あきらめる時
目が覚めたら、落ちていた。

いや、受験の話じゃない。人生の話でもない。 文字通り上から下に落下し続けているのだ。いったい何が起こったのだ? カイモク見当がつかない。

俺はパニックになり、闇雲に暴れた。しかし、自由落下中は無重力。ただ強烈な風が下から吹き上げて、俺の体を叩き続けるだけだ。

どうする? どうする? どうする?!

しかし、暴れようが何しようが、無重力の中では何の足しにもならない。

やがて俺は落ち着いてきた。あきらめたと言ってもいい。これじゃあ助かりようがないな、と腹をくくったところで、不意に気がついた。

何かを背負わされている。

リュックだろうかと思ってよく見ると、確かにリュックのような形をしていたが、そこに詰まっているものは、何よりもすばらしいものだった。

パラシュート。

何てこった、コレなら助かる! 先ほどくくった腹は、あっという間に意気地をなくした。俺は急いでパラシュートの紐を引っ張る。

ぷち。

切れた。

これじゃあ、パラシュートは開かない。俺はまた絶望の淵に立たされた。こんなことなら、むしろパラシュートなんかなかったほうが、よっぽど穏やかな気持ちで逝けたのに。クソ、バカにしやがって。

俺はやけくそになってパラシュートの紐を放り投げた。そして本体を背中からはずし、捨てようとして、すんでのところで思いとどまる。

まて、あわてるな。あきらめるな。

少なくとも裸で落っこちているよりは、ずっと希望が持てるじゃないか。パラシュートが開かないなら、開いてやりゃいいんだ。あせってやけくそになるのが、一番バカだぞ? 危ない、危ない。

はずしたパラシュートをよく見てみると、紐の先が出ている。コレを引っ張ってやればいいんだ。

しかし、ここで引っ張ったらパラシュートは開くと同時に俺の手をすっぽ抜け、はるか上空に逃げていってしまうだろう。落ち着いて行動しなくては。

下を見ても、深い霧のような雲にさえぎられ、地面は見えない。それは不安でもあるが、しかし、刻一刻と近づいてくる地面が見えない分、あせらずにすむともいえる。

俺は自分でも驚くほど冷静に、ズボンのベルトをはずし、パラシュートの切れた紐と結びつけた。何度か引っ張って強度を確認すると、改めて身につける。コレで万事OKだ。さあ、パラシュートを開くぞ。

ぐいっ。

しゅるるる、っと小さなパラシュートが上空に飛び出した次の瞬間。

ばっ! ぐん!

パラシュートが開き、俺の体は上空へ引っ張りあげられた。しばらくそのまま、息を殺して様子を伺う。やがてパラシュートが完全に開き、何のトラブルもないことを確認して、俺は大きく息を吐き出した。

助かった。

後は、のんびりと空中の散歩を楽しむだけだ。

 

前後左右上下、とにかく周り360°。

ミルクのように濃厚な雲だか霧におおわれて、俺は相変わらず落ち続けている。もう、どれだけ落ちているのか、見当さえつかない。まあ、どうでもいいことだけれど。

ほんの数時間前までは、地面に達する期待を胸に、今か今かと下を見続けていたのだが、それももうやめた。数分前に、俺の希望はすべて打ち砕かれたのだから。

上空から落ちてきた、一本の紐。

そう、俺が捨てたパラシュートの紐によって。

投げ捨てたはずの紐が、上から落ちてきたのだ。風に吹き上げられたとか、よく似たほかの紐だとか、なんとか理由をつけてみたのだけれど、それも一時間と持たなかった。

3度目に紐を目撃したとき、俺は考える気力を失っていた。ただ、 何がどうなっているのかは判らないが、これだけはなんとなく想像できる。

俺はもう、地面に立つことがない。それだけはおそらく。

絶望に殺されかけながら、しかし、それでも俺はパラシュートが捨てられないでいた。何もなしで落ちる恐怖のほうが強かったのだ。

それに、あきらめなければ、もしかしたら打開策が見つかるかもしれない。

あきらめるな、あわてるな。

自分に言い聞かせながら、しかし、心のどこかであきらめてしまっていたのだろう。俺は何もせず、ただゆっくりと落下し続けた。

 

まだ落ちていた。

俺はやせ衰え、しわだらけになり、目もかすんできている。しかし、やはり地面にはつかない。もしかしたら、いや、おそらく俺は地面につく前に、老衰で死ぬだろう。

もう、いいじゃないか。

どうせもう、老い先短い命なのだ。

パラシュートを捨てよう。

決心するまでにずいぶんとかかってしまった。それに、悔いのない人生とはとてもいいがたい。しかし、だからこそ最後くらい、何か行動して前向きに死んで生きたい。

長いことはめたままだった安全装置は錆び付いていて、俺がはずそうとするとギシギシと抗議の声を上げる。肩紐は食い込み、もはや身体の一部のようだ。

苦労して安全装置をはずすと、パラシュートの肩紐に手をかけた。ぶら下がったままの人生は、俺の手足から筋肉を奪っていたが、それでも何とかパラシュートをはずすことに成功する。

ひゅぅ!

支えを失って、俺の身体は自由落下を始めた。下から吹き付ける風が急速に俺の体温を奪う。老いた身体には酷な話だ。

しばらくガタガタ震えながら落ちていた俺は、やがてだんだん意識が遠のいてゆくのを感じ、やっと死ねるんだと、むしろ満足な気持ちで目を閉じた。

 

気がつくと俺は、見渡す限りの荒野に倒れていた。

自分の身体が大地に横たわっている懐かしい感触に、俺はあわてて飛び起きる。間違いない。

大地だ!

俺は奇声を発しながら駆け回り、地べたに何度もキスをした。しばらくそうした後、ふいに、今度は急激な疲労と脱力に襲われる。取り返しのつかない後悔とむなしさが、俺の身体を包んだ。

はじめから、こうしていればよかった。

俺は恐怖に負けて、なんと無駄な時間を過ごしたのだろう。長い人生の大半を、パラシュートにぶら下がった過ごすなんて馬鹿なヤツ、俺以外にいるのだろうか。

あまりのやりきれなさに、老いて干からびた両手で顔を覆うと、俺は声を上げて泣いた。おうおうと慟哭し、頭を大地に打ち付ける。

やがて激情が去り、後には抜け殻だけが残った。

せめて、大地の上で死ねるのが慰めか。しかし、心も身体も重い。のしかかる絶望と後悔は、今の俺には重過ぎる。

俺は立ち上がり、とぼとぼと歩き出す。

やがて俺の行く手に何かが見えた。なんだろう? 近づくにつれ、それははっきりと輪郭を現した。

パラシュートだ。

俺はくしゃくしゃになったパラシュートに歩み寄る。長いこと俺を支え続け風を受け続けたその全身は、まるで俺自身のようにくたびれ果てていた。

急に、涙がこみ上げる。

そうだ。こいつは俺の身体をずっと支えててくれたんだ。俺が希望に満ちているときも、絶望に打ちひしがれているときも、何も感じなくなってからも、ずっと。

いわばこいつは、俺の戦友だ。

俺はパラシュートの残骸を拾い上げると、そっと胸に抱きしめる。それはなんだかやけに暖かく感じた。

そうだ、あきらめるのはまだ早い。

後どれだけ人生が残っているかはわからないが、死ぬ直前まで、全力で生きてみよう。俺を支え続けてくれたこいつの為にも。

俺は変化を恐れて人生を無駄にしたのかもしれない。俺の人生など、何の意味もないかもしれない。だが少なくともそれは、誰でもない、俺が判断することだ。

残りの人生を、生きて生きて生き抜いてみて、最後の最後に笑えたら、それでいいじゃないか。

いや、よくはないかもしれないし、後悔もたくさん残るかもしれない。だが、納得して死ねるかもしれない。少なくとも今よりは。

とりあえず、やってみる価値はある。

そう決心して抱いたパラシュートを見下ろせば、そのくちゃくちゃのシワが、なんだか笑い顔に思えてきた。


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