赦しの世界へ       日本基督教団山谷伝道所 牧師 滝 栄子

タテの関係から始まる赦しの世界――.神様がわたしの罪を赦してくださったから、わたしも人を赦すヨコの関係へ――.

神様に教えられ、恵みを与えられて人を赦すことができるようになりました.でも、「赦し」とか「アガペーの愛」とかは、真実味を問われるものですね――.忍耐というと聞こえがいいのですけど、ガマンしていることの方が多いのでは?ガマンの子が夕べには酒を飲んでリラックス、では世間によくあるやり方.イエス様は「心を入れ替えて子どものように〜」(マタイ一八の三)と言われ、子供のような純真な、常なる喜びと祈りと感謝の輝きに満たされて(1テサロニケ五・一六、七)、そういう聖霊に入れ替えられていたいものです.殉教者たちの祈りは、驚くべきことには、全く愛と赦しの執り成しが遺言の中に占められているのを知りました.‥‥‥.

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道程           教会員  西川 政行

イエス様に出会いわたしは、信仰の道を歩き始めました.

しかし、わたしはイエス様から離れてしまい道が見えなくなりました.

イエス様に出会いわたしは、御国への競争に希望を与えられました.

しかし、わたしは御国への競争を走る力を失いました.

イエス様に出会いわたしは、真実の愛を知りました.

しかし、わたしは愛を失いました.

イエス様の道をわたしは、歩まず罪を犯し続けました.

わたしは深い淵の底からイエス様を呼び、救いを求めました.

イエス様は十字架の上から血しお滴るみてをひろげ、わたしに立ち帰れと呼びかけられました.

わたしは、よみがえり御国への競争を走り始めました.

イエス様、ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ、アーメン

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イエス キリストに会えて   教会員  野村 浩二

自分は、クリスチャンになって、はや2年目をむかえます.僕がクリスチャンになる前は、すごく、自分勝手、人にぼうりょくなどをして来ました.でも今の教会に2人の兄弟とあって,色いろとめいわくをかけていました.特にめいわくと言うのは、金せんもんだいにかんしてでした.この2人の兄弟たちにはすごくかんしゃしております.

さて話はかわりますが僕がイエス様をしったと言うのは、この方は、いくら自分みたいなわるものでも、くいあらためればゆるして下さることをしって、イエス様は、すごいお方だと思っていました.ところがそのイエス様に僕は助けられ、クリスチャンになることをゆるして下さったのです.今では、すごくありがたく思っております.このラザロつうしんを読んで下さっているあなたも、僕もこうなれたのですから、みなさんも、ゆうきをもって神様やイエス様に、ついていこうではありませんか.
今は、ほんとうに、ありがとうございますと言いたいです.
愛するイエス様のみなによって、みんなが平和でありますように         アーメン


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山谷に来るまで − 体験談 −      教会員  渡辺義明

 僕は、働いて金を貯めては外国へ行き、うろうろする生活を繰り返していました。何かを探し求めていたのです。夢、将来、幸せの青い鳥・・・。自分の事だけで頭が一杯で、人を傷つけ、捨て、犠牲にしました。エゴイスティックで、卑怯な自分でした。たどり着いたのは孤独地獄。酒もドラッグも救いになりません。瞑想も罪悪感には無力。オランダでレストランに住み込み、夜身を横たえると心を刺す過去の数々。不眠症になりました。

 ある日、もうろうとした状態で、人々が食事をしているのをボンヤリ眺めておりました。1人がスッと立って水を汲み、となりの男にもコップをトンと差し出したのです。その刹那(せつな)、声が頭に響き渡りました。「隣人を自分のように愛しなさい。」・・・自室に駆け戻り、三浦綾子さんの本を手にしました。「神に祈る」という言葉を子供のように見つめました。思わず膝を折り、「神さま!」と祈りました。自我がポキッと折れ、神様の御臨在を感じました。ノアの箱舟に入れられたかのような、不思議な心の平安が湧き上がってきました。初めての救いの体験でした。

 帰国し、本で知った山谷に来て3年半。キリストに従う道と思ってしたアオカン暮し(ホームレス)でしたが、この伝道所で洗礼を受け、今は新聞配達をしながら神の愛を学んでいます。僕の「青い鳥」は、イエス・キリストでした。



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 山谷へ来る道          教会員     草深 茂雄

 私が教会に行ってみようと思うようになったのは大学に入って、1,2年目の頃でした。その時、なぜ教会に行ってみよう思ったかという理由を思い出してみると、現実の世界に対して全く幸福感をもてずにいたからではないかと思います。

そのような時に、イエスさまを信じれば、死んだあとに天国に行って、永遠に幸せが与えられるというお話を聞いて、せいぜい70年か80年の幸せをこの世の中で追い求めるよりは、永遠の幸せを追い求めたいと思いました。そして自分はなんのために神様から命を与えられてこの世に生まれてきたのか、神様は私にどのような人生を生きることを望んでいるのか、その神様の目的を知りたいと思いました。

しかし、なかなか教会生活になじむことは出来ませんでした。人との交わりがとても苦手なため、教会における自分の居場所を見つけることが出来ず、教会に行くことにつらさを感じていました。また、教会が外の世界とのつながりを持とうとせず、教会の中の世界にのみ閉じこもってしまうようなサロン的雰囲気にも、違和感を覚えていました。

私は、昨年の10月から山谷伝道所にお世話になり、今まで通わせていただいていますが、その一番大きな理由は、自分が教会について抱いていた理想にとても近いものがあるということだと思います。教会内で何でも言い合える雰囲気や、外の世界に開かれている開放的な雰囲気など、他の教会にはないものがたくさんあると思います。

30年以上も、「根無し草」のように自分の居場所を探し求めていた時に、自分の根を張るにふさわしい場が神さまから与えられたように感じています。



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   250の惑星            教会員     河崎行繁

水金地火木土天海冥.

いわずとしれた太陽系の惑星の名前である.
夜空に輝くほとんどの星が単純な法則に従って空を移動しているように見えるのに対して、その中である特定の星たちがあたかも惑っているかのように不規則な動きをすることから、それらの星に惑星という名前があたえられた.惑星は自分自身が惑っているだけでなく、それらを観察した者をも大いに惑わせた.惑星は自分自身では光を発することが出来ない.ただ、太陽からの光を反射するのみである.そしてその反射光のほんの一部が地球に届き、それによって我々はその惑星の存在を知る.

これらのことを考えると、惑星はなんと人間に似ているのだろうと思わざるをえない.我々は惑う.そして、我々自身がまわりの人も惑わせる.我々自身だけでは光りえない.惑星は太陽から、そして我々は、イエスという方を通して、主から与えられた光を受けてその一部を反射する.他の人々はその反射光をみて私たちを認識する.しかもその反射光は、主からの光そのままではなく、その人自身の状態によっていろいろ変化して他者に伝わる.だから、一人一人その光りかたが異なる.そして個性が表れる.

今日も並んでいる.疲れ切った顔で隣の人ともほとんどしゃべらず、じっと道路に並んでいる.ただうつむきかげんで聖書の御ことばと説教に耳を傾け、給食を待つ人々.
給食はほとんど雑炊である.平均して250名程度の人が並ぶ.雰囲気に慣れた常連を除いて、ほとんどの人がもくもくと道路の一方に座って並んでいる.雨の夜でも寒風吹きすさぶ夜でも並ぶ.

正直に言うと、わたしはイエスをまったく忘れていると後で気がつくことが非常に多い.一人で祈っている場合でも、ふと気がつくと力んで観念的になっている.そんな状態のわたしではあるが、ごく自然にイエスに触れられるような気がする場面がある.それは日曜夜に道路上で行われる伝道会と、その後の給食の場面である.寒空のなかで一杯の雑炊を渡すときに「こんばんは、どうぞ」といいながら、わたしはできるだけ彼らの目を見る.髭だらけで疲れ切ったその目のなかにほんの一瞬ではあるがイエスを感じるような気がする.どうしてかは解らないが、ただ感じてしまう.次の人からはまた違ったイエスが感じられる.その感じが一人一人異なる.その人を通してしか感じられないイエスからのメッセージがあるような気がする.そして250人並べばイエスの250の側面に出会える.太陽系には惑星がたった9個しかないが、わたしは、日曜ごとに、250の異なった惑星に出会える.給食をすることは、彼らに一杯の雑炊を渡しているように見えていながら、実は、逆に彼らの一人一人を通してわたしは恵みを受けているのである.路上生活者とのふれあいにおいて、優劣、上下、彼岸此岸意識、偽善性のことがいわれる.私にもその意識があるのかもしれない.でも、そんなことより、今は素直にこの恵みを受けたい.

地球という惑星には60億の惑星がある.まだまだ未熟な私は、できるだけ多くの人と接してその中にイエスを感じたい.私というちっぽけな受け皿しか持っていない人間でも多くの惑星からの光を受けることによって、少しでも、イエスに触れられることを期待している.

でも、どうしても自問してしまう.

「お前は他人を通して光を受けているのに、お前自身は他人に光を渡しているのか?」

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