| 肯定 |
| 雨が横殴りに吹き付ける、嵐の夜だったと思う。 俺があの女を失った、あの夜のことだ。俺が道を見失った、あの夜のことだ。 雨のカーテンの向こうに、確かに誰かがいたんだ。誰かなんて知らなかった。そのひとは土砂降りの中を、雨なんか降っていないかのように、まるで春の花畑の中を歩いてくるみたいに、俺の前まで歩いてきたんだ。 多分、砂漠でも南の島でも、都会でも田舎でも、同じように歩いてきたんだと思う。それくらい普通で、それくらい自然だった。 俺は体の半分をちぎられたみたいな痛みに耐えながら、その時そこに立っていた。生きること、愛すること、信じることにくたくたになって、ボロ雑巾になってそこに立っていた。 愛して、愛して、愛し狂った、俺のすべてだった女との別れだ。そのくらい言ってもいいだろう? そのひとは俺の前まで来ると、ぐっしょりとぬれたままの姿で、なんともいえないやさしい微笑をくれた。そして、いぶかしむ俺に向かってただひとこと。 「YES」 何の気負いも衒いもない、単純なひとこと。 それで充分だった。 癒しなんて陳腐なものでは、決してない。歓びでも感動でもない。安心でもぬくもりでもない。 肯定。 ただそれだけが、ボロ雑巾だった俺を生かした。
そのひとは教祖だった。 彼の教団や信者のことは、俺にはどうでもいい。彼の教えや教義にも、何の興味もない。彼がどんな人間でも、俺には何の意味もない。俺は周りの人間が言うほど、彼を盲目的に信仰していたわけではないのだ。尊敬も、崇拝もしていない。 彼は俺を肯定した。 それだけが彼と俺の繋がりであり、それだけが彼のために俺が命を捨てる理由だった。そんな関係だった。 俺はあまり頭がよくない。だから、細かい機微に感じることや、気遣いなんてものがまるっきりできない。彼に対して有用な助言もできないし、教団の運営の助けになるような経済的、経営的知識もない。 そんな俺が彼のためにできることは、彼の邪魔をするものを排除することだけだった。彼のペテンを成就させることだった。彼のために役立てることだけが、彼の救いに対する俺なりの恩返しだったのだ。 ペテン。 そう、彼は断じて聖者ではない。彼自身も俺にだけはそう言ってくれたし、彼の行う奇跡のトリックや種明かしも、俺にだけはすべて話してくれた。 彼は断じて聖者ではなかったが、しかし優秀な精神科医で、カウンセラーで、啓蒙家で、革命家で、反逆者だった。それはどれも、民衆の必要としているものだ。 彼の説くのは「愛」だけだった。愚直に、まっすぐに愛だけを彼は説いた。時にはわかりやすい話で、時には恐ろしい話で、時には感動的な話で。手を変え品を変えあらゆる手管を尽くしつつ、それでも彼の説いたのは「愛」だけだった。 彼の教義は瞬く間に、人々を魅了した。
ある人間が民衆に対して絶大な人気を誇ると、それを非常に気に食わなく思う人種がいる。彼らは総じて、権力者と呼ばれる。 彼は権力者に疎まれた。権力者に疎まれた一般市民がたどる運命というものは、古今東西決まっている。 彼は殺されるだろう。 俺は彼を救うために、自分の命を捨てる覚悟だった。そしてそのことを彼に話した。彼はそんな馬鹿なことはしなくていいと言った。 それが俺にとって「バカなこと」どころか、一生をかけるに足ることだと理解してもらうまで、俺たちは一昼夜、話し込んだ。 「それならば、やってほしいことがある」 彼はついに俺を説得するのをあきらめると、朝日の中で輝くような笑顔を見せてそう言った。彼の美しい笑顔を見ながら、俺はふと気付く。彼の本当の奇跡は、この笑顔なんじゃないかと。 そして、その奇跡のように美しい笑顔から発せられた彼の計画は、俺の度肝を抜くのには充分だった。俺たちは慎重に、慎重に、それを実行した。
俺は彼を売り、彼のもとを去った。 詳しいことを知らない一般信者は、俺を裏切り者と呼んだ。もともと教団に対して何の思い入れもない俺は、そんなものそよ風にさえ感じなかったが。 そして彼の死刑執行の前日、俺と彼は入れ替わった。 俺は彼として死に、彼は新しい名前で彼の教団の幹部と共に、彼の教義を広める旅に出る。俺は彼として死に、そのあと彼は最後の大ペテンを行う。 死後の復活。 彼の描いた最高のシナリオだ。
俺は今、丘の上で磔(はりつけ)になっている。頭に茨(いばら)の冠を載せられて。 彼の教義を信じ、彼を慕う人々の前で、彼の代わりに死んでゆくのだ。望んだように、彼のために死ぬ。そしてそのあと彼は復活を遂げ、救世主として世界を救うのだ。彼の教えは世界中に広がるだろう。 そしてそれは俺の死をも「肯定」する。 俺の口元には、自然に笑みが浮かんだ。 |