種蔑視のつよい西欧や米国では、まるで獣を狩るかのような調子で日本人狩りを行っている者もいると聞く。はじめは抵抗せず、なすがままになっていた一部の日本人も、日本人であるというだけで狩られる身となってしまっては、戦うしかない。 生き残った我々はそうやって戦いつづけていたのだが、どうやらこの地域の日本人はあらかた狩られてしまったようだ。先日のじゅうたん爆撃が、偶然とは言え我々の秘密基地の本部を直撃したのが最大の原因だろう。爆撃は、多数の仲間と共に、俺の妻の命も奪った。 息子は今ごろ、爆破された基地の跡に向かっているはずだ。万が一、そこに少しでも他の基地の情報が残っていては、別の地域で戦っている仲間が危ない。生き残ったものは、別の地域の仲間を守るために証拠隠滅の工作をするのだ。 もちろんすでに基地の跡には敵が入り込んでいるだろう。息子はおそらく生きては帰れまい。しかし、息子を止める事は出来ない。それが正しいとか間違っているとかの問題ではなく、信念を持って生きる者が、その信念を貫こうとしているのを止める事は、おそらく誰にもできる事ではないからだ。 だから俺は、俺ができる事をする。 この地方にたった一本だけ残った桜。日本民族の象徴である桜。 この木が機械や爆弾で蹂躙される事が、俺にはどうしても我慢できない。だからその前に、桜を愛した俺の手で倒すのだ。 俺のやる事に意味はない。正しいかどうかも知らない。 ただ、妻を殺され国土を踏みにじられ、老いた身体で戦う事さえ出来ない俺ができる事が、それだけだからやるのだ。 掘り返した土の山の前で、俺はまた休憩した。さっきから心臓がおかしなリズムを刻むようになってきている。どうやら、そろそろのようだ。 遠くで爆発音が聞こえた。息子かもしれない。他の誰かかもしれない。どちらにしてもあの爆発で、またひとりかそれ以上の同朋が死んだのだろう。もっとも、流す涙は俺にはもう残ってないが。 汗を拭き、スコップを取り上げて桜の下を掘りつづける。 だいぶん掘りつづけたのだが、それでも桜の根っこはその十分の一も顔を出してはいない。桜の下には死体が眠っているというが、どうやらここで眠るのは俺になりそうだ。 桜の下で死ねるならいいか、とか、冷静に考えれば俺ひとりでこの巨木を倒す事など不可能だとか、色んな言い訳が頭をよぎる。俺はそのたびに手を止めて桜を見上げる。 美しい。 そして、自分がその美しい大木をスコップで傷つけながら倒そうとしているという事実を、しっかりと見つめる。何て醜いんだろう。その醜さに逃げ出したくなる心を抑えて、俺は自分に言い聞かせる。 言い訳などするな。自分を誤魔化すな。自分のやっている事を美化するな。己の醜さをしっかりと認識して、自分で決めた事を成せ。 そう言い聞かせて、俺は地面を掘りつづける。 丘の上で、桜を殺すために、俺は土を掘りつづけている。 |