空間の遺物、現存する空間




人は人に惚れるそのとき、一体何に惚れてるんだろう?

体感する人へ対する想いは常日ごろから変化し、変わらぬ想いなんて

あるはずがないのが必然的な真理ってもんだとも思う。

何故なら人は常日ごろから思考し、思考を変容しつつ進化し、あるいは退化するもんだから。

全てが論理の枠に包まれ、その枠の中で人は生活するわけではないのだから。



おれは恋愛的な観点から文章を書こうと思うとき、そこに必ず築き上げる空間の

定義を計る。

面白いもんで、おれがその定義を計るとき、そのときの心情に大きく思考の矛先を

委ね、回答をそこに求めない。

つまり存在しないものに便宜的に意味のない論理を強いり、満足感を得ようとする。



また既存の問いかけをしたい。人は人に惚れるとき、何を見て、何を感じてそこに

「付き合う」っつう便宜的な言葉を用いて新たなる掛け橋を作ろうとするの?

言語ってのは人に強い安心感と強制力を与えるものだ。

その言葉が発せられたと同時にその効力は当人同士になんらかの認識を及ぼす

影響力を持つ。

シニカルな言い方をするならばそこに意味なんてないものだと思う。

生物は誰に教わるわけでもなく自分の遺伝子を後生に残そうとあらゆる手を

尽くし、求愛をし、そして子を残す。

「そこに愛はあるのかい?」(江口洋介)

ないんじゃね〜の。



それでも人がこの言葉の効力により社会生活を営み、万物に意味を求めるとき

付き合うとかそういうことにも意味があるんだろうね。

事実おれはその言葉の効力をもって起源とした付き合いっていっぱいあったような気がする。



おれが惚れて、相手もおれに惚れて、そこに言葉という媒介を得て初めて恋愛が

成立するものなら、形式のないものにあえて形を作り出すことが安堵感の拠り所と

なるものであるならば、形のないものをなんらかの形で認識することでしか

気付くことないおれたち人間にとってのやっぱり最良の方法なのかもしれないね。



でも例えば思うわけ。言葉の効力にはいわんと知れた期限があるのはどうなのかなって。

「付き合う」という言葉の後にやってくる「別れる」って言葉が発せられたそのときから

二人は別途の存在として認識し合い、それ以上の蓋然性を求めない。

言葉の本質に確かか不確かが必ず存在するもんなのかね?



大切に思った人間が別途として存在することになんの違和感も感じないことなのが

普通なん?おれにはそういう生き方はできんような気がする。

恋人だって死んだ友達だってみんな大切な人間として自分の精神と時たま

合間見えることがあるから今おれはここにいて、その先にある未だ見えぬ

道に行き場を見つけて進むんだ。



愛したい、愛されたい。不透明な確かが明日にもまた。



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