「生きる」ということ








自分の人生の切断面を見てみると挫折、苦悩、

怒り、喜び、愛、様々な感情が入り混じって

一つの「人生」として常にその感情は自分と

共にある。



自分が生きていると実感するのは、自分が生

まれ落ちたときではなく、自分が自分と認識

できるようになったそのときである。

母親の体内から生を授かった我々は、

地球の鼓動の一部として生を授かった我々は、

神を信じないものにとっても神秘的な囁きを

光として受け止めないわけにはならない。

我々は「生」という光を育んでいるのだと。



我々は望んで生まれてきたのではない。

しかし「生」という光を体の内に授かった我々は、

ときたま訪れる愛という、喜びという光を感じ、

その光を「生」として受け止め、手放さないよう

我が「生」を抱擁する。



我が光の灯火は、何十年か先に小さくなりそして

いつしか消えてしまうだろう。しかし、我が生の

灯火を初めてみるのも小さくなりつつある灯火なの

である。生を感じ、生を愛しいものと形として認識

するのは長年「生」の灯火を燃やしそれが尽きる寸前

なんじゃないかな。



まだ20歳になったばっかりのこわっぱが何いってんだ

なんて思うだろうけど、なぜおれがそう考えるのかというと

おれは自分の燃える「生」の灯火を見たことがない。

感じ取ったことがない。

ただ「生」をぼんやり感じるのは、苦悩したときや挫折

を感じるときである。

しかしそれは「生」の灯火ではないようだ。

それが「生」の一部であることは確かだが、「生」

の光ではないんだよ、たぶん・・・・

本当の「生」の灯火は若きおれの内部にも存在するが

激しく輝いている故に見えない。しかし年を帯びた人と

会話をするとおれは時たま「生」の灯火をそれから

見出す。美しいなんともいえないその灯火は寂しく

そして力強い。その寂しくしかし力強い「生」を自分自身で

受け止めるのはやはりその頃なのであろうと感じる。

そんな灯火に出会ったときおれはそんなことを感じ

させられる。



「生」を育むものは、「生」を愛するだろう。

「生」を捨てたものは「生」に恐怖するだろう。



「生」を捨てたものは、一生「生」を見出すことができず

「生」を受け止めることができないであろう。「生」を

無意味なものだと信じ「生」の存在すら忘れてしまう。

「生」は無限であるが、それと同時に無にもなりえる。




では「生」とはいったいなんだ???

生きるとはどういうことなんだろう??



我々は生を授かり、生を育み、生を無くす。

無くすという表現はおかしいかもしれない。

我々は死すものの「生」は無限になりえるからだ。



「生」とはいったいなんだ??

「生きる」とは??



実はおれにもわからない。

正直なところ本当にわからない・・・

しかしおれが生きてることは確かだし、それを

探すにはまだ少し時間があるようだ。

ゆっくり探していきたい。

死すその瞬間に見つかれば御の字なのかもしれないが。





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