監視される社会の中での
自分の位置付け









我々は監視されている。

我々は社会によって管理されている。

あらゆる電子機器が発達し、

あらゆる物が人の手によって管理されるこの社会において

おれは常に自分ではない自分に、

そして流動的なこの社会のがんじがらめの

規則と原則に動かされているような感覚を感じていた。

パスカルは「人間は考える葦である」といった。

デカルトは「我考えるゆえに、我あり」と、

人間は考えるから存在するのだという。

しかし、考えるという人間にとって必然的であり、

かつ本質的なことが実は社会の管理システム

に組み込まれたものにすぎないのであるという。

管理の集中化、監視の強化によって魂のロボット化が進み、

民主主義が内側から崩壊する危険があるのだという。

しかし、人間が人間であるために人間は考えなければならない。

我々のアイデンティティーが社会によって

固定化されたものならばどうすればそこから逸脱し

真のアイデンティティーを確立することが可能なのかを。

おれが最近監視について考えたのは、盗聴法の可決についてである。

民衆の立ち上がりや、体制の崩壊で、盗聴され、監視される社会から、

一歩、一歩、自由な社会へ移行していった国もある。

しかしその間に、それらの国々では、自由な社会を求めて、

多くの人々の血が流れないまでも民衆の苦痛を伴った抵抗の歴史があった。

おれたちは、そんな国々を横目で見ながら、自由にしゃべれ、

自由に表現できるみずからの国をこよなく誇りに

思っていたのではなかったのだろうか?

なぜ不自由な国に逆戻りする道を選ぼうとするのだろうか?

おれが思うに多くの人間が管理され監視されることを

ある意味で望んでいるのではないかということだ。

それはつまり、皆が何からも制限されない

社会へ恐怖を感じているということに他ならない。

その中で生きることをおれたちは自分たちの意思で決定し実行したのだ。

当然その意思も管理されてきたこの社会から

生み出されたものであることは確かであるのだが。





人間は過去の人々が創造してきたものの上を歩いている。

それは、観念的なものであり、科学的な要素も全てである。

それを全て取り除いて人間として生きることは不可能である。

不可能だからこそ何からの制限も受けない世界に恐怖を感じるのである。

つまり、まったくの社会的管理なくしては、人間は人間として存在できないのだ。

人間が社会において生きていくために

他の人間や社会との関わりなくしては生きていけないのと同じように。





この管理社会においておれたちに求められるのは

固定されたゆるぎない観念なのである。

それは、管理されてもゆるぎない何かである。

自分の中で論理付けられた何かである。

それを人間一人一人が持ち続けることで

個々のアイデンティティーとともに

社会の発展につながるのであろうと思う。





戻る